39 禍刻
〈39〉
刃の血糊を振り払い、シュラマルは刀を鞘へと戻す。なめらかな動作で脇差しを、鷹揚な所作で大刀を。鍔と鯉口が打ち合う玲瓏な音が、静寂の中に冷たく響く。吹き過ぎる風が黒狒狒の墨色の体毛をそよがす。血が匂う。吐き気を催す屠殺臭が鼻をつく。右掌を刀の柄頭に乗せ、左掌で無造作に頸筋を掻き、シュラマルは手ずから作り出した酸鼻を極める光景を、黙然と眺め渡す。
「馬鹿な……」シュラマルの背後で掠れた声があがる。赤銅色の鱗。力なく横たわる巨体。爬虫類の総体としての頭。カラミットだ。カラミットは地面の上から黒狒狒の背を見上げ、
「我が麾下が……この私が……手も足も出ないなどと……」
愕然とした飛竜の呟きに、
「先刻、云ったはずだ」背後を顧みることなく、シュラマルは一言、断ずる。「貴様等の相手など、俺には役不足だと」
シュラマルの周囲には、累々たる飛竜の屍体が散乱している。切断された翼、斬り飛ばされた下肢、両断された胴体、刎ね飛ばされた頸部。斬り口は愕くほど滑らかであり、骨も、筋繊維も、血管ですらが医術書の解剖図の断面のように明瞭に見て取れる。さらにそこから、翼ならば翼膜の張る各指ごとに、下肢ならば関節ごと指ごと、胴体は胸部、水月、臍と整然と斬り分けられ、禽のように伸びる頸も、蛇のように長い尾も、均等に斬り落とされている。流れ出た飛竜の血潮は神殿屋上を血の海へと変え、斬り刻まれた無数の屍体が岩礁のように錆色の水面から顔を覗かせ、その岩礁の合間を縫うように、切断面より溢れ出した色とりどりの臓物が小舟のように静かに揺蕩っている。凄絶極まる惨劇の光景は神殿屋上に留まらず、周囲一帯を濃密な血臭によって包み込んでいる。
死屍累々。屍山血河。まさしく地獄。
「……あり得ん……魔物如きに……このような猴を相手に……濃血の飛竜たるこの私が、ミル・カムイ様の懐刀たるこの私が、私がッ!」沸き上がる怒りを糧に、カラミットは勢いよく身を起こし、しかしすぐさま同胞の血の海に、何より自身から流れ出した大量の血潮の中に倒れ臥す。すでにカラミットは瀕死の体だ。片翼は断たれ、太く強靱な尻尾は斬り落とされ、両脚を失い、赤銅の鱗に包まれた全身には、夥しい数の刀創が深々と刻み込まれている。
カラミットは己の不甲斐なさに奥歯を嚼み締める。
カ・アンクから警告は受けていた。
危険だと。絶対に侮ってはならないと。
実際に相対し、カラミットは黒狒狒の並々ならぬ力量を、その膚で実感した。
油断はなかった。見誤ったつもりなど毛頭なかった。
しかし、まさかこれほどとは……
残された片翼で躯を支え、再びカラミットは身を起こし、
根元から、片翼が斬り飛ばされる。
今一度、カラミットは頭から血の海に叩きつけられる。
「なかなか如何してしぶといな。やはり貴様は他の蜥蜴とは違い、幾分骨がある」
「……貴様のような魔物が、よもやこの時代にいようとは」屈辱に貌を歪めながら、カラミットは呟く。見上げる黒狒狒の肢体には、一切の瑕疵が認められない。その躯幹も、その四肢も、揺らぎ立つ墨色の体毛一筋さえ、その一切合切が無傷。掠り傷はおろか、返り血の一滴さえ、黒狒狒は浴びていない。〈濃血の飛竜〉たるカラミットの率いる飛竜の軍勢を、たった一匹の猴が圧倒した。
カ・アンクが警戒していたのも頷ける。この黒狒狒は、危険すぎる。生かしておけば、この先間違いなく竜血族にとって大きな脅威となる。
……殺さなければならなかった。
先刻のシュラマルの提案を呑むべきだった。聖都に散らばる麾下の飛竜をすべて招集すべきだった。全軍をこの一戦に投じ、全身全霊を以て黒狒狒に挑み掛かるべきだった。だというのに、カラミットはシュラマルの言葉を退けた。己が矜持を護るため、ただそれだけのために、重大な選択を謬った。麾下と己の生命を犠牲にしてでも、この黒狒狒は、今この瞬間、この場で殺さなければならなかった。ならなかったのだ。
だというのに、だというのに……
慚愧の念に囚われていたカラミットの眼前で、
だしぬけに、シュラマルが血を吐いた。
カラミットは虚を衝かれた。
シュラマルは口許を掌で押さえる。背を丸め、黒狒狒は噎せ返る。樫のように固く節くれ立った指の隙間から、朱々とした鮮血が滴り落ちる。シュラマルは俯く。噎ぶに合わせ、血が足許に幾条もの細い糸を引く。黒狒狒の噎びは、静寂の中に異様なほど大きく反響する。
「……そうか、どうやら多少は貴様に手傷を負わすことが出来たらしいな」血の海の中で、カラミットは嗤う。考えてみれば、当然のことだ。末席とはいえ、飛竜とは竜の血脈に連なる者。その軍勢が、本気で挑み、殺しに掛かったのだ、いくら黒狒狒といえど、無傷で済む筈がない。見て呉れこそ変わらないが、その実、飛竜の猛攻によってシュラマルは何らかの傷手を体内に被ったのだろう。「成果としては、微々たるものではあるが」這い蹲りながらも、カラミットは黒狒狒に向け、愉悦の表情を見せる。「……だが、貴様ほどの魔物に手傷を負わせることができたのだ。ミル・カムイ様の懐刀として、最低限の──」
