16 獣たち
「いい顔になったな、アステル」ザラチェンコは快活に嗤った。「まるで血に飢えた暴牛だな。ああ、勘違いしないでくれ、褒めてるんだ」
「黙れ」
アステルは爛れた半顔を押さえた。皮膚が疼く。筋肉が唸る。糜爛した傷痕が魔女を覚えている。あの女の匂いを、気配を、魔力を記憶している。あの日のすべてがここに刻み込まれている。すべてが、この灼け爛れた皮膚に染みついている。
『パパ、熱いよ・・・』
殺意の左眼と、憎悪の右眼がザラチェンコを捉える。
「私の、邪魔を、するな」
息が荒い。
身体が小刻みに震えている。
アステルは苦しそうに言葉を吐き出す。
「おい、大丈夫か」
異変に気づき近づいてきたヴォルフラムをアステルは制した。同じようにディアナの動きも牽制する。
「私から、離れろ」
この時アステルは、今日何度も口にした言葉の意味を理解した。彼はことあるごとに『逃げろ』と忠告していた。敵は強大な力を持つ超越魔物。私の復讐に巻き込まれる必要はない。だからアステルは言い続けた。黒焔から、魔女から、そして蟲から逃げろ、と。
だが違ったのだ。もはや決壊寸前の自身の正気を前に、抑えられぬ憎悪を前に、アステルは理解した。
『私から逃げろ』
彼は無意識のうちにそう言っていたのだ。
呑まれれば怪物になってしまう。
見境のない獣と化してしまう。
二人を傷つけたくなかった。殺したくなかった。何より憎悪に染まったあの姿を二人に見せたくなかった。仲間に見せたくなかった。
「早く、逃げろ。私が、冷静なうちに」
閃光のような剣筋が走った。
ザラチェンコの斬撃を、アステルは正面から受け止めた。荒々しい左角が刃を阻んでいた。岩剣と角鞘が激突する。
「まだ抑えているな」ザラチェンコは冷酷な瞳でアステルを睨める。「悪いが俺と闘りたいなら本気を出してもらおうか。蛇の嗅覚を侮らないでもらいたい。君の内奥で燻っている衝動を嗅ぎ取れないほど、俺は甘くない。力を解放しろ、そして死力を尽くして闘え。でなければ遊びにもならない」
「黙れ。退けと、いっている」
刃と角による鍔迫り。
「そう簡単にお姫様に辿り着けると思わないでくれ。通りたければ俺を倒すしか方法はない」
「なぜ、貴公が私の邪魔をするッ!」
「仲間だからさ」ザラチェンコは嗤い、アステルの角を弾く。「いや、仲間と呼ぶには俺たちの関係はあまりに薄弱であまりに脆いか。とはいえ同じ逆五芒星の元に集った同胞だ。彼女の為に剣を振るのは別におかしなことじゃない。それに先ほどもいったろ? 俺は騎士だ。いつの世も姫を護るのは騎士の務めだ。俺は父上の血に忠実なだけだ」
「その女は獣だ、そんな女を護るというのかッ!」
「そうだ」
「私の復讐の、邪魔をするというのかッ!?」
「もちろんだ」
「これが最後の忠告だ」アステルは苦悶に顔を歪ませ、あえぐように絞り出した。「今すぐ、そこを退け」
「悪いな、断る」
ザラチェンコのその一言が、アステルを繋ぎ止めていた最後の鎖を引き千切った。
「そうか」
重く、獰猛な声。
「なら、貴様を」
アステルはこの瞬間、決壊した。
「殺してやる」
雄牛の咆哮が森に響いた。いや、咆哮と呼ぶにはその声は、あまりに悲壮に満ちていた。まるで悲鳴のような響きをおびたその声は、しだいしだいに歪み、歪み、宿怨の唸りに変わり、憎悪の嗚咽となってアステルの喉を震わせる。
慟哭。
これは慟哭なのだ。
「殺す、殺すぞ、貴様も、魔女も、殺してやる」
アステルの全身の筋肉が盛り上がり、鎧が内側から膨張する。体毛が逆立ち、灼け爛れ薄くなった皮膚に血管が浮き上がる。憎悪と獣性に支配された面貌が神話で語られる戦神のそれと重なる。極度の興奮状態により心臓の鼓動が限界を超える。体温が急上昇していく。魂が黒く燃えあがる。心優しかったミノタウロスはもういない。
