the 13rd flight 「商談」
ドローバースト一家は、その司令部に洞窟を利用していた。
道が入り組んでいることぐらい、先導する海賊の様子と覚束ない足下からわかる。
道の側面に広がる、奈落の遥か底からは、潮のざわめく音が微かに聞こえてくる。
「湿気た場所だぜ……電灯ぐらいつけろっての」
と、警備の男に先導され、ぼやく若い男の襟には、統合政府軍士官の階級章。
暗い頭上を蠢く影に、一人の下士官が呻いた。
「ありゃあ……蝙蝠だぜ。気色悪いなあ」
「その言葉は頂けないね。蝙蝠はなぁ、俺等の貴重な蛋白源なんだぜ?」
「あんなもん、どうやって食うんだよ?」
「煮るのさ。醤油でコトコトとな」
と、警備役はニヤリと笑った。軍人達は、唖然として顔を見合わせる。
軍人の列の先頭。指揮官らしき男の影は、そのような砕けた遣り取りにも加わらず、黙々と歩を進めている。ときどきチラリと男の方を見遣る先導役の目は、彼に対する拭いがたい緊張を醸し出していた。
若いが……その目には鬼気迫るものがある。
やがて、列は開けた場所に出た。
その明るさは、天井に下げられた電灯のせいだけではなかった。海原の広がる洞窟の角からは自然の光が差し込み、その中を、荷物を積んだ船が何艘も行き来している。
岸壁に山々と詰まれた積荷の箱……得体の知れない箱もあれば、「危険物」と焼印されたものや、「貴重品」の刻印が銘打たれたものもあった。
「話が違うな、定住する気満々じゃないか」
と、先頭の男―――テレンス‐ケルヴィム‐アメル少佐が言った。静かな、しかし烈しい口調で。
「そこは隊長……大人の事情ってやつでさぁ」
「…………」
アメルは、早足で歩き出した。男達も慌てて後を追う。
向かったのは、奥まった一角。ピンク色のカーテンを潜った先に漂う妙な香りに、男達は思わず鼻をひくつかせるのだった。
「楽園へようこそ。騎兵隊」
待ち構えていたドロバーストの側近が、少佐達を手招きした。
美酒の芳醇な香り、肌も露な美女の色香、部屋中に焚き染められる怪しげな香料……それらの混ぜ合わさった匂いに、アメルは形の良い眉を険しく顰めるのだった。
部屋の奥……全裸のままうつ伏せたドロバーストには、半裸の美女が跨って手づから香油を、その筋肉質の背や腰に塗りたくっている。
側近は、アメルに椅子を勧めた。
「お楽しみの途中だったかな? 頭領」
「厳密に言えば、楽しんだ後だがな」
と、ドロバーストは刃物のような笑みを浮べる。この男と自分とでは、同年代のはずだが、周囲に漂わせる貫禄は、自分よりもこの海賊の方が上であることをアメルは内心で認めざるを得ない。
「あんたもどうだ? ピンナップでしか拝めない女がここにはいくらでもいる。ん?」
「俺は未来ある身だ。下手に誘いに乗って変な写真を取られたくはない。それに、ボディは綺麗でも『中古車』は御免被るね」
「ホウ……辛辣だな」
ドロバーストは、一層口元を曲げた。
「……だが、悪くない。素質がある」
「素質?」
「ワルになる素質……さ」
今度はアメルが笑った。ドロバーストのそれとは違う、知性と無邪気さの入り混じった笑いだった。
……が、目は笑っていない。
「さて、商談に入ろうか」
順調に進んだこれまでの経緯……今後の計画……これらの話にまる一時間を費やしたあと、側近の差し出したダンビルの炎に口から葉巻を翳しながらドロバーストは言った。
「なあ、少し聞いていいか?」
アメルの沈黙を、諒解ととったのか、ドロバーストは続けた。
「こんな計画、お前さん一人が考え出すだけならともかく……実行できるようなものじゃあないなあ……」
「何が言いたい?」
「黒幕が知りたい」
そう言って、ドロバーストは葉巻の煙を旨そうに吸い込んだ。そして、アメルの反応を確かめるかのように、ジロリとかれを睨みつける。
