18 獄炎、蟲王、魔人 、そして狂狼
「そう、危険なんだよアイツは」
ジュリアーヌは杖を構えなおし、警戒するように呟いた。
「来るわ」
『そのようだ』
「遊べる相手じゃない。本気で闘ってよね」
『安心しろ、そのつもりだ』
二体の超越魔物の身体から、膨大な魔力が立ち上る。
ジュリアーヌの周囲が焦熱に灼けつく。
カ・アンクの背後で幾千もの蟲軍が蠢く。
その魔力に含まれた濃密な殺意を、ガルドラクは嗅ぎとる。獣の瞳孔が針の先ほどに収縮する。毛が逆立つ。筋肉が膨張する。人狼の獰猛な圧威が空間を揺らがせる。
超越魔物二体を前にガルドラクは牙を剥く。
「せいぜいオレを愉しませろ」
黒い閃光が瞬き、凄まじい熱波が押し寄せる。
膨大な数の魔蟲の血と死骸が森林に降り注ぐ。
「マズいよ、ヴォルフラム!」ディアナが叫ぶ。「これ以上近づいたら、アレの巻き添え喰らうよ!」
「わかってるッ!」
ヴォルフラムは顔を歪め、叫び返す。
雷鳴のような咆号が、大気を震わせた。
二人は同時に耳を塞いだ。
十分な距離は取っている。風の盾を展開し、音を防いでもいる。だがそれでも鼓膜を破るかの如く、その吼は周囲を圧した。
思えばこの吼え声からこの闘いが、いやこの災厄が始まったようなものだ。
アステルとザラチェンコの激闘のさなか、上空で膨大な魔力が膨れ上がり、黒い爆発が巻き起こり、しかしその黒焔は轟音により砕け散り、驟雨のように降り注いだ。残骸とはいえ極大魔法、それも魔女の極大魔法とあっては、いくらヴォルフラムといえど防ぐすべはない。彼はディアナとともに全力で退避し、なんとか焔の砕片の範囲外に逃れた。だがアステルは剣を交えていた蛇の眼の男と共に、その業火に呑まれた。
生死は不明。
だがヴォルフラムは、アステルの死体を見ていない。連盟員は仲間を捨てて逃げるような真似をしない。だから二人のエルフはアステルを連れ戻すため、再度走り出したのだ。
しかし先程まで彼等のいた地帯は、熾烈な戦場に変わっていた。
三体の超越魔物が繰り広げる闘いにより、その空間はまさに地獄だった。
焔が大地を焦土に変え、蟲が森を蚕食していく。
だが二人のエルフ族の本能をもっとも震え上がらせていたのは黒い極大魔法でも、蟲王の超規模召喚術でもない。
咆哮、そしてその吼の持ち主が放つ、兇猛な殺気。それこそがヴォルフラムとディアナの背筋を、芯から震えあがらしめたのだ。
「クソッ、なんなんだアレは」毒づきながら遠方の空を睨んだヴォルフラムの眼が、その獣を見た。
大気を焦がす焔をものともせず、群がるレギオンを腕のひと振りで薙ぎ払う、桁外れの狼。ヴォルフラムがその獣を視界に捉えた次の瞬間には、すでに獣は消えている。人狼の有する最大の武器は疾さだ。戦場を翔け廻る魔獣狩りの動きを追いきれる者など、いない。
「ダメだ、いったん退いて体勢を立て直そう」ディアナがヴォルフラムの腕を取る。「こんな闘い、アタシ等がどうにかできるレベルを超えてる」
「だがアステルが」
