40 鬼神
〈40〉
バズロは、いまだに何が起きたのか理解できずにいた。
勝敗が決したのは一瞬だった。あまりに唐突だった。あまりに速過ぎた。超越魔物たるバズロの知覚と第六感を以てさえ、己の身に降り掛かった災禍の全貌を捉えきることは叶わなかった。
だが、ただひとつだけ判っていることがある。
敵は、懸絶していた。圧倒的だった。そして何より、絶対的だった。
「殺す前にひとつ訊く」
ふたりの前に立ち塞がった灰色の髪の男は、腰紐に差したそれに手を掛けた。一尺程の長さの、持ち重りのしそうな棒状の物体。表面は光沢の無い重々しい重金属の黒であり、先端に大振りの、片方には小振りの、薄紅色の水晶球がそれぞれ嵌め込まれている。
男はその物体──形状からいって、おそらく剣の柄──を右掌で引き抜き、
「イビルへイムは何処だ?」
云い終わらぬ内に、
「人間が、口の利き方に気をつけろよ」
荒々しい怒声と共に、鋭利な烈風が男に襲い掛かる。
「質問してるのはテメェじゃねぇ、兄貴だろうが。なに無視してやがんだ」畳み掛けるように、バズロはもう一陣、〈烈風の千刃〉を放つ。地面ごと抉り取る勢いで吹きつける風の刃は、しかし、此度もまた男が操る赫い薄靄によって阻まれる。
だが、バズロは止まらない。バズロは大雑把で直情型の性格だ。戦いに於いてつまらない小細工などしない。確かに眼前の男に〈烈風の千刃〉は通じない。だが、それがなんだというのだ。通じないなら、通じるまで喰らわせてやればいい。いくら腕が立つとはいえ、所詮は人間、そう何度もこちらの攻撃を禦げるわけがない。バズロは両腕に烈しい飆を纏わせ、三度目の魔法を放とうと腕を振りかぶり、
「バズロッ」
兄の呶鳴り声に、寸前でバズロは動きを止める。違和感がある。何かがおかしい。バズロは勢いよく傍らの兄に貌を向け、
バズロの胸中に、云い知れぬ不安が立ち籠めた。
兄は──ズグは、常に最強の存在としてバズロの中に君臨して来た。どのような敵と遭遇しようと、兄は冷静沈着に、淡々と、立ち塞がる敵の悉くを力尽くで捻り潰してきた。魔力量と精霊の使役数は弟たちを遙か上回り、放たれる魔法の威力と範囲は、弟ふたりを軽々と凌駕する。雄々しく羽撃いた翼は暴風を巻き起こし、獰猛な獅子の眼差しに、精霊は平伏す。風の王。精霊の支配者。間違いなくバズロにとってズグは最強の存在、最強の兄だった。
そんな兄が、激したように呶鳴り声を上げた。そのようなことが嘗てあっただろうか?
だが、何よりもバズロの胸中を波立たせたのは、ズグの顔つきだった。兄の貌は、強張っていた。引き伸ばされた細縄のように、限界まで水を注がれた革袋のように、兄の横貌は張り詰め、固く緊張していた。その表情が指し示す感情は、ひとつは警戒であり、ひとつは焦燥であり、だが、何よりその横貌に泛んでいるのは……不安。
兄が、不安を覚えている。常に最強の存在として弟ふたりの前を歩いて来たあの兄が、云い知れぬ不安に貌を強張らせ、焦燥に呶鳴り声を上げている。
なぜ、兄はこのような貌をしている? このような声を出す? 一体何が、兄をこのような醜態に追い込んでいる?
