22・愛を歌う騎士(第三者視点)
「……陛下」
「ちゅん」
低く錆びた声と、愛らしいさえずりがヴォルフラムを現実に引き戻した。見れば、ジークフリートが気遣わしげに眉を寄せ、小鳥も執務机の上で小首を傾げている。ついさっきまで焼き菓子を執拗に狙っていたくせに。
ふっと緊張が抜け、ヴォルフラムはいつの間にか詰めていた息を吐き出した。
「ジークフリート、それを全部そいつにやってくれ」
「よろしいのですか?」
「さほど空腹ではないからな。ヨナタンもそいつのために用意したんだろうし」
ジークフリートはじっと小鳥を見つめ、小さな身体の前に皿を置いてやった。小鳥はつぶらな瞳をギランと輝かせ、黄金色に焼けたフィナンシェに食らいつく。
ばりぼり、ばりぼり。
柔らかい焼き菓子を食べているとは思えない咀嚼音に、ヴォルフラムとジークフリートは顔を見合わせる。
(その音がデフォルトなのかよ……)
しかも小鳥は他のマドレーヌやカヌレやガレットなど、十個以上盛られていた焼き菓子をみるまに平らげてしまった。くちばしを震わせ、満足そうに首を縮める仕草は愛らしいが、食べた量と小鳥の体格がまるで釣り合っていない。
(食べたもの、どこへ行ったんだよ……質量保存の法則とかどうなってるんだ?)
あれだけの量の焼き菓子は、どう考えても小鳥程度の胃袋には収まらないはずだ。それに見た限り、小鳥の大きさに変化はない。
(胃の中がブラックホールになってるとか?)
満足そうに毛繕いをする小鳥にため息をつき、ヴォルフラムはジークフリートに向き直った。
「……ホークヤード伯爵のことは置いておくとして、ジーンの件だ。身体的な危害を加えられてはいないんだな?」
「はい、負傷した様子はないそうです」
しかしいかにリュディガーといえど、おみ足隊全員を敵に回し、ジーンを救出するのは難しいだろう。駆けつけたヨナタンの説得に応じてくれる可能性に賭けるしかないが……。
「難しいだろうな……」
「あまり心配なさらずとも良いかと。おみ足隊を統率するのはブラックモア卿です。なんの理由もなく、無体な仕打ちをするような御仁ではありませんから」
「……さっきから、ずいぶんブラックモア卿を買っているな?」
高位貴族の出身であること以外、二人に共通点はないと思うのだが。
意外な思いで尋ねるヴォルフラムに、ジークフリートはオパールの瞳を細める。
「共に戦いましたから」
「なるほど……」
そう言えば皇禍の際、二人は初代皇帝相手に共闘したのだった。ふと思いつき、ヴォルフラムはまた尋ねる。
「さっきブラックモア卿に『不意を突かれれば危うい』と言ったが、正面から戦ったらどうなんだ?」
「それはもちろん」
ジークフリートの唇が不敵につり上がる。
「一瞬で、終わらせます」
ヴォルフラムの脳裏に、一刀のもとにモルガンを斬り伏せるジークフリートが鮮やかに浮かび上がった。魔法抜きの近接戦において、ジークフリートの右に出る者はいまい。きっとあのリュディガーさえも。ヴォルフラムなど、これからどれほど武術を学ぼうが赤子のごとくあしらわれてしまう。
「……ジークフリートが帝国に生まれてくれたことに、心から感謝している」
「光栄です。……それで、この珍妙な生き物ですが」
ジークフリートが小鳥を見下ろした。小鳥もつぶらな青い目でジークフリートを見返す。
「どこから入り込んだのですか? 侍従どのは陛下のご愛鳥などと言っていましたが、陛下がこの生き物を愛でておられた記憶は、私にはありません」
「ジークフリートの感覚が正しい。実は……」