今のアステルは獣。
鬼哭啾々たる憎悪の化身。
アステルの眼から一筋の涙が流れる。
怨嗟を吐き、憎悪に呑まれ、そして哭いている。
哭きながら、彼は狂っていく。
悲愴なまでの殺意に空間が張り詰める。
「なるほど、それが君の本性か」ザラチェンコは手にしていた刀剣をちらりと眺める。「どうやらこの剣で相手をするのは無理そうだな」
彼の手の中で剣が砂のように崩れ
「来い、リスベット」
その言葉と同時に足元から一本の岩柱がザラチェンコの前に飛び出した。よく見ればそれは鞘だ。岩でできた巨大な鞘。彼がその鞘に触れるとたちまち亀裂が入り、罅が広がり、一呼吸間を置いて岩は粉々に砕け散る。
後に残ったのは一本の剣。断崖のように荒々しい刃を持ち、ザラチェンコの身長を凌駕する刃幅と刃渡りを有す、特大の大剣。
彼の母が産み出し、父が振るった英雄剣。
絶対零度の殺意を纏い、ザラチェンコは【岩巨刃リスベット】を担ぎ上げた。
「果たしてお姫様にたどり着けるかな」
「殺す」
そうして暴牛と魔蛇が激突する。
疾風が駆け抜けた。
皇太子殿下一行の隊列上空を、影が飛び越えた。
草原に、一匹の四脚獣が着地した。
レオパルドはルイソンに一瞥をくれる。
彼の視線の意味を即座に理解したルイソンは、力強く頷く。
レオパルドはオーギュスタを抱えると、荷馬車から飛び降りた。
皇太子殿下一行に程近い草原に降り立った一匹の獣、その意図もその目的も、その正体すら不明となれば警戒せざるを得ない。ヴォルフラムとディアナがそうしたように、二人はすすんで殿をかって出たのだ。
オーギュスタを地面に下ろし、レオパルドは幅広剣を腰から引き抜いた。使い込まれた刃が朝陽を照り返す。
オーギュスタは魔法の杖を構え、いつでも魔法を発動できるよう魔力を練り上げる。
「私も残ろう」
二人の傍らに軍服の人狼が立つ。
「ルイソン近衛隊長」レオパルドは驚いたように口を開く。「皇太子殿下の側を離れてよろしいのですか」
「殿下のことなら心配ない。選りすぐりの精鋭たちが必ず護り抜く。それに私は殿下の護衛から外れたわけではない。君たちの考えと同じだ。現状、殿下に差し迫った危機は、アレだ」ルイソンは近衛兵の矜持と人狼の本能を剥き出しにした顔貌で、前方を睨む。「あの場所に降り立った獣の正体を見極め、もし殿下に危害をくわえようとたくらむなら全力で阻止する。安心してくれ、私の実力は連盟でいえば聖銀級に相当するはずだ。君たちの足を引っ張るような真似はしない」
「俺たちとしても、貴方に手伝っていただけるのなら願ったり叶ったりです。正直、これほど離れているというのに鳥肌が止まらない」
「私もだ」
「今までこんな気配に遭遇したことはありません」
「こんな臭いの人狼はオルマにはいない。おそらく他の国にも、いや世界中探そうと見つからないだろう。もしそんな狼がいるとすれば、それは」
「ルイソンさん、レオパルドさん」オーギュスタがルイソンの言葉を遮り、草原を指差した。「どうやら動くようです」
固唾を呑む三人の視線の先で、四脚獣がゆっくりと立ち上がった。
瞬間、暴威。
そう呼ぶよりほかにない、圧倒的な殺気が周囲に吹き荒れた。
『皇太子殿下を護る』
三人のその思いは、粉々に砕け散った。
「マズい」ルイソンは手の震えをなんとか抑えようと拳を強く握り締めた。毛が逆立つ。額を冷や汗が伝う。彼の中に流れる狼血が、狂ったように警報を鳴らす。「なんということだ、桁外れすぎる」
「こんな獣が、いるのか」レオパルドは幅広剣を構える。歯が鳴る。身震いが収まらない。古塔で死霊魔導師と対峙した時のような、いや、それ以上の絶望感。