「口の利き方に気をつけるのはお前等の方だ」
不意に聞こえたざらりとした声に、バズロの鬣が一斉に逆立つ。背筋を走る抜ける云い知れぬ怖気。バズロは反射的に灰色の髪の男に視線を戻し、
そこで思わず、バズロは息を呑む。そして悟る。兄がなぜ不安を感じているのか、自分がなぜ怖気を感じたのかを。
男が、変貌を遂げていた。
目許から蟀谷にかけて拡がる細かな血管。頸筋と前膊を蛇のようにのたくる、幾筋もの太い血管。皮膚という皮膚の裡側で不規則に明滅を繰り返す魔の紋様。結膜下出血を起こしたように朱々と染まる眼球結膜。
だが、何より際立って変貌を遂げていたのは、その眸だ。
朱爛れた眼球結膜、その中心に泛ぶ、一対の深淵。
赤でもなければ朱でもない。緋色でもなければ真紅でもない。ましてや代赭でも、深緋でも、猩猩緋でもない。茜、浅緋、銀朱、薔薇色、朱殷──どれも違う。
それは、〈赫〉だ。もはや失われて久しい古の魔語に於いて”破滅の赫き”を意味する、眼を射る程に鮮烈で、深淵のように底の見えぬ、禍々しい〈赫〉に染まった眸。
「お前等と戯れる気はない」その眸が、獅子鷲の兄弟を射抜く。「今の俺は、そこまで寛大じゃない」鋭い異音がバズロの耳朶を打つ。男の周囲で赫い火花が弾け、緋の稲妻が四方八方を縦横無尽に駆け抜ける。魔力衝突により引き起こされる物理現象。男から立ち上る緋色の薄霧が、その量、その密度を異常なほど高めていく。「もう一度訊く。死ぬ前に答えろ」男が右掌に握る剣の柄、漆黒の表層に赫い光が幾条も生じ、呼応するように先端に嵌め込まれた水晶球が緋色に赫く。
男は剣の柄の感触を確かめるように握り直し、「イビルへイムは何処だ?」
刹那、猛然たる暴風のうねりが、男を包囲するように発生する。
風量、風速ともに著しく、散乱する瓦礫の山は吹き飛ばされ、純白の甃は一瞬のもと吹き浚われ、どころか暴風は街路の基礎となる頑強な混凝土を削り、持ち上げ、基礎はおろか下層の分厚い岩盤までもを、猛烈な風速で天高く巻き上げる。宙を舞う幾つもの巨大な岩盤は、しかし瞬きする間に荒れ狂う暴風の刃によって刻まれ、擂り潰され、砂埃となって空の彼方へと吹き消える。
凄まじい威力。桁外れの魔力出力。甚大な精霊の支配数。
俄に、バズロは気力を取り戻す。
兄だ。これは兄たるズグの解き放った魔の法則。
吹き荒ぶ竜巻によって獲物の動きを封じ込め、数千数万もの風の刃によってその血肉を塵とする、近接撃滅型に分類される極大魔法〈刃の颱飆塵〉。
追随するように、バズロも同様の極大魔法を発動する。
ズグの竜巻に重なるように立ち上がったバズロの竜巻は、互い互いが共鳴し、激化増幅し、より巨大でより強力な大竜巻となって周囲一帯、すべてのものを貪欲に呑み込んでいく。
「もっとだッ」ズグが声を荒げる。血走った眼が、弟の闘志を焚きつける。「バズロ、お前の使役するすべての精霊をこの魔法に注ぎ込めッ 先のことなど一切考えるなッ!」
「わかってるぜ兄貴ッ 精霊なんざ幾らでも使い潰してやるッ!」
兄弟の狙いは一致していた。
──殺す。
灰色の髪の男は、異形の化け物へと変貌を遂げた。だが、これで終わりではない。魔獣としての本能が、超越魔物としての第六感が、これは始まりに過ぎないと告げていた。あの悍ましい姿はあくまでもあの男の実力の片鱗に過ぎず、滾々と溢れ出す緋色の薄霧は、奴がその身に宿す厖大な魔力の先触れに過ぎない。──そう、今ふたりが目の当たりにしている灰色の髪の男の姿は、あくまでもこの男の実像の内の、ほんの一端に過ぎない。