ヴォルフラムは小鳥が現れるまでの経緯を手短に説明した。前世については明かせないので、夢の内容は『ガートルードと話す夢』とぼかさなければならなかったが。
「……つまりこの珍妙な生き物は、皇妃殿下の夢を見た後に突然現れたにもかかわらず、なぜか周囲の者たちは陛下のご愛鳥と認識している……というわけですか」
「そうだ。ジークフリートまで私の愛玩動物だと言い出したら、おかしいのは自分なのかと思うところだった」
「いえ、おかしいのは明らかに侍従どのたちでしょう。陛下のご愛鳥と言いながら名前すら知らないのも、この部屋に鳥の飼育に必要なものがいっさい存在しないのも、不自然としか言いようがありません」
ジークフリートがぐるりと室内を見回し、首を振る。
言われてみればそうだ。小鳥を飼育するには鳥籠やとまり木などが必要なはずだが、そうしたものは見当たらない。
「だが、ヨナタンも他の侍従たちも私の愛鳥だと口を揃えたんだ。嘘をついているのではなく、本気でそう信じているようだった」
「陛下と共に過ごした時間は、私より彼らの方がはるかに多いはずなのですが……」
ジークフリートは再び視線を小鳥に移した。鋭い眼光に普通の小鳥なら怯んで逃げ出しそうだが、墨染色の小鳥は余裕綽々で受け止めている。
「……鍵は、皇妃殿下なのかもしれません」
ジークフリートのつぶやきに、小鳥はぴくりと小さな身体を揺らした。
「さく、……皇妃殿下が鍵? どういうことだ?」
「小鳥の存在を正しく認識できている者、すなわち私と陛下と、誤った認識を刷り込まれた者……侍従どのたちとの違いですよ」
そこまで説明されれば、ヴォルフラムもジークフリートの言いたいことが理解できた。
ヴォルフラムもジークフリートも皇禍によってガートルードと深く関わっている。ジークフリートには明かせないがヴォルフラムは前世というつながりもあるし、ジークフリートにいたってはガートルードの力でエリーゼの呪いを解いてもらっている。
「皇妃殿下と深いつながりのある者が、この小鳥を正しく認識できている……というわけか。しかし、なぜだ?」
「……この生き物は皇妃殿下を慕い、夢の通い路から現実まで追いかけてきたのではないでしょうか」
ジークフリートの長い指先が思案げに顎をなぞる。
「夢の通い路はいかなる空間も、時代すらも超えてつながるものだと言います。陛下と皇妃殿下の夢がつながったように、この生き物もどこかで皇妃殿下とつながり、殿下に惹かれて追いかけてきた……」
「……だからこいつにとって世界の中心は皇妃殿下であり、皇妃殿下に近しい者ほど正しく認識できる。そういうことか」
つじつまは合う。合うが……、と考え込むヴォルフラムに、ジークフリートが問いかける。
「不自然でしょうか?」
「いや、つじつまは合うと思う。だが、ジークフリートが夢の通い路とか、皇妃殿下を追いかけてきたとか言い出すのが少し意外だった」
魔法や魔獣、神などが存在する分、こちらの世界において超常的な現象は前世よりもはるかに『ありうるもの』と受け入れられている。
だが魔獣との戦いの最前線に立ち続けたジークフリートの口から、夢と夢がつながるなんてロマンチックな発言が飛び出すなんて思わなかった。リュディガーやモルガンあたりなら驚かないのだが。
「ふだんは、このようなことなど申しませんが」
ヴォルフラムの驚きが伝わったのか、ジークフリートはふっと微笑んだ。年齢と経験を重ねた男しか持ち得ない円熟した艶がにじみ出る。櫻井さんはきっとこういう、包容力のある大人が好きなんだろうなと、ヴォルフラムは場違いなことを考えてしまう。
「私も騎士の端くれ。皇妃殿下……我が貴婦人のためならば、騎士歌人にもなりますよ」




