26・転生ものぐさ王女と少年女神
本日は2話更新しております。
こちらは2話目です。
重苦しい沈黙が帳のごとく寝室を包み込んだ。
誰も口を開かない。だが誰もが理解している。ここにいる全員が同じ思いを、怒りの炎を燃え上がらせていると。
(……シルヴァーナ……っ!)
レシェフモートの全身の血が沸騰し、虚空に浮かび上がった狼と蜘蛛の影が乱れ狂う。そこへ大蛇と竜の影が交じり、悪夢のごとき光景を描き出す。
悪夢が現実を侵食しなかったのは、愛しく幼き女神の眠りをさまたげたくなかったから。万が一目覚めてしまった彼女に、怯えられたくないから。
最後の理性が二人の魔獣の王に歯止めをかけなければ、皇宮は王の影によって破壊され尽くしていたかもしれない。
「……俺はこの世界に大きな影響を及ぼす行動を取れない身だ。こうして現実に出て来られるようになってだいぶ制約は緩んだみたいだけど、それでも完全に自由になったわけじゃない」
常人なら垣間見ただけでも失神しかねない空気の中、少年が口を開いた。影の獣たちがぴたりと動きを止める。
「つまり、貴様が何者であるのかを答えられないのも、その制約とやらのせいか?」
「そうだ」
レシェフモートの問いに少年は即答した。つまり少年の素性は、この世界に大きな影響をもたらすということだ。
(だが、推測はできる)
きっとカイレンも同じ考えをめぐらせている。
ガートルードと同じ前世と記憶を共有し、女神シルヴァーナと同じ気配を持つ。女神シルヴァーナの行動を見続け、その本性まで知り尽くした少年。死なずとも痛みを感じないわけではなかろうに、魔獣の王二人の前に現れた。
少年をそこまで駆り立てたのは、おそらく。
「『女神シルヴァーナは二人いる』」
「……!」
静かに告げた少年を、レシェフモートはカイレンと同時に凝視した。
「神域でガートルード王女にも伝えた。神域を出たら覚えていられないはずだったけど、同じく神域に招いた、かん……ヴォルフラム帝がガートルード王女と共に自力で導き出した。きっと二人の記憶には残っているはずだ」
だからここで教えても問題ない、とこともなげに言い放った少年は、レシェフモートの推測を確信へ近づけた。
神域を展開できるのは神か神に縁ある者のみ。つまり彼は、あの忌まわしい女と並ぶ、もう一人の――。
「……女神、シルヴァーナ……?」
レシェフモートの問いがカイレンのそれと重なった。少年は肯定も否定もせず、思いがけない申し出をする。
「取引がしたい」
「取引……?」
「俺はそれなりに役に立つと、あんたたちもわかってくれたと思う。制約に反しない限り、なんでもしてみせる。だから、……だから……」
レシェフモートたちの背後に投げかけた少年の眼差しが、切ない光を帯びた。奥のベッドでは、ガートルードが深い眠りに落ちている。
「これから始まる女王親征で、俺がガートルード王女のそばにいることを認めて欲しい」
女王親征。
女王が自ら軍を率い、悪しき僭王を討つ。血と涙と悲鳴に彩られた、そんな世界へ。
「……妾たちが、可愛い姫御子を追いやると思っているのですか?」
カイレンの丈なす黒髪が風もないのに揺らめいた。底の見えない深淵のごとき瞳に睥睨されても、少年は怯まない。
「選ぶのはあんたたちじゃない。彼女だ」
「……」
「どれほど暗く険しくつらくても、彼女は選ぶ。家族の死の真相を突き止め、その仇を討つことを」
言われるまでもなく、そんなことはわかっている。
だからその前に破壊し尽くそうとした。危険の芽を死滅させようとした。
ガートルードを守るために。
……自分たち以外のなにも見せないために。
(だが、それでは……)
「……それでは、本当の意味で彼女を守ることはできない。僭王オズワルドはあの女の操り人形だ。オズワルドを王国ごと滅しても、あの女は痛くも痒くもない。代わりの操り人形を探すだけ……あんたたちだって、それは避けたいだろう?」
少年は的確にレシェフモートの心を読み当てる。ガートルードを懐にしまいこみたい欲望と、あの女への復讐心を天秤にかけさせる。
「俺は制約に縛られた身だが、あんたたちとは違う形で彼女をあの女から守れる。……頼む。そばにいることを認めてくれるだけでいい」
「……そうして、貴様が得る見返りは?」
無償の愛などという幻想を、レシェフモートは信じていない。カイレンもそうだろう。レシェフモートがガートルードを囲い込んで守るのは、愛しい女神を永久に自分のものにするという見返りゆえだ。
「すべてが終わった時、彼女の心のかたすみに住まえる。……それだけでいい。それだけで、俺は報われる」
完爾と胸を張る少年から一片でも偽りの気配を感じ取ったなら、レシェフモートは無駄と承知でその身体を細切れに刻み、蜘蛛糸で封じただろう。その後カイレンが溶けない氷で包み、日の光も届かぬ深海へ沈めたにちがいない。
だが二人は動かなかった。
(……本気、か)
魔獣の王は無償の愛を信じない。特に人間の口から出たそれは、絶対に。
だから、この時。
レシェフモートとカイレンの唇から漏れたのは、感嘆のため息だったのかもしれない。
あるいは称賛か。
己は絶対に持ち得ない美徳を、当たり前に持つ者に対する――。
「認めよう」
「認めましょう」
レシェフモートとカイレンは厳かに告げ、同時に手を伸ばす。
褐色の手と白い手が少年の額に触れた。
「……から、……に……」
誰かの声が聞こえた。レシェフモートでもカイレンでもない、知らないはずの……懐かしい声。
「……は、センス皆無のひどい名前しかつけないんだ。だったらポチとかタマとかの方がましで……」
ポチとかタマの方がましと思われるくらいセンス皆無のひどい名前ってなんだろう。すごく気になる。
「スーパーファビュラスエターナルクイーン……、とか……」
「……!」
遠くで息を呑む音が聞こえたと思ったら、きっちり閉ざされていた天蓋の帳が勢いよく開かれた。まぶしくて思わずかざした手に、ばささ、と軽やかな羽音と共になにかが舞い降りる。
「ちゅん」
「え……?」
小首を傾げる墨染色の小鳥を、ガートルードは呆然と見つめた。