この光景の果てに何が待ち受けているのか、バズロとズグには判らない。何が起こるのか。何を目撃することになるのか。一体”何”がふたりの眼前に顕現することになるのか──ふたりには皆目見当がつかない。
だからこそ、殺す。男が真の力を解放する前に、男が異形の化け物へと成り果てるその前に、男を殺す。
あるいは、兄弟は男の正体に気づくことが出来たかもしれない。
予兆ならばあった。
なぜ精霊がざわめいたのか。兄弟の歩みを止めるほどの騒擾を、なぜ精霊は起こしたのか。
あるいは、なぜこの区劃は水底のような静寂に沈み込んでいたのか。聖都全域を覆い尽くす戦禍の轟音が、なぜこの地では鳴りを潜めていたのか。
この男がいたからだ。この男の気配に精霊は度を失う程の恐慌を来し、封ぜられていてなお抑えることの出来ぬ男の力の片鱗が、人間、魔物、飛竜を問わず、意識できぬほど底深い原初の本能の領域に於いて、この地に近づくことを忌避させていた。
あるいは、男の姿。もしも兄弟が先の大戦を経験していたならば、禍々しき赫い化け物へと変貌を遂げた男の様相から、その正体を見極めることも出来ただろう。しかし兄弟は大戦を知らぬ生まれであり、また人界より隔絶されたメルドポルダ荒野を根城としていた為に、人間の歴史や技術に関する知識が他の逆五芒星の顔ぶれに比べ、著しく欠如していた。勿論、存在は知っている。嘗て人類が”それ”を造り出し、戦場という戦場を、竜という竜を、”それ”によって殺戮した──その歴史自体は当然識っている。しかしその実体については、兄弟は精確に把握してはいなかった。
古塔集結の折り、顔ぶれの言葉の端々から、”それ”の生存の可能性は仄めかされていた。そう、先の大戦に於いて黒竜に並び恐れられた”それ”が、現代に生き残っている可能性が、僅かとはいえ提示されていた。
ゆえに兄弟は気づけたのかもしれない。
精霊の警告を軽視せずに、顔ぶれの言葉に真剣に聞き入ってさえいれば、ふたりは男の正体に思い到れたのかも知れない。そして気づけてさえいれば、今、彼等が直面しているこの状況を、ふたりは回避できたのかもしれない。
だが、そうはならなかった。
兄弟は”それ”に手を出してしまった。”それ”の前に立ち、”それ”を侮り、”それ”の頸筋目掛け、魔の法則という刃を、猛然と突き立てた。突き立ててしまった。
苛烈に渦を巻く暴風、旋転する刃の乱舞。耳を聾する程の暴風に、大気そのものが瘧のように打ち震える只中で、兄弟はその声を聞いた。
聞こえるはずがなかった。大地そのものを巻き上げる程の轟音が鳴り響く中で、男の声音など聞き取れる筈がない。そもそもが、男はすでに死んでいる筈だった。超越魔物二体による極大魔法の重複発動。聖都全域の精霊を支配下に置く兄弟が、そのすべてを投じて放たれた渾身の大狂飆、その中心に鎖し置かれた男が生きているわけがない。死んでいる。男は死んでいて然るべきなのだ。
だが、聞いた。ズグは、バズロは、吹き荒れる暴風の哭びの只中に、確かにその声を耳にした。
「これがお前等の答えか」
鋼鉄のように無機質で、
「なら、もういい」
鑢のようにざらついた、
「目障りだ」
無慈悲な鬼神の声を。
「──死ね」
そして──