「これが収まんなきゃ、どのみちアステルは探せない。だから信じるしかないよ、アステルが生きてるって」
ヴォルフラムはディアナの顔を一瞥し、舌打ちとともに頷いた。
「ああ、そうだな。俺たちが死んでたら世話ねぇな。信じるしかないか」
「そうだよ、アンタもたまには他人を信じなきゃね」
「うるせぇ」
「なにその態度」
「いつも通りだろ」
「まぁね」
ふたりが無理やり普段のノリを取り戻したその時、
彼等の視界が、ミノタウロスの後ろ姿を捉えた。
「いったん離脱しろ」魔女が命令を下すと、夜の大鴉は超高速で人狼から距離を取る。魔獣狩りとの闘いに瀕して、ジュリアーヌがこの使い魔を選んだのはひとえにストリゲスの飛翔能力の高さゆえだ。彼女はガルドラクと接近戦闘をするつもりなど毛頭なかった。最強の肉叢を持つ月の狼と肉弾戦を繰り広げるなど自殺行為もいいところだ。「ただの爪がこの威力って、相変わらずふざけてるわ」ジュリアーヌは呟き、胸元を拭う。掌をべっとりと血が濡らす。皮膚が裂けている。今しがたガルドラクにやられた傷だ。直撃したわけではない、だが獣の爪が掠めただけで、彼女の肉は堅牢な魔力装甲ごと裂かれていた。「血と痛みの中で踊るのは好きだけど」異形の杖の周囲で、無数の焔球が生成されていく。ジュリアーヌの眸が殺意に沈む。
「アンタとの舞踏は、さすがに遠慮したいわ」
ジュリアーヌはストリゲスの動きを止め、遠方を睨む。
人狼は膨大な蟲の大群に襲われていた。その数は先ほど二人のエルフ族が吹き飛ばした蟲軍の比ではない。
兵隊蟻、虐殺の魔蟲、さらには蟻どもとは姿の違う蟲も召喚されている。
黒紫の外骨格に包まれた巨大な蠍、猛尾の毒蠍。
大きさはソルジャーと変わらないが、桁違いの食欲と攻撃性を持つ暴喰蟲。
この二種は明らかに他のレギオンとは格が違う。それもそのはず、この蟲たちはセメルータ砂漠の三大魔蟲に数えられる超危険指定魔獣、そして蟲王の上級蟲軍。
荒波のようなレギオンの渦は、しかし。
レギオンの大群が、吹き飛んだ。あたかも先ほどヴォルフラムとディアナが放った極大魔法の光景が、再度展開されているようであった。
だが、ガルドラクは魔法など使っていない。そもそもこの獣は魔法など使えない。
月の狼の武器はただひとつ、己が肉のみ。
千々に裂かれたレギオンの残骸、その中心に立つ魔獣狩りの爪から血が滴る。
獣はつまらなそうに腕の血を振り払う。
通常の魔物であれば、ガルドラクのこの戦闘力、その殺気に畏れをなし、逃げまどうだろう。だが蟲王のレギオンは集合意識網と呼ばれる感覚共有術式により閾値下の領域でカ・アンクの支配を受けている。もともとが反射神経の塊である魔蟲のその攻撃性を強化し、一方戦闘に不向きな無条件反射、つまり恐怖は取り除かれ、ゆえにレギオンは完璧な殺戮兵団と化す。どれだけ仲間が死のうと彼等は止まらない。ただカ・アンクの命令に忠実に群れ、襲い、殺す。
そう、そのはずなのだ。
空間が捻れるほどの殺気に、蟲たちが激しく騒めく。
