the 11th flight 「予感」
抜けるような青空の下、木製のプロペラが勢いよく回り始めた。
修理を終えた練習機のエンジンを始動させるのには、少なからぬ勇気が要った。オイルも全て入れ替えたし、燃料も高品位のものを融通してもらった。それらを考えれば、エンジンが動かないはずが無かったが、やはり心のどこかで不安が残っていた。
……だが、その手でプロペラを回し、何回目かでエンジンが轟音と共に排気口から黒煙を噴出したとき、リナはこれまでの自分の努力が報われたことを知った。
――――そして今。
逆向きに被った帽子にゴーグルを懸けたまま、リナは完成した複葉機に身を滑らせ、スロットルレバーを握る。
レバーを開いたところで閉め、それを繰り返すこと三回……エンジンはスロットルの挙動に見事に反応し、たちまちリナは、その硬い表情に明るさを取り戻した。
軽快な爆音とともに、砂煙が舞い上がる。
眼を転じた先には、遠巻きにその様子を眺める子供達……皆の様子を見て、リナは満足気に微笑む。
さらに遠くから腕を組んで、佇む光義……どうだ、あたしだってやればできるんだ……! 達成感と共に、リナは前へ向き直った。
「あいつ、嬉しそうだなあ」
と、光義は傍らにいるファイへ眼を転じる。
「ミツヨシが、操縦を教えてやればいいのに」
「おれの授業料は高いよ」
途端に、激しい振動……故障? そう思った直後、しっかりと固定していたはずの機が、地上をスルスルと滑り始めたのだ。
「大変……!」
エンジンの大半を高性能の新品に換えたことが、軽い機体に分不相応な出力と、強すぎるトルクをもたらしていたことに、リナは今になって気付いた。左に首を振ろうとする機を、フットバーを踏んで必死に支える。踏みが強すぎるがゆえに、今度は右に首を振る機体。それ故に、左右に首を振り、機体はあらぬ方向へと走り出し、圧し掛かってくる遠心力の腕がリナの襟首を掴み操縦席から放り出そうとする。
「…………!」
これではスロットルレバーや操縦桿から手を離せない。手を離せば、忽ち放り出され、地上に叩きつけられるという恐怖が、リナを怯えさせた。周りにいた子供達が、慌てて四方八方に散った。
ファイが光義に叫んだ。
「リナは操縦ができないんだよ!」
『リナを助けてっ!』と暗に言っていることぐらい、すぐに気付く。咥えていた煙草を足で踏み消すと、光義はゆっくりと練習機へ歩き出した。
機体が左右にいったり来たりしている間は、まだ大丈夫。
そして……機が一直線に滑走しかけた刹那。光義は一気に駆け出した。
「あんた……!?」
「ヨウ……!」
あっという間に後席に腰を沈めた光義が、顔を引き攣らせたリナに笑いかける。
「操縦桿を離し、肩の力を抜け、フットバーから足をどけろ」
「でも……!」
「いいから……!」
その声には、聞く者を納得させる安心感があった。
そうっと、リナは手を離した、足を退けた。
その直後、信じられない光景にリナは眼を見開いていた。
真っ直ぐに走っている?
従順なまでに、練習機は滑走路を走っていた。しかも、加速している? 頬を撫で、胸に飛び込んでくる温かい風は次第に勢いを増し、リナにある予感をもたらしていく……そして、予感は確信に取って代わる。
「止めてっ……!」と、リナは思わず叫んでいた。
「このまま、飛ぼうか?」
「え……?」
尾部が上がった。慌てて延びた手が、バンドを締めた。後ろを振り向こうとしたリナに、背後から怒声が聞こえてくる。
「前を向いていろ!」
ガラガラガラ!……車輪が空回りする音を聞いた。機体が、浮き上がった?