「大丈夫よ」幼い娘を強く抱擁しながら、母親は我が子の耳許に囁く。娘の柔らかな背中が小刻みに震えている。母親の服を握る拳は、固く閉じられている。娘は母親の胸元に顔を埋め、咽喉の奥から悲痛な嗚咽を漏らす。「大丈夫」あくまでも気丈に母親はそう囁き、薄暗い退避室の中を見廻す。疲れた顔つきの老人、身を寄せ合う男女、負傷した箇所を庇いながら身を横たえる男……様々な人々が、シェルターの中でセイリーネスに齎された掛け値なしの災厄が過ぎ去るのを待っている。
聖都各地に点在する神殿には、有事の際に住民が非難する為のシェルターが設えられている。震災、颱風、大火──そして戦禍。有事の際にシェルターは解放され、人々は身近な神殿へと逃げ込み、対物理衝撃、対魔法攻撃に優れた地下深くのシェルターの中で、災禍が過ぎ去るのを待つ。
今一度、母親は我が子の躯を強く抱きしめる。
「絶対に大丈夫」あたかも自分自身に云い聞かせるように、母親は強い声色で言葉を口にする。「何があろうと、絶対にお母さんがあなたのことをまも
「……置いてけ」
荒い息遣いと共にそう呟いた友に、
「うるせぇ」銀鎧の騎士は、同じく銀鎧を身に纏った友の右腕を肩に担ぎなおし、「左脚は無事なんだろ。弱音吐いてないでさっさと歩け。肩を貸すのも楽じゃねぇんだぞ」
「……お前ひとりなら、生き残れる」
「なわけねぇだろ」
「……俺を担いでるよりかは、可能性はあるだろ」
「判ってんだろ、セイリーネスはもう、そういう状況じゃねぇ」騎士は素速く周囲を一瞥し、心中で悪態をつく。すでに騎士の見知った聖都の街並みはそこにはない。吹き荒れた異常な暴風に崩落した建造群。黒い焰に燃え盛る街路また街路。神聖騎士団の一員として守護を命じられた街衢、その街並みが、突如降り掛かった二通りの災厄によって、完膚無きまでにその姿を変えられしまっていた。
此処だけではない。ある区劃は灰白色の岩膚に丸ごと覆われ、ある区劃からは慟哭とも怨嗟の叫びとも思える、神経を逆撫でするような悍ましい貓の大音声が、数多の多重奏となって鳴り響いている。そして頭上を旋回するのは、禽の翼を持つ巨大な爬虫類……「お前を連れてこうが置いてこうが、生き残れる可能性なんざ僅かだ。なら、置いてかねぇ」騎士は友に顔を向け、「それにな、俺は騎士団に入った時に決めたんだよ。仲間は絶対に見捨てねぇ。だから、安心しろよ」騎士は強気に笑い、「お前を見捨てるくらいなら、俺は
「……どうやら終わったようだね」
男は独りごちると、崩れるように尻餅をついた。
ついに力を使い果たしてた。もはや一滴だって躯から魔力を絞り出すことは出来ない。完全に枯れ果てた。もう無理だ。精根尽き果てた。もはや指先ひとつ動かすことも出来ない。「あともう少し数が多かったら、僕たちは終わってたよ」
「まったくね」同じように傍らにへたり込んだ女が、頷いてみせる。「私だってもう、立ってられない。いい加減、限界」握力の失せた掌で何とか剣を鞘に戻し、「本当に、ギリギリだったわね」
「でも、何とかなった」
「人間、諦めなければ何とかなるものね」
ふたりは顔を見合わせ、笑い合う。
今し方まで、ふたりは三十匹ほどの貓の生頸と死闘を繰り広げていた。ふたりは聖都の援軍要請に応じ馳せ参じたとある国の冒険者だった。男は人間にしては珍しい闇魔法の使い手であり、女は双剣を操る剣士だった。ギリギリの戦いだった。何度死にかけ、何度喰われかけたか知れない。だが、ふたりは勝った。こうして生き延びた。
「……アレ、何だ?」不意に男が遠方を見つめる。
「なに?」
女の問い掛けに、