顎を打ち鳴らす音、外骨格が擦れる音、それらは威嚇音ではない。
これは震える音だ。
『オレのレギオンを怯えさせるか、魔獣狩り』ジュリアーヌの隣で形を成したカ・アンクが吐き捨てるように、しかしどこか驚嘆を含んだ声をあげる。『魔狼月牙隊でさえ、ここまで兇暴ではなかったぞ』
「感心してる暇なんてないんじゃない?」ジュリアーヌは焔珠を帯びた杖でガルドラクを狙う。「悪いけどアンタのレギオンごと灼き尽くすわ」
『不愉快だが、状況が状況だ。好きにしろ』
その答えを聞く前に、すでにジュリアーヌは魔法を放っていた。
杖の周辺を漂っていた焔の塊が炸じけ、幾筋もの黒い光帯となって空を貫く。焔を限りなく収束し、火力を一点に集中することであらゆるものを貫く光線とし、それを無作為に、散弾のようにばらまく上位魔法【流星群】。凄まじい貫通力を持つ攻撃魔法ではあるが、敵は最強の人狼、この程度で傷つけることのできる相手ではない。
だが稀代の魔導師にして邪悪なる魔女であるジュリアーヌが、ただの上位魔法を放つわけがない。
あくまでこのレーザーは点火装置だ。
この魔法の真価は、着弾後に現れる。
一条の光線がレギオンの群れに触れた瞬間、
黒い焔の爆発が巻き起こった。
一度ではない、二度三度と、連鎖的な激爆に、森が炸じけ飛んでいく。
レイストームの着弾点を起点に広域殲滅型の術式を発動させる魔女の連鎖極大魔法。
【凶新星残骸】
過剰なまでの火力。
常軌を逸した範囲攻撃。
だがこの程度でくたばる獣ではないと、ジュリアーヌは知っている。
「もう一発」
黒い閃光の軌跡、次いで爆焔。
眼前に映るすべてが、燃える。
呑まれる。
灰塵に帰す。
刹那。
吼え声。
爆炎は須臾にして掻き消される。
泰然とたたずむ獣の影。
その余裕綽々たる姿に、ジュリアーヌは眉をひそめる。
「おかしいわ」彼女はガルドラクの全身を精査する。その躯体には、傷ひとつない。膨大なレギオンの猛攻を受け、苛烈な極大魔法でその身を灼かれたというのに、その体毛には焦げ跡ひとつ見受けられない。確かに月の狼の肉体強度は圧倒的だ。その
肉叢は最上級竜に、その戦闘能力は生体兵器に匹敵すると畏れられたほどだ。しかしいくら月の狼とはいえ、超越者たるジュリアーヌの極大魔法を直撃し、平然と立っていられるわけがない、無傷でいられるわけがない。血を流して然るべきなのだ。
いや、そもそもが。
「なぜ避けない?」
ガルドラクの疾さなら、カ・アンクとジュリアーヌの攻撃を躱せたはずだ。もっともそれを見越して二人は逃げ場のない超規模攻撃 ――レギオンによる包囲殲滅と極大魔法による広域殲滅―― を放ったのではあるが、しかし二人の予想に反し、ガルドラクは一切の回避行動をとらなかった。彼は平然と、むしろ進んで二人の猛攻に身を晒した。まるでその攻撃を受け止められる、いや、むしろ、受け止めたいとでもいうように。
ここまでガルドラクは最低限の反撃しかしていない。
あの魔獣狩りが、なぜこうまで後手に回っている?
