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56・女神を踏んづけろ

『とんでもない女ですね、女神っていうのは。カメリア街の高級娼婦も裸足で逃げ出しそうな性悪だ』



 ジーンが苦い顔で唸った。ガートルードはカメリア街を知らないが、雰囲気からして、前世の吉原遊廓のような花街なのだろう。



『ジーンは、性悪な女は嫌い?』

『……ものによりますね。性悪でも『敵わない』と思えるところのある女なら、好き嫌いは抜きにしても一目置くでしょうが』

『そう。じゃあ、祖国で崇められている女神を……王族に力を与えた女神を踏んづけて、落とし前をつけさせようとする王女は?』



 はっと目を見開いたジーンは、その王女が誰なのか、言われなくてもわかっただろう。なにせ目の前にいるのだから。



 くくっ……、と、ジーンはやがて気位の高い猫が喉を鳴らすような笑いを漏らした。



『っ……、それは、とんでもない……いえ、とてつもない姫君プリンセスだ』

『あら、性悪じゃないの?』

『小さな身体に大きな意志を秘め、自分より大きな相手に立ち向かおうとする姫君プリンセスが、性悪なわけがありません。それは性悪ではなく、気高いと言うんですよ』



 大きく息を吐き、ジーンはまだ浮かんでいる月を見上げた。直系王女の伴侶は月にたとえられるが、ジーンにとってはエメラインこそ月だったのだろう。闇夜を優しく照らし、不安を溶かしてくれる月の光。



『俺は、オズワルドしか見えていませんでした。あの愚劣な男さえ打ち倒せばエメライン様の仇を取り、すべてが解決するんだと思い込んでいた。……ですが殿下は、さらに先を見通していたのですね』

『貴方はまだ知らないことだけど、女神シルヴァーナは他でもたくさんの災厄をばらまいているの。それだけじゃ足りなくて、今度はオズワルドに力を貸し、お姉様たちを殺させてしまった』



 女神シルヴァーナがソベリオン帝国の初代皇帝にも手を貸していたことや、レシェフモートに対する仕打ち、ガートルードとヴォルフラムをこの世界に召喚したことなどは、後でジーンにも伝えなければならないだろう。七百年より前と後の女神は、別人ならぬ別神である可能性が高いことも。



『すべての陰に女神シルヴァーナがひそんでいる。だったらこの手で目の前に引きずり出して……』

『……踏んづけて落とし前をつけさせたい、というわけですか。ふふ、ははっ……、……素敵だ。殿下、貴方よりも素敵な姫君プリンセスは、世界中探しても見つからないでしょう』

『エメラインお姉様は?』

『エメライン様は俺の女神ですから』



 ジーンは笑みを引っ込め、真剣な面持ちで左胸に手を添え、腰を折った。優美な仕草は彼をモルガンにも負けないシルヴァーナ紳士に見せる。王女であるエメラインと並んでも遜色ないほどの。



『親愛なる俺の姫君プリンセス。このジーン、貴方が性悪女神を踏んづけて落とし前をつけさせるまで……いいえ、この命続く限り、貴方に忠誠を捧げると誓います』

『……ありがとう。ジーン……お兄様』



 いたずら心を出して付け足すと、ジーンはたちまち真っ赤になり、『おに、おに、おに……』とつぶやきながら震える手で顔を覆ったのだった。





 それから二人は出口の光を目指し、歩き続けた。溜まりに溜まったトラウマが消え去ったおかげか、ジーンにも出口は見えるようになっており、小さな妹を気遣う兄のように手を引いてくれた。



 と言ってもガートルードは前世では十三人きょうだいの長女、現世では五姉妹の末っ子。兄を持った経験はない。

 対するジーンには母親しかおらず、その母親も幼いころ貴族の『美女狩り』で失ってしまったため、兄経験はゼロ。



 初心者もいいところの『兄』と『妹』だったが、そこはお互い様なので、ぎこちなくも居心地のいい空気が二人を包んでいた。初対面の時からは想像もできないくらい。



(わたし、『お兄様』に憧れていたのかな)



 いや、それだけじゃない。ジーンだから……エメラインの形見だから、素直にお兄様と受け入れられたのだろう。筋から言えばエメラインの婚約者、ルシアンの方が『お義兄にい様』なのだが、ちょっとあの人と家族として仲良くなれるとは思えない。



(……女神シルヴァーナを踏んづけて、落とし前をつけさせる、か)



 ずっと考えていたわけじゃない。あの時、ふいに口を突いた言葉だった。

 自分でも驚いた。でも、それでわかった。



(わたしはずっと、ずっと女神シルヴァーナに怒ってた)



 二人いる女神シルヴァーナのうち、七百年より後……『始まりの乙女』に血を与え、レシェフモートを騙し、様々な災厄をもたらした方のシルヴァーナ。すべての元凶たる彼女に、ガートルードはずっと腹を立てていた。



 その感情さえ呑み込んでしまえたら、憧れだった食っちゃ寝ライフはこれからも守れただろう。レシェフモートとカイレンがあらゆる災厄から、ヴォルフラムやリュディガーたちが人間のしがらみから遠ざけてくれるはずだから。



 たとえオズワルドが災禍の嵐を大陸全土に吹き荒れさせようと、ガートルードさえ望めば、春風の中でまどろんでいられるのだろう。



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