アメルは天井を見上げるようにした……まるで逃げ場を探しているかのように。
「愛国者……とだけ言っておこうか」
「じゃあ、やっぱりお前ら悪党じゃねえか」
「どこが……?」
「愛国心は……悪党の最後の拠り所ってね」
ドロバーストは女を抱き寄せた。ベッドに押し倒し、節くれ立った手が胸を、腿を揉みしだく。長い舌が、女の首筋を這い、唇を吸う……商談相手に対する関心など、この男からはもはや失われていると、アメルは見て取った。
アメルは部下を省みると、肩を竦めた。
「帰れってことらしい」
クラクティア島から南西へ、二時間ほど飛んだ先に、その島はあった。
その島――――通称「ヴァイオレット島」は、本来は名も無き孤島を、資産家のヴァイオレット‐リーベルが二年前に買い取り、邸宅兼自らの所有する会社「ヴァイオレット‐リーベル商会」の本拠地として利用していた。
本来なら小島伝いに大回りの針路を取り、たっぷり四時間掛けて飛ぶところを、中国大陸やソロモンで鍛えた洋上航法を生かし、何の目印もない洋上を真っ直ぐに向かうと、二時間程度で島の北端に達する。
『腕を見せびらかしてるつもりか?』と、ゴフが嫌味を言う。
「……いや、燃料を節約しただけさ」
ヴァイオレット島の中心部を南北に走る飛行場は異様に狭く、少しでも着陸針路に入るタイミングを誤れば、忽ち飛行場から脱線し、最悪の場合飛行場を囲むように広がる森に突っ込んでしまう。
離陸のときもまた、同じく細心の注意が必要だろう。
着陸針路を取るべく、飛行場の上空を旋回しながら眼を凝らすと、飛行場の隣には桟橋に面した広大な空き地が広がっていて。多くのガラクタや鉄屑の他、無数の飛行機が翼を休めている。海路で運ばれる屑鉄やガラクタの集積場所なのだろう。
飛行機の形状は、複葉から単葉、双発から単発まで大小様々だ。ちょっとした展示場的な趣がある。
「ありゃあ、何だ?」
「オババに取られたのさ。借金のカタにな」
と、座席から身を乗り出した経理係のシオ‐ジムニーが教えてくれる。丸眼鏡と痩せぎすの冴えない容姿が印象的な男で、リナの話では、ここに来る前は大手の都市銀行に勤めていたらしかった。
「浮気と使い込みがバレて、ここまで逃げて来たって……」
と、リナは言っていた。
機は、着陸針路に入りつつある。
ゆっくりと、スロットルレバーを閉じた。ディーゼルエンジンは出力の増減率が極端なため、慎重なスロットル操作が必要だった。
機には、フラップなど付いていない。元々低速なので、急激な気速変化など考慮に入れていないのだろう。
高度を落とすにつれ、飛行場の端よりも森がまず先に、眼前に迫ってくる。
下手な奴は、飛行場の端を見下ろしたいばかりに進入高度を深く取ってしまうだろう。それで、滑走距離が足りなくなる。
……が、光義はそんな下手糞ではなかった。
三点着陸……機は、見事に眼前の森まで十分な余裕を残して止まった。
「いい腕だな。兄ちゃん!」
と、シオが声を上げる。
エンジンを止めて地上に降りたときには、すでに迎えの車が待っていた。
「よおゴフ、カネを返す当てでも見付かったか?」
車からは、若い男が陽気に手を上げた。不機嫌そうな眼で、ゴフは男を睨みつける。
「黙れ、オババの愛人がそんな口聞ける立場か?」
「何だとてめえ!」
掴みかかる男をシオがどうにか宥め、車は入り組んだ道を走り出した。先程の遣り取りからして、ゴフとこの島の主はある程度の面識があるように思われた。
道は……お世辞にもよくない。車は上等だが、こんなところばかりを走っていては、すぐにダメになってしまうだろう。
二十分ほどで山道を抜け、車が馬鹿でかい鉄製の門扉の前に達したとき、耳に障る響きを立てて扉は開き始めた。
