第二十二章「二十四時間営業」
二十四時間、三百六十五日。
この店は、目を閉じない。どんなに、小さくても。深夜三時にも、明かりを灯している。通りを歩く、眠れない誰かに、「ここは、起きているよ」と伝えるために。──それが、二十四時間営業という、約束だった。店側の、都合で、灯りを落とさない。眠れない誰かの、行き場を途切れさせない。──それは、ただの営業形態では、なかった。誰も、追い返さない、という、静かな、約束だった。そして、いまの私はその約束の意味をいちばん深いところで、知っていた。誰も、追い返さない。自分自身さえ、もう棚から、下げない。それが、この明かりの、ほんとうの意味だと、いまなら、わかる。
新しい店は、前の店の半分もない。棚も、少ない。売り上げも、たかが知れている。それでも、私はそこに、立っていた。あのみなと通りの明かりを別の場所で、もう一度灯して。
午前三時。
私は廃棄のチェックをしていた。棚から、販売期限を越えた品を一つずつ、抜く。鶏五目のおにぎりが、手のなかで冷たい。裏のシールの時刻は、とっくに、過ぎている。私はレジに戻り、廃棄登録のモードを立ち上げた。バーコードを読ませる。ピッ、と電子音が、鳴る。──あの夜と、同じ音。人を廃棄したときと、同じ音。
けれど、私はもうこの音をこわがらなかった。
思えば、あの最初の夜。私はこのピッ、の音を聞きながら、自分も、線を越えた品だと、思っていた。まだ食べられるのに、売り物にならない。誰にも、選ばれない。棚から、下げられて、当然。──そう、決めつけて、廃棄のおにぎりを一人で、食べていた。あの夜の私にいま言ってやりたい。あなたは廃棄品じゃ、ない。あなたに貼られたシールは、消費期限じゃ、ない。ただの販売期限。あなたがこわがって、早めに、引いた線。
このシールに、刷られているのは、販売期限だ。傷む時刻じゃ、ない。売る側が、万一をこわがって、早めに、引いた線。線の先にも、まだ食べられる時間が、ある。──だから、私は廃棄登録した品を捨てない。裏の休憩室に、運んで、フィルムを剥がして、口に運ぶ。まだじゅうぶん、あたたかい。まだじゅうぶん、おいしい。
「また、それ、食ってんのか」
声がした。
冬川だった。仕入れの、番重を抱えて、裏口から、入ってくる。今度は、去っていく背中じゃ、ない。私のいる場所へ、入ってくる背中だ。彼は番重を几帳面に、重ねて、置いた。角をきっちり、揃えて。
「あんたも、食べる?」
「もらう」
私たちは、狭い休憩室で、廃棄のおにぎりを半分こに、した。あの深夜のキッチンの、続きのように。彼は今日も、米粒一つ、残さず、食べた。私はその食べ方をもうこわがらなかった。愛おしい、とさえ、思った。
常連たちも、少しずつこの新しい店に、通ってくれるようになった。
田久保さんは、相変わらず、いつもの時間に、来る。肉まんと、無糖のブレンド。「この店の明かりは、前と、同じ匂いがするな」としわの深い顔で、笑う。ノノは、無事に、家に、居場所を見つけたらしい。それでも、たまに、顔を出す。「お姉さん、あのとき、パン、置いてくれてたでしょ。あたし、気づいてたよ」。──気づいて、いたのか、と私は笑った。単品で、見ていたのは、私だけじゃ、なかった。
自動ドアが、鳴った。
「いらっしゃいませ」
声は、勝手に、口から、出た。誰に対しても、同じ高さ、同じ抑揚。──でも、もうそれは、すり切れて、いなかった。あなたが来てくれて、よかった。深夜三時でも、追い返さない。あなたがそこにいていい。そのぜんぶを込めて。
入ってきたのは、若い、女の子だった。制服のまま。財布のなかで小銭を数える指が、少し震えていた。あの日の、ノノと、同じように。どこかに、帰りたくない夜が、この子にも、あるのだろう。