風が、やんだ?……違う、風と一体化したのだ。それにリナが気付いたとき、彼女の口元からは、笑いが込み上げてきた。
「すごい!……飛んでる!」
「当たり前だ! 飛行機だからな!」
光義は操縦桿を傾けた。操作に機敏な反応を見せ、練習機は工場に面した飛行場の上空を一旋回した。飛行場に飛び出して手を振る子供達の笑顔が、リナには上から照りつける陽光以上に眩しかった。
三旋回目に入ったとき、光義は言った。
「降りるぞ?」
「ええっ……うん!」
下には降りたくはなかった。だが、不具合があるかもしれないという不安が、リナに着陸を決意させたのだ。もともと散々使い込まれた末に、用途廃止となった機だ。無理をするのは、良くないだろう。自分の後席の男は、確実にそれを理解している。
着陸……ブレーキが無い練習機は、エンジンをカットして自然に止まるまで、滑走する機に身を任せるしかない。
完全に止まった瞬間。子供達が嬌声とともに駆け出してきた。
覚束ない足取りで、地面に足を下ろす……やけに足下がフラフラする。空を舞った嬉しさの上に、戸惑いが重なる。
子供達に手を引かれ、服をもみくちゃにされながら、リナは彼女を救ってくれた操縦士の姿を目で追うようにした……やがて、用は済んだ、とばかりにリナに背を向け、その場から離れて行く光義を、リナは呼び止めた。
「ミツヨシ……」
「ん……?」
「ありがとう……」
光義は、立ち止まった。そして笑った。
「ねーちゃん、いい機に仕上げたな」
「ハハ……」
リナの瞳が、心から笑った……と、練習機を指差して言う。
「格納庫まで、押して行ってくれる? 場所を空けてあるんだ」
「…………」
「何よ、その『調子に乗るな』って顔は?」
何時の間にか、光義の傍にいたファイが、飛行服を引っ張る。
「…………?」
ファイが、練習機を指差して笑い掛けた。リナと同じことを言いたいらしい。
光義も、釣られて笑う……この娘の言うことには、逆らえない。
ファイが主翼へ駆け上り、リナの制止を無視して操縦席に収まった。
「さあさあ急いで」
両翼を固める光義とリナ。操縦席に陣取るファイの掛け声で機体を押す。程なくして、練習機は何の卒なく格納庫に引き込まれたのだった。
ファイが、リナに言う。
「リナとミツヨシって、気が合うんだね」
「ハァ!?」
思わず、リナは面を上げてファイを睨み付けた。熱っぽさが篭ったリナの瞳を、キョトンとして見返すファイ。二人の様子に、光義は嘆息して背を向け、歩き出した。
二人と後を追って来た子供達の他に、人の気配を感じたのはそのときのことだ。
「リナ、仕事はどうした?」
と、しわがれた、しかし口調のはっきりとした声。光義は思わず振り返った。
「…………!」
「…………」
背は低い。だが、年に似合わない、頑丈なばねの存在を、光義はその男には感じた。
赤銅色の肌は、腕や顔の所々に年輪のような皺を刻み、鋭い眼光は、見る者を怯ませた。使い込まれた作業服はリナのそれよりも醜く汚れてはいたが、リナ程度では足下に及ばないと誰もに感じさせるほどの年季を、沈黙の内に強く主張している。
「最近サボり気味だと思っていたら、こんなしょうもねえモノ作ってやがったのか?」
「すいません……親方」
リナが頭を下げたとき、男の鋭い目が練習機の一点で留まった。
「オイ、油が漏れてるぞ」
エンジンから零れ落ちるどす黒い潤滑油に気付き、リナは舌打ちする。
「オカシイなあ、シーリングはしっかりやったのに」
「アホ、寿命なんだよ……!」
ポツリと言った男の目が、光義に向いた。
「こいつは……?」
「客……だよ」
リナが言った。
光義は、目礼した。だが、眼はそのまま男を睨んでいる。男の方も、そうだった。
『元からのカタギじゃねえな……』
ということぐらい、節くれだった腕に走る黒い刺青紋様からわかる。
「『賞金稼ぎ』が何の用だ?」