「ヴァイオレット‐リーベル商会」――――それは、ここ「親不孝共の環礁」では誰もが知らない者のない会社である……そのアクドイ商売で。
貸金業、遊戯業……そして古物商。二十年前、「親不孝共の環礁」に流れ着くように住み着いた「オババ」ことヴァイオレット‐リーベルは、死んだ良人が残したという資産を元手に数々の事業を興し、その大方において成功を収めていた。
ただ、そうして増やし、溜め込んだ資産を浪費するという風でもなく、多方面から引き合いの来る慈善事業にもまるきり関心を示さない姿勢は、「吝嗇家」との悪評を被るに足るものではあった。
だが、知事選に打って出る前のフランカ‐リシュヴィーが、慈善家で通っていたのにも関わらず、黒い噂が耐えなかったことを引き合いに出し、ヴァイオレットを評する者も、少なからずいた……「善人面した悪人よりも、根っからの悪人の方がずっとまし」という意味で。
整地の行き届いた小高い丘の頂上に立つ豪邸。ヴァイオレットの私室兼執務室までは、無口な執事が案内する。
「あいつは喋りたくとも、生まれつき喋れないのさ」と、シオが教えてくれた。
センスのいい調度品に彩られた広間と廊下を抜け、螺旋状の、絨毯の敷き詰められた階段を昇る中、一枚の肖像画の前で光義は足を止めた。
「…………」
黒檀製の、彫刻の施された額縁の中、畳一枚分ほどの空間の中には、おそらくは、この世界の「昔」が閉じ込められているのだろう。
絵の中心……大きな犬を従えて立つ、古風、且つ優美なドレスに身を包んだ少女の美しさに、息をすることも忘れて見入っている光義の姿があった。この世界のことには未だ疎い彼にも、このモデルの育ちの良さが察せられた。
「美人だな……」
「半世紀前の社長らしい。今じゃあ見る影もないがね」
「無駄口を叩くな。さっさと歩け」
と、既に階段を昇りきったゴフが悪態をつく。
「で、工場長さんは、ここに何の用があるんだい?」
「借金の利息を納めに来たのさ」
「利子はどれくらい?」
「そうだね……法定限度ギリギリの二割九分九厘ってとこかな。オババに言わせればこれでも、まだ良心的らしいがね」
と、シオは薄くなりかけた頭を掻いた。
執事が、見るからに重そうな、観音開き式の扉をノックする。
「入りな」
しわがれた、ぶっきら棒な声に、光義とシオは思わず顔を見合わせた。肖像画から感じたイメージ……というより願望など、この一声を聞くだけでいとも容易く崩れ去ってしまう。
「邪魔するぜ。死にぞこない」
どう考えても、借金のある相手に吐く言葉ではない。
「黙りな、『黒鷲』の」
肉の付いた骨が、三人に投げつけられてくる。幸いに軌道を逸れ、絨毯の上に落ちたそれを見て、光義は軽い後悔を感じた。肉には、見事なまでにはっきりと噛んだ痕が付いている。
先ほどの肖像画の中に見た優美なドレスが、ラードの塊のように醜く太った老婆に着られて、フカフカとしたソファーに腰を沈めていた。ソーセージほども太い指には、路傍の石ころほどに大きな宝石が、指輪となって鈴生りに納まり、鈍い輝きを放っていた。人間とは、半世紀もの時間の内にかくも変わるものなのか……と若いながらも感慨を抱かせずにはいられない姿である。
さらによく見れば髪型まで……あの肖像画と同じだ。一見してそうと判らなかったのは、その髪型があまりにも現在の容姿にそぐわな過ぎたからである。大の男が、無理をして女性の姿をしているのに通じるものがあった。否、自分の目の前にいる「怪物」はそれよりもひどい。
「見なけりゃよかった」と、本気で思う。
執務用の重厚な机の上には、書類の山の他に、おそらく昼食なのであろう、肉類や果物の山が、その無残な残骸を高価な皿に横たえている。
そして、さらに圧巻なのは机の上に乱雑に並べられた直通電話。それが各地の会社や証券取引所とダイレクトに連絡を取るためのものであることを、少年時代に小遣い稼ぎで株式取引所で奉公に出たことのある光義はすぐに気付いた。