「オイ、まさかこれで終わりか?」挑発するようにガルドラクは二体の魔物を睨める。「オレが求めてるのは死闘だ。もう少し本気でやれ」
『そうか、なら死んでくれ』
蟲王は冷徹に告げる。
ガルドラクの足元から巨大な蚯蚓が飛び出し、人狼を呑み込む。一匹ではない、無数の群れがガルドラクを圧し潰すように折り重なる。
セメルータ砂漠の三大魔蟲、その最後の一匹、狂蚯蚓。
『考えている暇があるなら仕掛けろ』カ・アンクが、ジュリアーヌに発破をかける。『もとよりマーナ・ガルムはイカれた種だ。奴等の闘争衝動は常軌を逸している。人狼の思考回路など理解できん』
「ま、それもそうね」ジュリアーヌは胸元から血を掬いとり、額に魔方陣を描く。瞬間、ガルドラクに襲いかかっていたデスワームの体表に、彼女と同じ紋様が浮かび上がる。「悪いけどレギオンを借りるわ」
『貴様、いつからオレの感覚共有術式に侵入していた』
「魔獣狩りが来る直前よ。アンタのレギオンが役に立ちそうだったから、軽くアクセスしておいたわけ」
かつて魔導師とまで呼ばれた彼女は、当然世界最高峰の対魔術戦者でもある。ジュリアーヌはそのクラッキング技術をもちいて蟲王の術式に干渉し、レギオンの操作権を獲得した。もっとも序列第二層に分類されるカ・アンクの術式は超高度であり、その規模その複雑さは強固、なにより蟲特有の難解な術式体系により干渉するのは極めて困難、魔女の力を持ってさえ侵入できたのは表層部分だけだ。ゆえに彼女が手に入れることのできたのは、数体のエルダー・レギオンの操作権だけだ。しかし、彼女にはそれで十分だった。なぜならジュリアーヌはレギオンを生贄として消費するだけなのだから。
『オレの術式に干渉したその技倆は褒めてやる。だが、次このような無礼を働いたら、貴様を殺すぞ、ジュリアーヌ』
「肝に銘じておくわ、王様」
『まあいい、貴様のやりたいことは理解した。さすがは魔女、あらゆる術に精通している。魔神の禁術か』
「そうよ」
自身と生贄を呪印で同調させ、供物の全魔力を術式強化にあてることで、限界を越えた破壊力を引き出す忌まわしき禁術、生贄魔法。すでに失われて久しい魔法ではあるが術式自体は非常に単純なものであり、才能溢れる魔術師ならば復元も可能だろう。ジュリアーヌは七歳の頃にこの術式を完成させた。犠牲になったのは彼女の故郷、血縁を生贄に捧げ、増幅した炎で村を焼き払った。
ジュリアーヌの眦がつり上げる。額の血の魔方陣が、黒く燃える。呼応するようにデスワームの紋様も炎上する。燔祭の火は一瞬でレギオンを灰に変える。血肉と魂が魔力に転換され、そのすべてがジュリアーヌに流れ込む。暴力的なまでに、魔女の魔力量が膨張していく。
『確かに凄まじい術式だ。だが貴様の焔をものともしない魔獣狩りを、それで仕留めきれるのか?』
「これで終わりじゃない。いったでしょ? 過剰さこそが魔女の本質だって」
青ざめた舌が唇をなぞる。
白い喉が奮える。
彼女は詠じる。
悍ましい呪文、狒狒の陀羅尼が、連綿と紡がれていく。
先ほどの詠唱とは発音も単語の選び方も、全体の構成も異なる。
先刻の文言が魔力増強に用いられるものなら、今回の呪文は火力増強の為のもの。
牙、顎、蜉蝣、蟷螂、鬼蜘蛛、無羅獅、鬼鷹、羅刹、羅狒魁、刄、斬魔、舞踏、夜叉丸。
魔女の手の中で杖が踊る。
その面貌に、魔の翳が射す。
「まったく、酷い有り様だな」
ザラチェンコは、肩をすくめた。眼前には、まさに地獄の如き光景が広がっていた。
彼の背後には岩石で造られた巨大な円蓋が聳えていた。ザラチェンコが生成した岩窟だった。分厚い岩盤を何重にも重ね合わせたこの円蓋によって、彼は降り注いだ黒焔から身を守った。