「アレだよ」そう云って、男は女の背後を指さす。「ほら、あそこの、あの赤い
*****
聖都落としには、生存者がいる。神聖都市国家セイリーネス、都市そのものが国家を成す聖都の規模感からすれば、その生存者の数は僅かなものでしかない。しかし、それでも確かに、聖都落としを生き延びた人々は存在する。
後年、生存者たちは配偶者を相手に、我が子に、孫に、友人に、隣人に、教会の神官に、そして同じく聖都落としを生き延びた人々に向かって、あの瞬間の光景をこう語る。曰く『赤い稲妻が聖都を貫いた』。曰く『眼に映るすべてのものが、真っ赤に歪んだ』。曰く『血のように赤い雨が空から降り注いだ』。曰く『不気味な赤いうねりが、空に向かって打ち上がった』。曰く『赤々とした光が、セイリーネスに振り下ろされた』。
記憶というものは美化される。あるいは刻の遷いと共にゆっくりと薄れていく。忘却とは、人間に生来より備わる重要な防禦反応のひとつなのだろう。この記憶についても同様だ。生き延びた人々の語る記憶の中の情景は、美化という名のフィルターによって限りなく暈かされ、あの瞬間に人々の胸中を締め付けたであろう言語に絶する恐怖は、永い歳月の中で限りなく希釈されてしまっている。
だから、彼等の語る情景は精確ではない。あくまでも人々が語ったのは、あの忘れ難い一瞬、眼前に立ち現れた禍々しい災禍の一端、その輪郭に過ぎない。
実情は、彼等の記憶を遙かに上回る。
『聖都そのものを強引に引き裂く、赫奕たる雷霆』。『空に噴き上がり大気を朱く灼き焦がした厖大なる漏出魔力』。『聖都広域に野放図に撒き散らされた、緋色の、重々しい、濃霧のような超高密度魔力粒子』。『無数の街衢を一瞬のうちに呑み込んだ、狂濤の如き赫い衝撃波』。『嘗て眼にしたことがない程に悍ましく、また類を見ないほどに禍々しい、赫赫たる一振りの刃』。
すべての情景が、彼等が記憶するよりも苛烈だった。激烈であり、熾烈であり、何より凄絶極まりなかった。赫赫たる一振りの刃は神聖都市国家セイリーネス北部〈特別区〉の古代闘技場前の大路から、東部〈工業区〉までに拡がる宏大無辺の街並みを、数粁に渡り両断した。
その刃は、刃圏に存するすべてのものを悉く消し飛ばした。生物無生物の別はなかった。一切合切が等し並みに、すべてのものが跡形も無く消滅した。軒を連ねる家屋も、密集する建造群も、荘厳な造りの神殿も。抱き合う親子も、支え合うふたりの騎士も、笑い合う冒険者たちも。あらゆる街並み、あらゆる人々、あらゆる生命──そして超越魔物にして逆五芒星に連なる獅子鷲でさえも。
正式名称、超高密度魔力圧縮形状固定武器。通称、魔剣。
だが、その男の扱う刃だけは、厭悪と畏怖を込めてこう呼ばれた。
〈赫刃〉。
*****
バズロが生き残ったのは、ズグの咄嗟の行動によるものだった。
赫刃が振り下ろされる寸前、ズグは突発的に強風を放ち、傍らのバズロを大きく吹き飛ばした。
ズグは意識的にこのような行動をしたのではない。反射的に、本能の赴くままに、ズグは家族を、弟を護った。超越魔物と云えど、血縁の絆の深さは人間たちとそう変わりはない。どころか、世界の辺縁に位置するメルドポルダ荒野に於いて、身の不遇を託ちながらお互いの存在を支えに生き抜いてきた獅子鷲の絆は、人間たちなど比べるべくもないほどに強く結びつき、絶対に断ち切ることの出来ぬ紐帯となって兄弟を固く繋ぎ合わせていたのだろう。
血は水よりも濃く、魔力は血を上回るほどに濃い。
