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愛に没す人  作者: レナルド・スキナルド
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愛憎

 それからシャルル王子のお目付けであるメアリーに対する取材が始まった。

 私の取材形態は張り込みというもの。対象に直接的な接触を図り、聴取を行うというのも手っ取り早いが、それではいっぱしの新聞記者と変わらない。その上に、情報を得る側がそれに影響を与えてしまうというシュレディンガーのパラドックスを起こしかねない。

 私はメアリーを訪ねて王子が現れる市場の花屋に、いつもの朝早い時間帯に向かった。正確にいえば、花屋から建物をひとつまたいだ路地裏だ。建物の影に身を潜めながら、鼠の這い回る埃臭い路地裏で箒を持っていれば、市場に賑わう人は私をただの溝さらいとしか思わない。


「また懲りずに来たのですか」

「僕がつきまとっているとでも言いたいのかい」


 花屋の店主の声で、王子が現れたことを悟る。失礼なもの言いながら、王子はそんなことは気にもしない。気さくな笑みを返した後、王子は心中に抱えるメアリーへの憧憬をからかわれたことに、口をへの字に歪める。


「そう思われてなければいいですけどね。女ってのは、面は笑顔でも腹は読めないものだから」

「彼女に表裏があるようには見えないがね」


 王子の言う通り、メアリーが浮かべる微笑みはまさに無垢という言葉が似合う。商業がらから来るものでは到底醸し出せない、輝きのようなものがある。ちょうどレプリカが天然石に勝てないように。というのは、そっくりそのまま王子の言った言葉を書き写したものだ。その喩えを聞いて花屋の店主は、さらに腹を抱えて笑う。


「な、なにがおかしい」

「お熱だことと思いましてね……。そうです、これを王子に」


 ひとしきり笑い終えると、おもむろに花屋の店主は小さな薔薇のブーケを王子に両手を添えて渡した。突然のことに動揺するも、花屋の店主のにんまりとした笑みにその思惑を悟る。


「なるほど、そういう意味か」

「心には形がないから、その確証を人は欲しがる。だから、人に想いを伝えるなら、その確証を与える義務がある。花はそのために言葉を持って咲いているのですよ」


 言わずと知れた薔薇の花言葉、愛情、情熱。

 それは花屋の店主から、王子へ向けられたものではない。メアリーを慕っているのなら、王子から彼女への想いとして、メアリーに捧げなさいということだ。


 ブーケを受け取ると、自らの精神を鼓舞するかのように拳を胸の前で握りしめ、奥歯を噛みしめる。王子とて、メアリーを訪ねてただ闇雲にこの花屋に顔を出しているわけではない。メアリーが数日おきの決まった周期でこの花屋に現れるのを知ってのことだ。理由は王子も知らなければ、もちろんこの私も知らない。


 そして、それからしばらくして、ついにメアリーは姿を現した。洗いすぎてくたびれたワンピースは、擦り減ってはいるが汚れは見当たらない。丁寧に丁寧に洗いをして大切に使っていることが見た目で感じられる。


「あ、王子様おはようございます」

「おはよう」


 身辺を煌びやかに着飾るばかりの貴族にはない慎ましやかな美しさ。王子は清廉な彼女に心を奪われたのだろう。

 息を飲んだのか、生唾を飲み込んだのか。

 ごくりと音を鳴らして喉仏を上下させる。持ち込まれた縁談は全てそっけない態度で顔をしかめていたからか、こういう色恋はあまり慣れていないらしい。それが告白をするとなれば尚更だ。


「どうしたんですか」


 王子の尋常ではない緊張し具合に、メアリーは何かを悟ったらしい。というより、王子が頻繁に彼女を訪ねてくる時点で勘付いていたのだろう。


 だがそんな事とはつゆ知らず、王子は秋の色が強まり、涼しいこの季節に関わらず冷汗をかき始める。本人は自分のことで手一杯なのだ。拳を握りしめ、肩を震わせる様をプランターの並んだ陳列棚の奥から花屋の店主が覗き見している。


 その震える唇がついに開かれた。


「……、メ、メアリー……」


 その続きの言葉をメアリーは、後ろに手を組んで微笑みながら待っている。

 王子も後ろに手を組むようにして、薔薇のブーケを隠し持っている。


 そして、ブーケは王子の背中から王子の手前へと躍り出て、メアリーの正面に掲げられた。やっぱりかと呟くようにして、小さくため息をついた。



「メアリー……、か、兼ねてよりお慕い申しておりました……」



 気まずい沈黙がしばらくの間続いた後、今度はメアリーの唇が動いた。


「……お気持ちは嬉しいんですけど……、よく考えてください。私を好いていいことなんて何もありませんよ」


「私も父も日雇いで浮浪の身。国のことを考えるにしろ、シャルル様自身のことを考えるにしろ、……。私なんかよりも、もっとふさわしい人物がいるはずです」


 何処か申し訳なさげな微笑みは、自分が王家の名前に傷をつけてしまうのではないかという彼女の心配が読み取れる。日雇い浮浪ということは、家は持たず、働く先々で寝床を借りて暮らしている。奴隷とまでは行かないが、市民より下の底辺なことは確かだ。