「苦戦しているようだな」ザラチェンコは巨刃を担ぎ、やれやれと首を振る。「できればガルドラクの相手はしたくないんだが、しかし、そんな我が儘をいってられる状況でもないか」
歩き出した彼の背を
「なぜ、だ」
低い声が引き留めた。
ザラチェンコは足を止め、振り返り、声の主に問い返す。
「なぜ、とは?」
「なぜ、私を、助けた」
岩窟からアステルが姿を現した。
その顔にはいまだ魔女への憎悪が燻っていたが、しかし彼は理性を取り戻していた。予期せぬ魔人の行動がアステルの胸中を掻き乱したのだろう。ザラチェンコは広範囲を岩窟で覆い、アステルをも黒焔から守ったのだ。その意味が、アステルにはわからなかった。先ほどまで刃を交えていた魔人がなぜ自分を救ったのか、この男は私の敵ではないのか、いったいどういう意図でこの男は・・・おそらく、混乱と疑問がアステルに理性を呼び戻したのだ。
「理由が必要か?」
「私は、貴公の敵のはずだ」
「まあ、そうだな」
「ならば、なぜ」
「俺は酔狂な男と評判でね、たんなる気まぐれだ」ザラチェンコは飄々と嗤い、だが次の瞬間、表情を消した。冷たい蛇の顔貌、残酷な瞳の内奥に、暗い光が宿っていた。復讐者の眼だった。ザラチェンコはアステルを見つめ呟いた。「君が少しだけ俺に似ているからだ。だから、チャンスをやろうと思った。選ばせてやろうとな」
「いったい、何を」
「この先の生き方さ」ザラチェンコは巨刃で前方を指し示す。「見ろ、この光景を。これが超越魔物の戦場だ。これが俺たちの領域だ」ザラチェンコは無慈悲な眼差しをアステルに向ける。「今日、君がジュリアーヌの前に立てたのは幸運と偶然が何重にも重なったからだ。それを運命と呼ぶのは簡単だが、しかしどうだ? 君はジュリアーヌに指一本触れることさえできていない。まあ、俺が阻んだからしかたないがな」ククッと嗤い、蛇は続ける。「しかしどうかな、俺がいなかったとしても君はカ・アンクに阻まれていただろうし、カ・アンクがいなくとも君はジュリアーヌに殺されて・・・まあ、こんなことを考えてもしかたがない」ザラチェンコは肩をすくめる。「どうせ君が彼女の前に立つことは、もう不可能なんだからね」
「なぜ、だ」
「これから俺たちが、地獄に堕つ五芒星として動くからさ」
再び背を向けザラチェンコは歩き出す。
「今回の状況はまだいい方だ。なにせ俺とカ・アンクしかいない。だがこれから俺たちは超越魔物の集団として、ヘル・ペンタグラムとして表舞台に躍り出る。わかるか? この先ジュリアーヌに挑むということは、すなわちヘル・ペンタグラム全員を敵に回すということだ。少し考えればわかるはずだアステル。君は彼女にたどり着く前に死ぬ。もう一度俺のような甘い男に会えるとは思わないことだ」
「私は」苦痛に呻くように、アステルは声を絞り出す。「それでも、私は、私はあの魔女をッ」
痛々しげに顔を歪め、アステルは遠ざかる魔人の背に手を伸ばす。その手はあるいはザラチェンコの向こうで闘う魔女に向けて伸ばされたのかもしれない。
だが、アステルの手は宙を掻く。
掴める物はない。彼の手はジュリアーヌに届かない。
「誓ったんだ、私は、魔女を、魔女を・・・」
「そうか」担いでいた巨刃を無造作に構え、ザラチェンコは戦場に踏み入る。「なら、今すぐここから逃げることだ。こんなところにいると奴の戦いに巻き込まれるぞ。どういうつもりか知らないが、ガルドラクはずいぶんおとなしい。だが、いつまでも行儀正しくしている奴じゃない。アレが本気を出し始めたら、ここら一帯は壊滅する。俺よりも、カ・アンクよりも、そしてジュリアーヌよりもあの人狼は危険だ。魔獣狩りが来た時点で、君が手を出せる段階は終わったんだよ」
