19・今年ばかりは墨染に咲け(第三者視点)
今日は2話同時に更新しております。
こちらは2話目です。ご注意ください。
狂おしく指を躍らせていた麗人がふと顔を上げた。淡く色づいた唇がゆっくり動く。
「……っ!」
無音で刻まれた言葉を理解するより早く、崩れた天井が降ってきた。ヴォルフラムはガートルードを抱いたままとっさに廊下まで跳びのき、直撃を免れたが、入り口は積み上がったがれきで完全にふさがれてしまう。
「神部くん、あれ!」
ガートルードが足元を指差した。見れば、床に亀裂が入り、コンクリートの破片がばらばらと落ちていく。ぽっかり空いた穴から覗くのは黒々とした闇だ。あそこに落ちたらただでは済まないと、本能が警告する。
「櫻井さん、目をつぶって!」
どこか安全な場所は、と考え、真っ先に閃いた場所へ走り始める。崩れかけた廊下を駆け抜け、階段を降りる間にも、無機質な声は宣告を続ける。
『40%……56%……』
明らかに数値の上昇ペースが速くなっている。
焦燥に胸を焼かれながら玄関を飛び出し、ヴォルフラムは立ちすくんだ。ガートルードも目を見開いている。目の前に広がるのは懐かしい校庭ではなく、果てしない荒野だったから。
振り返った背後も荒野。ついさっきまで建っていたはずの校舎はがれきすら残らず消え去っていた。最初からなにもなかったかのように。
ただ一つだけ名残を留めるのは桜の大木だ。ただし花びらは薄紅色から墨染色に変化している。
ひらひら、ひらひら。
舞い散る花びらは名残を惜しむ雪のようで、緊張しきっていた精神をふっと弛緩させる。
『……62%……71%……』
「……『深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け』……」
無機質な声にガートルードのつぶやきが重なった。墨染の桜に注がれる眼差しはまっすぐだ。
ヴォルフラムは悟る。この無機質な声は、自分にしか聞こえていない……ガートルードの『エラー修正』は、すでに完了してしまったのだと。
ガートルードの頭の中に、あの麗人はいない。
それはヴォルフラムにとって歓迎すべき事態のはずなのに、じわじわと黒い靄のような感情が湧いてくる。
「……櫻井さんも、その歌を覚えていたんだね」
「うん。源氏物語に登場したから」
秘密の恋人、藤壺の宮が亡くなった時、源氏の君は咲き誇る桜を眺めながら『今年ばかりは……』とこの歌を口ずさむのだ。物語に絡めて覚えるところがガートルードらしい。
「わたし、源氏の君も藤壺の宮もあんまり好きじゃなかったけど、このシーンだけは藤壺の宮がうらやましいと思ったなあ」
「……どうして?」
「だって、これから桜が咲くたび、源氏の君は藤壺の宮のことを思い出すんだもの。たとえ誰にも思いを明かせないまま死んでしまっても、愛しい人の心の中に住まえるのなら、きっと幸せだわ」
噛み締めるような微笑みに、麗人が重なった。崩れゆく音楽室を脱出する間際、彼が無音で告げた言葉。
『た』
『の』
『む』
『頼む』――『彼女を、頼む』。
(……お前……っ!)
ヴォルフラムは理解した。さっきから胸を侵食するこの黒い靄のような感情は、苛立ちだと。
『……、……84%……92%……』
(逃げるなよ!)
もはやまともに思い出せない……なのにむかつくほど整っているのだけはわかる面影に、ヴォルフラムは頭の中で叫ぶ。
(『禁じられている』だのイレギュラーだの、そんなのただの言い訳だろ!? お前は逃げたんだよ! 彼女から……彼女に、受け容れられないことから……!)