ゴフが、笑い掛けた。
「食事中か、済まなかったなぁ」
訝しそうな眼つきで、オババはゴフを睨み付ける。
「カネは、持ってきたんだろうねえ?」
「今月分だ。受け取れ」
と、分厚い封筒を放る。封筒に入った札束を、汚らしく唾をつけた指で手繰って数えると、ニンマリと笑った。真っ赤な口紅と、肉の脂にぎらつく口元からは、金歯がけばけばしく輝いていた。
「早かったね。飛行機で来たのかい?」
「ああ、予定より早くあんたんとこの社用機が仕上がったもんでな。修理代を借金分から差し引いて欲しいんだが」
途端に、オババの眼が苦々しく歪む。
「内訳を見せな。水増しは許さないよ」
ゴフが、シオを振り返り、顎をしゃくった。シオが頷き、手提げカバンから書類一式を取り出した。
「どれどれーーーー……」
書類を捲る内、オババの顔が次第に紅潮し始めた。やがて徐に顔を上げたオババの眼は、抑えている怒りで充血していた。
「『黒鷲』の!……お前さん、嘘が上手になったねえ。昔はこんな風じゃなかったのに」
「何の事だ?」
「試験飛行に、二十時間も使ったのかい!?」
「ああ……あれなぁ」
「言っとくけど、ウチの飛行機にそんな手間は必要ないよ!」
「色々と調整が必要だったのさ。おたくの変な飛行場に降りるためのね……」
「金余ってんだから、飛行場の拡張ぐらいやれよ。降り難いったりゃありゃしない」という心の声を、光義は聞いたように思った。
オババの眼が、奥に凭れかかり、彼らの遣り取りを伺う光義を捉えた。
「その坊やは、見ない顔だね」
「ウチの食客ですよ」とシオ。
オババの眼が、細くなった。
「……あんたが飛ばしてきたのかい?」
光義は、頷いた。
「お若いの、賞金稼ぎだね? 澄ました顔して相当殺してるだろ?」
「…………」
「名を上げたきゃあ、ゴフの命でも取るといいよ。何せそいつぁ……」
光義は、オババを睨むようにした。オババは大きい口を歪めて、ニンマリと笑った。
「……伝説の『黒鷲のゴフ』だからね。賞金は欲しくなくとも、首が欲しいヤツは腐るほどいる」
「おっさん、有名人なのか?」
と、光義は「関心がない」という風にゴフを見遣った。
オババは、大口を開けて笑った。
「やれやれ、『黒鷲』を知らない坊やがいるたぁ、あたしもそろそろお迎えが近いかねえ……」
オババは、ゴフへ向き直った。
「『黒鷲』の……あんたはあと一年は五億デールの賞金首なんだからね。時効まで気を抜かず、せっせとあたしに貢ぎなよ」
「競争だな、ボスの時効と、オババの寿命のどっちが先に来るかの……」
と、シオが嘯く。
「やれやれ……人をどん底に落とすのが好きなババアだぜ」
と、ゴフの方は肩を竦めるしかない。
「……あたしゃ権利を持っているだけさ」
オババは、葉巻を取り出した。自身で吸い口を切り、傍らの執事が差し出したダンビルの炎にその先端を翳す……ややあって、濃い煙ときつい芳香が部屋中に漂い始める。
「世間様に冷たくされた人間は、それでも頑張って生きているうちに世間様に冷たくする権利を持てるようになる」
シオが呟いた。
「また始まったよ……おばばの人生訓が」
「あたしゃ金持ちの生まれだ。ところが家が没落するや、いままであたしらをチヤホヤしていた連中は手のひらを返すようにあたしを爪弾きにし始めた……それから時が過ぎて結婚し、纏ったカネが手に入ってねえ……それを元手に始めた事業に成功し、金持ちにまたのし上がった途端、いままであたしのことを馬鹿にしていた連中はみんな眼の色を変えてあたしに近付いてくる。いままでの悪口なんか知らぬ存ぜぬって感じにね。そんなあたしが、他人を不幸にして何が悪い」
オババは葉巻の煙を思いっきり吸い込むと、特徴的なガマ口から一気に煙を吐き出した。