「い、息が、できません」苦しそうに呻き、オーギュスタが膝をつく。「す、すいません、敵を前にして、こんな情けない姿を晒して・・・」
「防御魔法を張って、俺の後ろに下がれ」レオパルドは彼女の前に立ちはだかる。「第六感の鋭い魔術師のお前があんな殺気をじかに浴び続けていたら、精神が持たないぞ。俺でさえ、立っているのがやっとだ」
「間違いない」
ルイソンは苦しげに、その狼の異名を絞り出した。
「アレは、魔獣狩りだ」
鉄塊の斧と岩塊の刃が打打発止たる剣戟を演じる。
斬り結ぶごとに炸裂音のような刃音が響き、一太刀ごとに閃光のような火花が散る。
ひときわ大きな音とともに、刃と刃が鍔迫り合う。
「素晴らしい」ザラチェンコは称賛し、嗤いを消した。「ただのミノタウロスが、まさかここまで俺の剣についてくるとは。正直、想像以上だ」
ザラチェンコの言葉にアステルは修羅の形相で唸り、巨刃を弾く。
再び壮絶な応酬が巻き起こる。
理性から解放されたアステルの本能は、暴力的なまでに研ぎ澄まされていた。
縦横無尽に繰り出される蛇の猛攻、そのすべてをアステルは受けきる。
もちろんザラチェンコの剣技、そのすべてに反応できているわけではない。神速で振るわれる巨刃は、間違いなくアステルの反応速度を凌駕している。だがアステルの握る斧は、まさしく弩級。岩巨刃リスベットを上回るほどの大得物【断竜斧】。その刃は強大な矛であると同時に、鉄壁の盾ともなる。アステルが知覚し得えず、対応が遅れたとしても、この斧の防御範囲ならば問題ない。
そして彼の身につける異形の鎧。ここまで何度か、ザラチェンコは石化魔法を放っている。だがそのすべてが悉くあの鎧を前に相殺された。おそらく鎧の内奥に強力な魔力が宿っており、甲冑自体が魔力装甲の役割を果たしているのだろう。鎧という性質上、その魔力が防御の為だけに利用されているとは考えづらい。アステルのこの膂力、この頑強さ。おそらくあの外装はミノタウロスに身体強化魔法を付与している。神魔戦争の時代ならば【巨竜纏い】、三百年前の種族全面戦争のただ中ならば【魔導外装骨格】に分類されるであろう、戦神の竜鎧。
だがそれだけではアステルのこの強さは、説明できない。
一介の牛頭族の身で超越魔物に挑むなど無謀もいいところだ。ザラチェンコはそういう無知な者どもを悉く斬り捨ててきた。ユリシール王国のアニーシャルカやジュルグ帝国のツァギールはなかなか良い戦いをした。先ほどのヴォルフラムやディアナも蟲王の蟲軍を相手に素晴らしい健闘をみせた。確かに人界においても隔絶した実力を有する使い手は存在する。だが超越魔物とは人間や亜人がどうにかできるような存在ではない。
しかしアステルは、ザラチェンコを相手に互角に斬り結ぶほどの戦いを見せている。
(ただの亜人が、どうしてここまで)
刃を交えながら、ザラチェンコは殺意と敬意の入り交じった奇妙な感慨に囚われていた。
弩級の鉄塊を流麗なまでに操るその技量、厳のような重量の鎧を支えるその躯体、それを手に入れる為にこのミノタウロスは、どれだけの研鑽を積み重ねてきたのか。
どれだけの地獄を乗り越えてきたのか。
そしてその地獄を成し得る為に、どれほどの憎悪を、どれほどの狂憤をその身に抱えているというのか。
「復讐、か」
ザラチェンコの耳朶に少年の泣き声が甦る。
『僕が殺します』
両親の死体の間で、血と汚辱に塗れた少年は静かに呟く。
『僕が聖騎士アルトリウスを殺します』
アステルを見つめるザラチェンコの眸に、何か郷愁めいた、同類を見つけたようなシンパシーが浮かび上がる。しかしそれは一瞬で消える。