渦巻く怒りの炎に呼応するように、あるいは反発するかのように、墨染の花びらは舞う。けれどヴォルフラムは容赦しない。
(ただ遠くから眺めているだけなら、思いを告げさえしなければ、片思いに浸っていられるもんな。わかるよ。……僕もそうだったから)
傷つくのが怖かった。
彼女に拒まれるのが怖かった。
だから遠くから眺めるだけで、なにも告げずに離れていった。そんなヴォルフラムの臆病のツケは、彼女の死という形で支払われた。
だから望外の幸運によって今生で再び彼女に巡り会えた時、決めたのだ。
(僕は絶対に彼女を諦めない。この手を伸ばし続けて、指一本でも彼女に届くのなら……力いっぱい掴んで、絶対に離さない)
どんなにみっともなくても、愚かだと嘲笑われても。
(お前だって、僕と同じなんだろう? ……魂だけになっても、彼女を追いかけてきたんだろう?)
どんな経緯でそうなったのかはわからない。けれどかつて同じ世界で生きていた彼がここにいるということは、そういうことだ。
『……93%、94%……』
無機質な声がかすかに揺れ、ヴォルフラムの中に残されたおぼろな面影さえも消し去ろうとする。
でも、消させるものか。
この、思いだけは――。
『95%、96%、97%……』
ぶわあ、と吹きつける風が花を散らす。丸裸になった桜の大木は空気に溶け、宙に漂う無数の花びらもまた儚く霧消していく。
ヴォルフラムは身をすくませるガートルードを抱き締め、虚空を鋭く睨んだ。姿は見えなくても、彼はそこにいると確信して。
「――諦めるなよ!」
「か……、神部くん?」
「お前も彼女が好きなら、諦めるな! 僕に頼むくらいなら自分で守れよ! 人間じゃなくなったって、もがいて、足掻けよ! お前が、……お前が、お前が……っ」
『……98%……99%……』
無機質な声がヴォルフラムの苛立ちに拍車をかける。ガートルードの前でなければ、舌打ちをしていたにちがいない。
(ああ、もどかしい)
確かに思い出したはずの彼の名前が出てこない。
知っているのに。
前世では何度も何度も、心の中で呼んだ名前なのに。
うらやましくて。
……妬ましくて。
『……99%、……、……』
「……お前が……っ、また、彼女に喪う悲しみを味わわせるのか……」
忘れてしまえば、どんな苦しみも悲しみもなかったことにできる?
そんなわけがない。
そんなこと、……あってたまるか!
『99%、99%、……、……』
無機質な声にザッ、ザザッ、とノイズが混ざるたび、ヴォルフラムの頭にも激痛が走った。よほど彼を消し去りたいらしい。
けれど、1%でも可能性があるのなら。
ゼロではないのなら、それは人間の力で逆転可能な未来だって、あいつが――あいつ、が……。
「松ヶ瀬 籟!」
びくん、と腕の中の小さな身体が震えた。
「……委員、長……籟、くん……」
『99%、……99%、……、キュ、……さ……ん……』
ザ、ザザザザザ、ザザ、ザザッ。
鼓膜をむしばむようなノイズの中、ヴォルフラムは確かに聞いた。ガートルードも、きっと。
『……佳那さん……』
ザザザザザザザザザ、……ザザァッ……。
ノイズは花びらを巻き込み、吹き上がる風に取って代わられた。降り注ぐ墨染の花びらの向こうに浮かび上がるのはかの麗人ではなく、学生服姿の少年。
顔の造りは同じなのに、銀髪が黒髪に、碧眼が黒瞳に変わっただけで別人のようだ。いや、戻ったのか。女神シルヴァーナの色彩から、本来のそれに。
『お人好しめ』
苦笑する少年に、ガートルードははっとしたように手を伸ばす。少年もまた手を伸ばした、直後。
ザザアアアア……。
舞い上がった花びらが壁と化し、ガートルードと少年を隔てる。
わずかな隙間からガートルードと少年の指先が触れ合った瞬間、ヴォルフラムの視界は暗転した。
『深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け』古今和歌集 上野岑雄
『深草の野辺の桜よ、お前に心があるというのなら、今年ばかりは喪の色に咲いておくれ』
『松籟』
松に吹く風の音。松風。【大辞林】
『松風』
能の一。在原行平を恋慕する二人の海女の姉妹、松風と村雨の情熱を、夢幻能の構成で幽玄に脚色する。【大辞林】