その忠告に、ミノタウロスは沈黙する。
「アステルッ!」
不意にエルフの吠え声が響いた。ヴォルフラムだ。
「どうやらお仲間のご到着らしいな」ザラチェンコはひらひらと手を振る。「優しい君のことだ、彼等が死ぬのは見たくないだろう? さっさと退け。そして俺の言葉を忘れるな。この先ジュリアーヌを追えば、君は確実に死ぬ。確実にな」
それではさようなら、とザラチェンコは炎の中に消えた。
アステルの伸ばした手が、ゆっくりと垂れ下がる。
「届かないのか」嗚咽するように、アステルはぽつりと吐き出す。「私の力は、私の刃は、あの女に届かないのか」
拳を握り締める。手甲が軋る。肩が震える。悔しさに奥歯を噛み締める。
「馬鹿野郎が」「大丈夫?」
悲壮感に震える彼の背に、二人のエルフ族の手が置かれる。
二人の手から温もりが伝わる。
アステルの中で何かが決壊する。目頭を押さえ「殺せなかった」と彼は呟く。
滂沱とした涙が爛れた頬を伝い流れていく。
「殺せなかった・・・ごめんよ、ミドナ」
そう云いながら、ミノタウロスは哭き続ける。
巨大な蚯蚓を、強引に引き千切る。幾重にも層をなすデスワームの群れを裂き、抉り、喰らう。自身の数十倍の巨体、それを投げ、砕き、叩き潰す。底が見えぬほど召喚され続ける長蟲の大群、だがそれがなんだというのだ、この程度の蟲、せいぜいがケルベロスに毛が生えた程度、狼の敵ではない。
殺し、戮す。
鏖殺し、狩り尽くす。
人狼は全身の血を奮い落とす。
「くだらねぇな」
ガルドラクは腰を落とす。大腿部が倍ほども膨れる。爪が地面にめり込む。黄金の瞳が、遠方に浮かぶ二つの影を捉える。
ガルドラクの両腕が地面につく。四脚獣。完全な臨戦態勢。
ここまで彼は、後手に回っていた。あの魔獣狩りが、受け手に回っていた。当然、理由がある。
この躯になってからガルドラクは、まだ一度も傷を負っていない、血を流していない。だから彼は知りたかった。どの程度の傷が致命傷足り得るのか、どれ程の火力ならば、覚醒した獣血を凌駕することができるのか。
オルマ領には狩りの為に立ち寄った。獲物が豊富だった。そんな時、魔女の魔力が立ち上った。愉しめると思った。そして、試せると。己が肉叢に宿った先祖返りの力、黒獣の能力を。
だが、こんな戦い方は性に合わない。
敵の行動を待ち、攻撃を受け止めるなど。
そして自身の能力を秤るなど。
あるいはこの慎重さは、三ヶ月前のあの夜、生体兵器と闘ったことにより生じたのかもしれない。覚醒した獣血をもってしても完璧な治癒には至らず、いまなお彼の獣皮に禍々しい傷痕を残す鬼神の刃。あの竜殺しとの死闘がガルドラクの脳裡に焼きつき、あの激戦、あの敗北がガルドラクの本能に馴染みのない警戒心、それに付随する慎重さを刻み付けたのかもしれない。
だが、こんなものは獣の闘いではない。月の狼の闘いではない。
それが何であれ、狩り、喰らう。
神であろうと、竜であろうと、それがたとえ鬼神であろうと、真正面から挑みかかる。
それこそが魔獣狩り。
それこそがガルドラク・ド・ガルガンジュであるはずだ。
「まったくオレとしたことが」ガルドラクは嗤う。「くだらねぇ考えだった」
獲物を見据える。
魔女と蟲。
そして跳ぼうとした獣の動きは、しかし飛来した岩塊により阻まれた。
巌の剣、斧、鎚。
石化魔法により生成された武器の嵐が、ガルドラクに降り注ぎ、されどそのすべてが人狼に届く前に打ち砕かれる。
緞帳のように砂礫が立ち込める。
その砂礫を裂くように、蛇の巨刃が瞬いた。