あとに残されたのは狡猾で冷酷な蛇の眼光だけ。
アステルの横薙ぎを受けると同時にその反動を利用し、ザラチェンコは一気に後方へ距離を取る。
「さて、どうするか」
石化魔法は効かない。
剣術はほぼ互角。
と、なれば。
ザラチェンコは特大剣を構える。
蛇特有の、威嚇の噴気音が喉から漏れる。
周囲の温度が急激に下がっていく。
岩巨刃リスベットに、膨大な魔力が収斂していく。
「しかたがない」
ザラチェンコは眼前のミノタウロスを敵と、自分と同格の強敵と認めた。
『極大魔法で君を殺そう』
アステルにそう告げようとした瞬間、ザラチェンコはそれを聞いた。
同様に、アステルの耳も、それを捉えた。
理性を失い、憎悪の復讐者と化したミノタウロスが動きを止めざるを得ないほどの、
その吼を。
その殺気が放たれた時には、すでにジュリアーヌは杖に腰掛け上空へ飛びたっていた。
『気づかれたぞ』
先ほどから姿を消していたカ・アンクの形代が耳障りな羽音を発て、草原の果てを注視していた。この国にばら蒔いた斥候蟲が、最大警戒態勢を意味するフェロモンを放っていた。
「今、この国はアイツの狩場。これだけ暴れりゃ、そりゃ気づかれるよね」
『面倒な事になった。もう少し慎重に立ち回るべきだったな』
「ま、別にいいんじゃない? これから世界を獲ろうなんてイカれたこと企んでるアタシ等が、後先考えて行動するなんてらしくないわ」
『やるか?』
「やらずにすませられそうにないしね」
ジュリアーヌは懐から小瓶を取り出す。中には色とりどりの錠剤が詰まっている。全面戦争時、世界連合軍が開発した固形ポーションだ。シュラメール王国一級宮廷魔術師時代、ジュリアーヌは様々なロストテクノロジーの文献に触れ、多くの知識を得た。その知識を用いて精製されたのがこのポーション、それも彼女の代謝生理に合わせ完璧な改良が施され、三百年前の代物よりも強力な作用を及ぼす、まさしく魔女の為のオリジナル・ポーション。ジュリアーヌはこれを【激成剤】と呼ぶ。
無造作に口に放り込み、ジュリアーヌはドラッグを噛み砕く。錠剤に刻まれた極微細の強化用魔方陣が発動し、粘膜を通して身体の隅々まで効力が浸透する。
【魔力量増強】【魔力濃度強化】【五感鋭敏化】【感覚認識領域拡大】【モノアミン神経伝達物質追加放出】
数種類の強化により、彼女の全能力が向上する。
『貴様ほどの力があれば、そんな物など不要だろうに』
侮蔑を含んだカ・アンクの言葉に
「わかってないわね。これが魔女の戦い方よ」ジュリアーヌは高らかに嗤う。「過剰なまでの魔道具で自らを飾りたて、過剰なまでのバフで能力を強化する。そう、過剰さこそ魔女の本質なの。貪婪に、暴力的に、過剰なまでに魔導を追い求める、それこそが魔女よ」
バフによる高揚感に身をまかせながら、彼女は外套の前をはだける。
首からぶら下げられたいくつもの装飾品。
犬、鼠、山羊、鳥、猫。
獣の下飾り。
その中からジュリアーヌは鳥の紋章を選び出し、口づけする。
とたんにペンダントから黒い羽毛が溢れ、彼女の足先で一塊を成し、一匹の巨大な鴉を形作った。
魔女の使役する悪霊、夜の大鴉と呼ばれる怪鳥。
ジュリアーヌはその背に飛び乗る。
猛禽のような眸に悪辣な光を宿し、かたわらに浮かぶ異形の杖を掴み取る。
「さぁて」
ジュリアーヌは愉しそうに舌舐めずりをし、しかし最大限の警戒を込めて呟く。
「死にたくないし、本気で闘らなきゃね」
草原に立つ一匹の獣。
くすんだ銀毛が朝焼けに染まる。
獰猛な殺意を纏った四脚獣は、空を睨み、
兇悪に、凄絶に、狼は牙を剥いた。
「狩りの時間だ」
そうして獣の咆哮が、天を劈いた。