「ミツヨシは賞金稼ぎじゃないよ。ファイの友達だよぉ」
と、光義の陰に隠れたまま、ファイが顔を覗かせる。
「友達にしては、悪い趣味だな。魔法使い」
「この爺さんは誰だ?」と、光義はリナを振り返った。
「ウチの……親方だよ。ゴフって名前。ここの主人さ」
ともに訝しげな視線が、交錯する。
「ここには何もないぞ。用が済んだら、さっさと帰れ」
そこまで言って、ゴフはリナへ目配せした。「仕事を手伝え」という合図なのだろう。踵を反して歩き出すゴフを追って、リナは駆け出した。
「言われなくとも、時が来たら帰るさ」
光義の呟きは、その場の誰にも聞こえなかった。
やがて気を取り直したようにファイの手を引くと、光義は言った。
「さあ、お昼寝の時間だぞ」
「ウン……!」
仲睦まじそうな二人の様子を、何時の間にか立ち止まったまま、リナはじっと見ていた。
連れたってもと来た途を戻る二人。その後姿に、羨ましさを感じている自分にリナは気付いていたのだった。自分が、ファイの立場だったら……何時の間にか、そんなことを感じている自分が、もどかしかった。
「リナ!」
ゴフの声がする。気を取り直したように、リナは歩を早めるのだった。
工場へ向かう途中、ふと、ファイが足を止めた。
「どうした?」
「…………」
肩越しに天を仰いだまま、ファイはその大きな瞳をずっと空の彼方へと向けていた。
「空が……騒がしいの」
「…………?」
怪訝な顔で、光義も空を目で追う。
「ああ……戦場の匂いがする」
「わかるの?」
「何となく、判る」
ファイは、一心に空へ見入っている。
「こわい……」
光義の手を握るファイの手に、力が篭った。
マッタイ島は、火の海と化していた。
MF―46「レディ‐ラナ」は、ゆっくりと上空を旋回している。
そのはるか眼下には、かつては港湾地帯だった場所が、蒙蒙とどす黒い黒煙を上げながら、無残な廃墟を晒していた。
高度は、すでに酸素マスクが必要な高度だ。電熱服のスウィッチは、五分ほど前から入れている。
再び……眼下の光景。
規則正しく区画されたバースはその殆どが原型を留めず、アイスピックで突き崩された氷のブロックのように粉砕されていた。船体の大半を没しかけたフネが、港内の各所で断末魔の喘ぎを上げているかのようであった。
そこにあるのは傍観者としての意識か、天空の高みにある神としてのそれか……操縦桿を握るアヴィゲイルには、わからない。
『対気速度250に固定……姿勢は水平を維持……自動操縦装置に諸元入力……入力完了』
航法士の他に、偵察用カメラの操作手も兼ねるランティ上級曹長の機械的な声が、静穏に包まれた機内に、空虚に響きわたる。写真撮影中の、自動操縦装置の制御の一切は彼女に任せられている。
『針路このまま。カメラ操作開始まで五秒……四……三……二……』
「レディ‐ラナ」は、その写真撮影機能をフル稼働させて蒼空の高みから被害状況の把握に勤めていた。
偵察飛行は、空騎兵が州政府の要請が来るまでに出来る最大限の行動だ。逆に言えば州政府の同意なしに、それ以上のことは「内政不干渉」の建前からできない。それが、操縦桿を握るアヴィゲイルにはもどかしい。
気付いたときには、撮影は既に終わっていた。何事もなかったかのように、ランティ上級曹長の声がインカムに聞こえてくる。
『撮影完了。自動操縦装置解除まで五秒……四……三……二……』
計器板の一角。自動操縦装置の作動していることを示すランプが切れ、固定されていた操縦桿が、ふっと軽くなる。
港湾を見下ろしながら、「レディ‐ラナ」はマッタイ島上空を進んだ。
港湾の光景もおどろおどろしいものだが、奥に入ったところで繰り広げられている光景もまた、負けず劣らず恐ろしい。
『あれ、山火事?』
とは、操縦席より一段高い通信席に陣取るマグナイト准尉の声だ。