「そんなこと僕が気にしていないことくらい分かっているだろう?」

「……、やめてください……。こ、これ以上……」


 だが身分などは、王家のパトロンとなっている貴族とのお見合いばかり持ち込まれてウンザリしていた王子にとってはどうでもいいことだった。その向う見ずな好意を表すがごとく、メアリーの前に跪き、彼女の透き通るような白い手の甲に静かに口づけをした。紅い川が重力に逆らって、腕を駆け上り、メアリーの端正な顔を撫で上げる。王子の心の中の熱が彼女に移った瞬間だった。



 突如として机が、天板が跳ね上がるかという勢いで叩かれる。カモミールティーの水面が大きく揺れて、ティーカップのふちから溢れてしまった。この女は何と乱暴なことをするのだろう。


「落ち着いてください、ジョゼ」


 ジョゼは歯をがりごりと互いに削り合わせて音を立てる。噛みしめるために行う仕草から気持ちがこぼれてしまっており、その禍々しさをまざまざと見せつけている。どす黒い渦を巻く彼女の嫉妬心が、隣の席から漏れてくる煙草の紫煙と絡み合って螺旋を描いていた。

 肩が震えている。いっそう痩せて、骨が浮き出てしまった手の甲に静脈までをも浮き出させれば、いよいよそれは人外のものにさえ思えてしまう。


「知り……たく……ないです……。知りたく……ないですっ!

 なんで、知りたくもない女のことを目の前でつらつらと語られなきゃいけないんですかっ!」


 唇を震わせて、あまりにも矛盾した言葉をぶちまける。ちょうど一週間前にこの個室茶屋で交わした契約を忘れたとでもいうのか。


「メアリーの情報を知りたいと言ったのはあなたですよ」

「あの女がシャルルと結ばれるなんて聞きたくもない! 想像さえしたくないっ! ……あたしが知りたいと言ったのは、あの女の汚点です……。あたしがあの女を否定できるような根拠が欲しい……」


「私は情報屋です。水商売と喩えられるこの商売で、その水を汚すようなマネはしたくありません」

 

 なんとも哀れで浅ましい女だ。私は情報屋として、情報に偏向をかけることも、変更を加えることもしたくない。事実をただ事実として純粋に提供したい。

 だが、ジョゼはそれを快く思わない。ジョゼは、自分を差し置いて王子の好意をものにしているメアリーを否定したいがために、彼女の汚点、醜態を求めていた。それだけを求めていた。


「あたしの心が安らぐ言葉だけを言ってよ!」

「私を責めないでください。残酷なのは私ではなく、事実です。それに汚点ならば、何よりもメアリーの日雇いの浮浪人という身分がまず挙げられます。それで満足でしょう?」


「いいえっ! そんなんじゃ、そんなんじゃ……あの女を否定できないっ!」

「……あなたがメアリーを嫌う理由としては十分なはずです」

「ちがぁうっ!」


 再び声を荒げるジョゼ。もう彼女からは平静を保つための枷というものが吹き飛んでしまったらしい。


「違う、あたしはあの女のことなんてとっくに大嫌いなんです。でも、でも……、あたしの中のシャルルはあの女のことを嫌いになってくれない。身分とかそんなものシャルルは度外視して、あたしを除け者にしてあの女に愛を捧げる……、それは捻じ曲がったあたしの中でも変わらない。なぜなら……あたしはシャルルを愛しているから……、それが、あたしの愛しているシャルルだからです……。でも、あたしが愛しているシャルルはあたしを愛してくれない。分りますか? あなたにこの苦しみが分かりますかっ!」


 涙ながらに語るジョゼの心中は、王子への純粋故に歪んでしまった愛に満ちていた。ジョゼが王子を愛すれば愛すほど、王子が望む女性というものが自分とはかけ離れて行くのを感じる。


 相反するということと、表裏一体とは同じことを表す。


「そこまで言うのなら、本当にメアリーにあなたの望む汚点などありはしませんよ。あなたも気付いているはずです、自分が愛しているシャルルならば、自分よりもむしろメアリーの方が相応しいということに」


「……やっぱり、あなたは……分かっていない。そんなこと……とっくにわかっているのに……。悔しくて……、悔しくて……、仕方ないんです……」


 まさしくジョゼの中で、王子への愛情は裏返り、憎悪へと姿を変えつつあった。

 私はそれに呼吸を合わせるように冷えて行く彼女の体温が伝わり、背中に悪寒が走った。

 それはちょうど一週間前、彼女の中にメアリーへの嫉妬心が芽生え始めたのを感じ取ったときと似ているようで、どこか違う感覚だった。まるで目の前で動いている巨大な機械の部品と思わしき、部品が外れているということに気づいてしまったような、そんな感覚だった。

 そう、まさしくその部品は、機械が正常に動くための制動を司っていた、最後のたがだったのだ。


「あなたさえも、あたしを否定するというのなら……あたしはすべての現実を否定してみせます……、どんな手を使ってでも……」


 そして、その言葉を最後に、ジョゼは私の目の前に姿を現すことがなくなった。


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