「そうだ……ゴフ」
「ん……?」
「最近この辺りの海が騒がしい。海賊が入り込んだそうな。寝首を欠かれないように、気をつけなよ」
「あんたもな」
話は、それで済んだ。
豪邸を出て、飛行場へ向かう道すがら、光義はゴフに聞いた。
「爺さん、何かやったのか?」
「てめえにゃ関係ねえことだ」
と、取り付く島もない。
帰りは、夜になった。
日頃は「超」が付くくらいのドケチで知られるオババが、借金の抵当に接収した飛行機の内一機を融通してくれたのは意外ではあった。
だが、日が昇っている間は近辺の海域を海賊がうろついている以上、帰路は夜を選ぶしかない。当然、昼よりも夜の方が飛行に技量を要するわけで、光義に掛かる期待と負担は大きくなる。
……それでも、鈍足のフネで島伝いに夜を縫って帰るよりはずっといい。
「飛べるか?」
その夜。ゴフの問いに、光義は無言で頷いた。が、二つ返事で頷いた光義を、ゴフは訝しげに睨み付けた。
「おまえ、強がりは言わん方がいいぞ。道連れは御免だからな」
「いやなら、いいんだぜ」
「……ボウズ、空母に乗ったことは?」
「…………?」
急にゴフが話題を変えたのは、光義には意外だった。
「昼の着陸は、狭い飛行甲板で拘束ワイヤーを拾うための三点着陸だ。違うか?」
「そうかもな」
「だが、判らん」
「何が?」
「航法だってそうだ。おまえのような若造が、何でそんな技術を持っている? 一人で海の上を飛ぶような技術なんざ、今時ジジイの飛行機乗りしか持ってねえよ」
「教えてもらったのさ。それ以外に何がある?」
「そこらの飛行学校じゃ、そんなもん、教えねえ。それにお前の眼だ」
「眼……?」
「お前の眼は、鬼の眼だ」
「…………!」
「かつては俺も、お前のような眼を持っていた。死線を潜った『鬼の眼』を、だ。お前のような小僧が、何でそんなものを持っている?」
「持って悪いかよ……!」
光義は不機嫌そうに胸元をまさぐると、拉げた煙草の箱を取り出した。「チェリー」の最後の一本に、名残惜しそうに目を凝らし、観念したように口に咥える。
不意に延びたゴフの手が「チェリー」を掴み、眼前の海原へ放り投げた。
「おい! 最後の一本なんだぞ!」
「答えろ小僧、おまえは何者なんだ?」
「ただの飛行機乗りさ」
続けて延びた節くれだった腕が、光義の襟を掴み上げ、突き飛ばした。
「てめえっ……!」
光義が身構えるより早く、勢いよく突き出されたゴフの拳が、光義の顎を捉えた。年にそぐわない、重いパンチっ!……と感じたときには、光義は派手に顔から地面へと倒れこんでいた。
ゴフは言った。
「いい殴られ方だ。本当だったら、この一発で勝負は決まってた。さあ立て、おまえはここでヘタれるようなタマじゃない」
「ジジイがっ……!」
羽根のように、素早く身を起こした光義に、新手の拳が次々に降りかかる。身を屈め、襲い来る打撃に耐えるのが精一杯だ。還暦を越えた老人の拳、そして身のこなしではなかった。
……が、雌伏も束の間。放たれた一発を見切ってかわし、延びきったゴフの腕を光義は見逃さない。
「…………!」
次の瞬間、ゴフの眼前で天地が一転する。見事に決まった背負い投げは、ゴフの背中をしたたかにコンクリートの地面に叩き付ける。
決まった……と光義は思った。だが、それはまだ早かったのだ。
倒れながらも、ピンと伸びた足が光義の足を払い、光義は姿勢を崩した。
腕で反動を付け、凄まじい勢いで起き上がったゴフの豪腕が、今度は光義の腹のど真ん中を直撃する。
拳が胴を撃つ音を、傍で見守っていたシオは聞いたような気がした。
「…………!」
声にならない呻き声を上げて、光義はその場に蹲った。再び拳を振り上げようとしたゴフも、堪えていた背中の激痛に耐え切れず、ついに膝を付く。