港湾を少し抜けた先に広がる集落の背後の山肌を、黒々と舐める黒煙と炎……それらはやがて麓の集落をも飲み込もうとしている。
「ひどい……!」
思わず、アヴィゲイルは操縦桿を傾けた。高度を下げ、地上の様子を探るためだ。双発双胴の巨体にしてはあまりに機敏な機動で、「レディ‐ラナ」は螺旋状に降下を始める。
スロットルレバーはもとより、過給器の切替レバー、混合気比の変換レバーを押さえる指が小刻みに動き、エンジンを高度ごとに最適な数値を出すように導いている。この間無意識に近いエンジンコントロールは、アヴィゲイルが愛機と一体化している何よりの証だった。
高度を落とすにつれ、機体がガタガタと不気味に揺れる……山肌を侵す炎の壁が、上空の気流を乱しているのだ。その辺りまで高度を下げれば、集落の小道に溢れんばかりに逃げ惑う人々の影まではっきりと見える。
「レディ‐ラナ」はやがて山地を抜け、海岸地帯に達した。
『そろそろバンデラン島に入ります』と、ランティ上級曹長の指示が聞こえてくる。
そぉっーーーーと、腿に挟んだ航空地図に目を落とす。現針路の先にあるバンデラン島の地形には、州軍の飛行場の在処が書き込まれている。
「見えた……」
前方にうっすらと広がる青黒い影……あれがバンデラン島だろう……そんなことを考えながら、電熱服のスウィッチを切り、スライド式の窓に手を延ばす。何時の間にか機内の温度が上がっている。暑い……高度を下げすぎたかな? と思う。
潮風の匂いを感じながら、針路を修正……島を取り巻く環礁を抜け、機はバンデラン島に入った。
航空地図によれば、そろそろ飛行場に差し掛かる頃だ。
何気なく機首を上げ、横を振り向いたそのとき―――――
森の一点が赤く光った。何かの炸裂する音をアヴィゲイルは聞いたような気がした。
「!?」
絶句したときには、もう遅かった。
機を取り囲む弾幕。烈しい衝撃! 撃たれた?
思わず、アヴィゲイルは頭を伏せた。火花を発する機体。砕かれるガラス。操縦桿を握る腕に、彼女は一瞬灼熱感を感じた。
風通しの良くなった操縦席に吹き込んでくる猛烈な気流に乗せられ、強いガソリンの匂いが漂ってくる……燃料タンクをやられた?
『機長! 右翼燃料タンクに発火!』
「消火ッ!」
緊急消火剤の噴出レバーを引いた。
間を置いて『鎮火しましたぁ』と、弾んだ報告。
スロットルを全開にした。速度を増した機体は、一気に飛行場の上空を突っ切っていく。被弾し、主翼の一点から白煙を吐き出す「レディ‐ラナ」の背後を、各々の軌道を描いて光弾の連なりが追った。
海賊と間違われた?……突発的な攻撃に遭っても、操縦桿を握るアヴィゲイルは冷静だった。そのまま全速で直進し、「レディ‐ラナ」はバンデラン島を抜けた。
「二人とも無事?」
『こちら航法士。異状なし』
『こちら通信士。異状ありません』
計器板に目を移す……左エンジンは無事。右は……油圧が下がっている。自らの傷を覗くような気分で、右エンジンを覗き込む……内部から噴出す黒煙に覆われたエンジンカウル。プロペラ回転に至っては乱調気味だ。
「…………」
迷わず、左エンジンへの燃料供給を止め、エンジンをカットした。無事な右エンジンを回し、最寄の飛行場を探して降りたほうがいいと、アヴィゲイルは既に判断している。
『ジナ。ここから最寄の飛行場は?』
「今探してます……ありました! ここから西へ二〇〇……ディスラーク島です」
「了解。進路西方……」
「レヴィ、基地に報告を」
『了解……』
そのとき、ランティが声を上げた。
「機長……血が……!」
「え……?」
何気なく視線を落とした腕……自慢のフライトジャケットの袖が、醜く千切れていた。そこから覗く自らの手に穿たれた裂傷が、泉のように鮮血を噴出していた。
「…………!」
眼を疑うのと同時に、操縦桿を握る手の感覚が殆ど失われているのに、アヴィゲイルは今更ながら気付いた。