ゆえにズグは、最後の瞬間、バズロを救った。
己の身を犠牲にしてまで、兄は弟を庇った。
紙一重で、バズロは生き延びた。
──だが、一体それで何が変わるというのか。
バズロは動くことが出来ない。
どれだけ藻掻こうと、どれだけ足搔こうと、バズロを鷲摑む赫い魔力の拘束は、微塵も弛まない。どころか、暴れれば暴れるほどに、赫い魔力の拘束は強まる。赫い指先は肉に喰い込み、骨を軋らせ、バズロを握り潰す勢いで締め付けは増していく。逃げられない。はもはやバズロに逃れる術はない。
「意外だな」鑢のようにざらついた声が、バズロの背筋を凍りつかせる。「まとめて殺したつもりだったが、ひとり生き残ったか。それも、弱い方が」
バズロの皮膚が粟立つ。獅子の鬣がぞわりとそそけ立つ。腕が慄える。掌に冷や汗が滲む。咽喉がカラカラに渇き、バズロの眸に恐怖が──超越魔物と相成ってい以来、ついぞ感じたことのなかった掛け値なしに純粋な恐怖が、泛ぶ。
あり得なかった。あり得る筈がなかった。兄貴が、俺の兄貴が、たった一撃で──
「……何なんだ」
恐怖に抗うように、バズロは叫ぶ。
「……一体、何なんだッ」
恥も外聞もかなぐり捨て、超越魔物としての矜持すら抛り捨て、眼前の男に向かって、禍々しき緋の翼を背負った化け物に向かって、バズロは声の限りに絶叫する。
「テメェは一体、何なん──」
悲痛なバズロの叫びは、しかし聖都に谺することはなかった。
赫刃が、振り下ろされた。
此度の一撃は、バズロごと、大路より西部に拡がる〈商業区〉の雑然とした都市景観を、跡形も無く裁ち割った。
禍々しい情景が、再び聖都を舞台に再演される。
その後に、バズロの存在した痕跡は欠片もない。
──二度。たった二度、赫刃を振り下ろしただけで、聖都には二条の、決して消えることのない疵痕が腐刻された。あたかも大震災によって齎されたが如き深々とした地隙は、男の保有する絶対的な火力を如実に物語っている。たかが剣の一振りが地形を変え、地図を書き替えることを余儀なくさせる。二度に渡る赫刃が聖都にどれ程の災禍を齎したのか、精確なところは判然としない。
だが、これだけは断言できる。
被害規模、死傷者数──共に甚大。
サツキの握る魔剣から、刃が消えていく。
翼のように巨きく立ち上る漏出魔力が拡散し、身に纏う赫い奔流が、熱湯に投げ入れられた氷のように一瞬のもと融け消える。血管ののたくる皮膚は平生を取り戻し、膚裡に泛び上がっていた魔方陣の赫い紋様が薄れる。眼球結膜の爛れは癒え、双眸で渦巻いていた禍々しい〈赫〉が、サツキの内奥、心臓と融合した半永久魔力生成炉へとゆっくりと退いていく。
自らが齎した二条の災禍の痕跡など一顧だにせず、サツキは踵を返す。この男からすれば、この様な光景は茶飯事に過ぎない。気にかける必要がどこにある。無情な貌つきでサツキは歩き出し──すぐさまその歩みを止める。
背後に、研ぎ澄まされた気配が降り立った。
ゆっくりと、サツキは振り返る。
一匹の魔物が、そこにいた。
墨色の体毛。長い両腕。抜き身を思わせる鋭い眼差し。
一匹の猴。一匹の黒き狒狒。
サツキは赫い双眸を黒狒狒に据え、「何のつもりだ」
答える代わりに、黒狒狒は腰に佩いた二振りの妖刀をゆっくりと抜き出す。薄ら氷のように透徹した刀身の大刀、皓く清冽な刃の小刀。長い腕の先で妖しく光る、修羅の刃。黒狒狒はサツキの赫眸を睨み返し、重々しい錆声で、ただ一言、「……試したくなった」