「チキショウ……効いたぜ。この馬鹿が、本気出させやがって……!」
光義は、ゆっくりと腰を上げた。血の混じった唾を吐くと、再び身構えた。だが、その眼の焦点は合っていない。苛立たしげに、光義は頭を振った。
「クソジジイが……てめえこそ、ただの修理工じゃねえだろう」
シオが、ゴフを庇いように割って入った。
「旦那、この若いの、本当に判らないらしいぞ」
「判らないってあるか。俺様はな、『黒鷲のゴフ』だぞ。元は大の付くほどの海賊だ。そろそろ誰かが俺の首を取りに来てもいい頃だとは思ってるんだがな……!」
と力んだところで、さすがに痛みに抗いきれずにゴフは膝を付いた。
「そいつぁ本当なのか?」
「お前、やっぱり知らんのか?」
「…………」
脱力したように、光義はその場に座り込んだ。
「ジジイが、海賊だと……?」
「三〇年前までは、な」と、シオが言う。
「だが勘違いするな。ゴフの旦那はそこいらのハイエナみたいな海賊もどきとは違う。誰もが認めるれっきとした『義賊』だった」
「どう言い繕ったところで、所詮は物盗りだろうが」
「物盗りには二通りある。自分のために盗む奴と、他人のために盗む奴。旦那は後者だ。それ故に貧しい者達、虐げられた者たちに敬愛された。三〇年前、廃業すると宣言したとき、誰もが泣いて惜しんだそうだ」
「……リナとファイはこのことを知っているのか?」
「教えてない。教える必要がない」
「そいつは……不憫だな」
「だが、旦那はあいつらの両親の死に責任はないさ。それにしても……」
シオは呆れたように光義を見下ろした。
「初めて見たぜ、ゴフの旦那とタメを張ったやつを……」
「黙れシオ……!」
ゴフが苦々しく言った。
「せめて俺があと十年若かったら、確実に殺してやれたんだ!……まったく、年は取りたくないぜ……」
「何抜かす。老人が……」
「まだやるか。若造……!」
立ち上がりかけた両者を、シオは止めた。
「さあ、帰ろう。皆が待ってる。続きはクラクティアででもやればいいさ」
もとは精肉工場へ出荷するブロイラーを運んでいたという双発輸送機は、途轍もなく臭かった。
事前に二時間ほどドアというドアを開きっぱなしにして換気を徹底していたのにも関わらず。いざ飛び上がる段になってもむせ返るような匂いは消えていない。
しかも更に腹が立つことには、無線方位指示器や通信機、そして自動操縦装置など、およそ金目の、それでいて長距離飛行に必須の物が全て取り外されている。どうやら持主が借金を返せないことを見越して真っ先に売り飛ばしたらしい。
一般の常識からすれば、到底鍛航許可の下りる代物ではなかった。
「あのババア、ジョーカーを押し付けやがったな」
胴体を苛立たしくガンガン蹴っ飛ばしながらも、光義は真っ先にキャビンに足を踏み入れたものだ。
それでも、スターターボタン一発でエンジンが始動したのは、光義にとっては大きな驚きだった。
何故か搭乗を渋るシオを、ゴフは怒鳴りつけた。
「てめえっ、乗るのか乗らんのかハッキリしろ!」
「参ったなぁ……おれ、鶏アレルギーなんだよなァ」
操縦席に陣取り、航空図に線を引きながら光義は言う。
「こいつでなら、上手くいけば一時間半の辛抱だぜ」
ゴフが言った。
「どうする? あとからフネで帰って来るか? それとも一晩泊ってオババの夜伽でもするか?」
「チキショウ……!」
意を決して、シオはキャビンに身を滑り込ませた。
「ヴァイオレット島」の狭い飛行場では、このような双発機では飛行場を目一杯使わない限り、離陸は出来ない。さらには、一度浮き上がれば失速寸前まで機首を上げないと前方の森に引っかかってしまう。
「飛行場が狭いわけが判ったぜ……逃がさねえってわけだな」
「今更気付いたか。小僧」
隣の副操縦席に座るゴフの顔に、光義は思わず目を凝らした……このオヤジ、笑っている?