私はその子を見た。客層キーでは、なく。「十代、女」でも、なく。ただ、一人の、眠れない子として。単品として。──いちばん安い、いちばん温かいものを探している目だった。
私はレジ裏のポットに、手を伸ばした。コーンスープをあたためる。
「これ、よかったら」
私が差し出すと、その子は、戸惑ったように私を見た。
「あの……お金」
「深夜三時に来る人に、理由は、要りません」
私は微笑んだ。
「温かいの、飲んで。ゆっくりしていって」
その子の、目が、うるんだ。あたたかいスープを両手で、包んで、イートインの隅に、座った。私はその背中に、そっと廃棄のパンを一つ、置くだろう。この子の、朝ごはんに。誰にも、言わずに。この店の明かりが、灯っているうちは、この子を誰も、追い返さない。
私はレジの内側で店の暗い窓に、映った、自分を見た。
あの香山澪という人のことも、ときどき思い出す。番組は、あのあと、いろいろと、あって、形を変えたらしい。彼女が、いまも、人を切り取る仕事をしているのか、それとも、やめたのか、私は知らない。ただ、あの夜、あたたかい缶を両手で包んで、二十年ぶりに泣いた、あの顔だけは、覚えている。あの人も、たぶん自分に、消費期限のシールを貼っていた。捨てられた側が、捨てる側に回ることでしか、生き延びられないと、信じて。──いつかあの人も、そのシールを剥がせたら、いい。私が剥がせたように。誰かに、温めて、もらえたら、いい。それだけを私は静かに願っている。
前髪は、相変わらず、ぺたりと、額に、張りついている。目の下には、夜勤の、影がある。三十二歳。──でも、私はもうそこに、「賞味期限切れ」を見なかった。「販売期限を越えた品」も、見なかった。ただ、一人の、生きている人間が、そこにいた。まだ食べられる。中身は、なくなっていない。まだ誰かをあたためられる。まだ誰かに、あたためてもらえる。
私の胸に、ずっと貼られていた、見えないシール。何十年も、自分で、貼りつづけてきた、あの線。──それは、もうなかった。剥がした。あの人と、いっしょに。
ポケットの中に、まだあの古い廃棄シールが、一枚、入っていた。ずっと持ち歩いていた、店のいちばん最初の、あのシール。私はそれを取り出して、しばらく見た。もう粘着は、残っていない。何度もなぞりすぎて。
私はそれを捨てなかった。かわりに、レジの、いちばん目立たない、内側に、そっと貼った。お守りのように。──線は、終わりじゃ、ない。誰かが、こわがって、早めに、引いた線。剥がしていい線。それを忘れないための、お守り。
「なあ」
冬川が番重を片づけながら、言った。
「今日の、賄い、何にする」
「あったかいもの」
私は答えた。
「あるもので、いちばんあたたかいもの」
冬川がかすかに笑った。窓の外で、藍色の空が、少しずつ白んでいく。納品便の来る前の、いちばん静かな、あの空。場所は、変わった。でも、空だけは、同じ色をして、明けていく。
私はもう一人じゃ、なかった。
二十四時間、この店は、目を閉じない。眠れない誰かの、行き場で、あるために。そして、その明かりの下に、いまは、二人、いる。番重を運ぶ人と、それを受け取る人。冷たいものを温かいまま、渡そうとする、二人が。
「温めますか」
私は彼に聞いた。
いちばん自然な、五文字で。いちばんあたたかい、告白の言葉で。何度でも、これから、言うのだろう。この人に。この店に来る、名前も知らない、誰かに。──深夜三時の、すべての、行き場のない人に。
「ああ」
冬川がうなずいた。
「温めてくれ」
自動ドアの向こうで、夜が、明けていく。新しい一日が、また、始まる。廃棄シールの貼られた、レジの内側で。あたたかいスープを抱えた子の、隣で。番重を片づける、彼の背中の、こちら側で。
いらっしゃいませ。
この二十四時間の明かりの下へ、ようこそ。
あなたが来てくれて、よかった。