閃光のような一撃が獣の頭蓋を直撃し、
だが、刃が振り抜かれることは叶わなかった。
「ヨォ、あの夜以来じゃねぇか、ザラチェンコ」
特大剣は人狼の顔面で動きを止めていた。
獣の獰猛な顎門が、巨刃を銜えていた
牙と顎。
ガルドラクは咬合力のみで岩巨刃リスベットを受け止めていた。
「まったく君は」剣を握る魔人の顔にいつもの嗤いはない。凍りつくような蛇の異貌。冷徹に、残酷に、ザラチェンコはガルドラクを睨む。「相も変わらず、出鱈目すぎるぞ」
顎門から強引に剣を引き抜き、
ザラチェンコの手の中で巨刃が消え、
魔人の剣から、嵐のような斬撃が繰り出される。
今のザラチェンコに遊びはない。三ヶ月前のヤコラルフで、ガルドラクの実力は嫌というほど思いしらされた。遊ぶ暇など、戯れる余裕などない。先ほどのアステルとの闘いでは、ザラチェンコは本気を出していなかった。もちろん手を抜いていたわけではない。だがあの時のザラチェンコは魔法剣士としてではなく、あくまでも騎士として、剣を主体として、闘っていた。魔人の剣術は凄まじかったが、しかしアステルにたいして手心がなかったかといえば、それは嘘になる。復讐に身を捧げるその憎悪、そして亜人でありながら超越魔物を殺そうとするその狂気・・・ザラチェンコはアステルを気に入っていた。ゆえに手心をくわえ、逃がした。
だが、眼前の人狼を相手に手心など不要。
この獣はザラチェンコの出会ってきた魔物の中でも、間違いなく『最強』の存在。
全身全霊、本気で挑まなければ殺される。
ザラチェンコの剣が、さらに疾くなる。重くなる。鋭くなる。
そしてその剣撃に、巌の剣戟を織り混ぜる。
直線的な巨刃の猛攻、石化魔法による全方位強襲。
想像を絶する波状攻撃は、しかし、人狼にすべて捌かれる。
そしてそれを予測できぬザラチェンコではない。
苛烈な猛攻によりガルドラクに生じたわずかな隙、その間隙を蛇の嗅覚は見逃さない。
するりとザラチェンコは、そこにつけこむ。
「出番だ」
魔人の側面の空間に亀裂が走り、巨大かつ長大な影が現れた。
ガルドラクと会敵した瞬間に、ザラチェンコは門を済ませていた。
出現した影は尾だった。次元断層の残滓に濡れた、魔蛇の尾。
異界に潜む超越魔物【尾呑みの蛇】
「薙げ、ムンドゥス」
ザラチェンコが命じるよりも速く、大蛇は森ごと人狼を薙ぎ払っていた。
吹き飛ぶガルドラク。
尾の追撃が獣を襲う。
宙空での数十連撃。
着地。
平然と立ち上がる人狼。
両手に握る肉を、彼は放り捨てる。
ザラチェンコの横で揺れる大蛇の皮膚から血が流れる。
ガルドラクが受けたのは最初の一撃のみ。宙空の追撃はすべて防ぎ、どころか逆にウロボロスの肉を削ぎ落としていた。
「悪くねぇ攻めだが、これで終わりじゃねぇだろうな」
牙を剥く獣。
「安心してくれ」ザラチェンコは遥か後方で膨れ上がる炎熱の魔力を確認し、告げる。「次はジュリアーヌの番だ」
「ベストなタイミングで現れたわね、ザラチェンコ」ジュリアーヌは杖を天に掲げた。「おかけで完璧な魔法を練り上げることができた」
彼女の杖は、もはや空間そのものを揺らがせるほどの焦熱を纏っていた。
鋭い眼光が人狼を狙う。
高らかにジュリアーヌは声をあげる。
「さすがにコイツを喰らったら、ただじゃすまないわよ、魔獣狩り」
ガルドラクの足元が、黒く染まった。
空気が灼け、空間が焦げる。
視界のすべてが、甚大な熱量により歪む。
その光景を前に、ガルドラクの眸が輝く。
「来いよ」
嬉しそうに獣は嗤い、
瞬後、灼熱が天を貫く。
生贄と詠唱。
強化に次ぐ激化。
二重強化極大魔法【獄炎の巨塔】