「小僧。離陸したら、脚の引き込みは早めに。操縦感は目一杯に引け!」
「ヨーソロ!」
……加速。
「オババはケチだから、離着陸灯はすぐに消しちまう。やり直しは効かねえぞ」
光義のスロットルレバーを握る腕に、力が篭る。さらには、揚力を目一杯使う必要から、フラップ操作にも離陸速度が加速するにつれて絶妙の調整が要求されるし、プロペラヒッチは「低」に調整しておく必要があった。
単発機のように、離陸滑走に足で当て舵を使う必要のない一方で、双発の大型機は離陸に手をせわしく使わなければならない。単発機は全身のバランスを駆使して飛ばすが、双発の、特に大型機はその挙動の一つ一つが腕力と、そして記憶力の勝負だった。操縦席のどこにどんな計器が付いていて、どの装置を動かせば機体がどういう挙動を示すかを、操縦者はきちんと習熟しておく必要がある。
スロットルは全開。そして……離陸。輸送機の引き込み脚は、ハンドル操作式だった。やっと浮き上がらせたと思ったら、こんどは重いハンドル操作だ。
主脚引き込みを示すランプが点るのを見計らって、光義はぐっと操縦桿を引いた。操縦桿を握る腕の一方で、伸びた片腕がトリムタブのハンドルをせわしく回している。効きが最大限に調整された昇降舵は、眼前の森を十分な余裕を残して乗り越えた。
失速寸前の機体が沈むのを感じる。だが、このままで気速を稼げば、機は飛行に十分な速度に、すぐに達することが出来る。
眼下は、完全な静寂と暗闇。
「大したもんだ。フルオートにどっぷり浸かった今時の若造とは違うようだな」
「針路0―7―3。島を出ちまえばこっちのもんさ」
レニスとドムナが消えて、半月近くが過ぎた夜空を、邸宅のベランダからヴァイオレットは見上げていた。
孤独に光を下界に照らすクラダ。その神々しい姿に、今しがた離陸を終えたばかりの輸送機の機影が重なり、照らし出された。
ソファーに身を沈め、上物のワインを舌に転ばせるヴァイオレットは、その機影に目を細める……ほう、離陸したのか。
「いい腕してるじゃないか。あの坊や」
思わず、ヴァイオレットは口元を綻ばせる。操縦がいつもの二人に付き従っていた若者であることを、彼女は女の勘で感じ取っていた。
「後は、どうやって帰るか、だね」
空っぽのグラスに、傍に控える執事がワインを注いだ。薄いグラスの中で揺れる緋色の液体の煌きが、星空の下では眩しい。その美酒の波間に、ヴァイオレットは三〇年来の悪友の幸運を祈るのだった。
「生き残るんだよ、ゴフ。意地でもね」
商売柄、ヴァイオレットは内外を交錯する情報を集めることに吝かではない。
それでも、世界各地に散らばる同業者間に構築された情報網からもたらされてくる親不孝共の環礁を取り巻く数々の噂は、彼女にとっては海賊の背後に蠢く何者かの介在を予感させずにはいられないものだった。
――――そう、ここのところ、海賊の横暴の他に、何者かの蠢動が目覚しい。海賊勢力と連携、あるいは背後にあって海賊を操っている「何者か」が、確実に存在することは確かだった。
……では、何のために?
喩え彼らの謀略が成功したところで、たかが準州。それも辺境の島々に影響力を獲得し、行使することに意味があるのかといえば、そうではない。これは、今後に起こる大きな「何か」の発端に過ぎないのだろう。
こんなど田舎の行く末など、老い先短い彼女には何の関心も惹かれなかったが、事業のためにも、そして自分自身の保身のためにも、今後の事態の推移を見定めておく必要があった。
――――そして、島の桟橋。
地上から、一人の男が三人の乗った輸送機を見上げていた。
機影が暗闇に飲み込まれるまで見届けると、男は桟橋を走り彼自身が船長を勤める貨物船の通信室に駆け込んだ。
「どうしました。船長?」
「ボスに打電だ。仇がヴァイオレット島を出た。とな」