そこで、カラミットの言葉が途切れる。
愕然と眼を見開き、思わず咽喉を詰まらせる。
──気づいたのだ。
血が流れ出す。鱗が毀れる。肉と骨が辷るようにズレる。
カラミットは気づいた。気づいてしまった。
己が身の置かれた状態に。
「早合点するな」重々しい錆声が、カラミットの鼓膜を打つ。
シュラマルの呼吸は、すでに平生を取り戻している。口許を拭い、掌に纏わる血糊を振り払い、シュラマルはゆっくりと背後を振り返る。「この血は、俺の宿痾によるものだ」指先で左胸──心ノ臓を叩きながら、「貴様の気骨は認めてやる。だが、だからといって思い上がるのはよせ。貴様等如き雑輩がどれだけ束になろうと、貴様等の牙も爪も、この俺には届かん」シュラマルは口腔に溜まっていた血を一息に吐き捨て、「ようやく気づいたか。先刻鏖した人間どもに比すれば幾分増しとはいえ、貴様も鈍すぎる。──貴様など、疾うに殺している」
その言葉を皮切りに、カラミットの躯幹が瓦解する。血が迸り、臓物を撒き散らし、頸が、胴が、四肢が、翼が──赤銅色の巨体が、整然と、精確無比に斬り崩れる。
先ほど切断されたのは片翼だけではない。あの瞬間に、すでにカラミットは黒狒狒の絶技によって──いや、魔技によって、斬殺されていた。
シュラマルの操る気刃──〈斬術〉によって。
斬られた本人が気づかなぬ程の太刀筋。死にながら生かすほどの剣捌き。その切れ味の鋭さ足るや、一体どれほどの……
「たわいもない死合いであった」カラミットの屍体から貌を上げ、今一度シュラマルは手ずから作り出した惨劇を一眸する。「──が、鍛錬としてみれば上等な部類か」
散乱する斬殺体。揺蕩う血の大河。そして噴き出した血潮に塗れた尖塔と、臓物のこびりついた寺院、屍体に飾り立てられた楼閣。
周囲に林立する、無傷の建造物の数々。
無傷の建造物──この光景の異常性に、カラミットは最後まで気づくことなく逝った。それは、おそらく僥倖なのかも知れない。
鍛錬。──そう、此度もまた、シュラマルは周囲一帯の寺院楼閣を傷つけることなく、刃圏に存する獲物のみに焦点を絞り、斬った。この殺戮は、シュラマルにとって鍛錬のひとつに過ぎなかった。
斬魔剣術当主たる者、刀の一振り一振りが妙技であらねばならない。気刃の一振り一振りが絶技であらねばならず、シュラマルの振るう太刀筋は、そのすべてが魔技であらねばならない。そしてその為には、絶えず自己に苛烈な研鑽を強いねばならない。
林立する建造物を傷つけることなく獲物のみを斬るには、〈斬術〉の核となる気刃を完璧に操る必要がある。ひとたび放たれた気刃──つまり魔力によって形成された刃──を、それも無数に放たれた気刃のひとつひとつの太刀筋を完璧に把握し、繊細に操り、建造物ひとつひとつを精確に躱しながら、周囲一帯、数区劃という広範囲に及ぶ獲物のみに焦点を絞り、鏖す。
正気の沙汰ではない。
人間が相手ならば、判る。シュラマルに抗する実力のない人間は、据物斬りのための卷藁のようなもの。シュラマルからすれば容易い戮し。しかし此度の相手は違った。シュラマルが相対したのは凶獣と化した飛竜の群れであり、竜と遜色ない力を有する濃血の飛竜カラミットだ。そのような強力無比な軍勢を相手に、鍛錬という名の縛鎖で己が技倆を縛りながら、よもや平然と打ち勝つなどと……そのような芸当が、この黒狒狒を措いて他に誰に成し遂げられるというのか。
まさしく狂気の沙汰。そして狂気こそが、千年余を越える歳月を殺戮に捧げてきた猴たちの、蠱毒という媾いによって血を繋いできた黒狒狒の一族の、紛うことなき本質。
シュラマルの口中には、いまだ濃い鉄錆の味が余韻を引いている。病魔の味。宿痾の味。忌々しいその味を舌先で吟味しながら、シュラマルは己が余命に念いを馳せる。──甘く見積もって三十年。たった三十年。人間からすれば充分に思える歳月も、超越魔物の尺度からすれば、なんと短いことか。
だからこそ、死霊の誘いに応じたのだ。
〈無羅獅鬼鷹〉の所在を明らかにし、二振りの妖刀を一族の許へと持ち帰る為に。そしてまだ見ぬ強敵との死合いによって、己が技倆を極限まで高め、斬魔剣術を魔技の極致へと研ぎ上げる為に。
だからこそ、応じた。だからこそ、此処に来た。
だというのに。
「やはり、退魔師か」
先刻胸中に泛んだ陰惨な想念が、再び黒狒狒の中で鎌首を擡げる。
──奴と死合い、佩刀する〈無羅獅鬼鷹〉を力尽くで奪い取るか
──その前に、逆星の魔物どもを相手に鍛錬に興ずるか
──あるいは、堕天使や聖騎士という輩を見つけ出し、殺すか。先刻蜥蜴どもと共に顕れた皓い気の竜を相手取るのも、悪くないやもしれん
ゆるりと、シュラマルは歩き出す。
臓物を踏みつけ、屍体を踏み越え、崩れ去ったカラミットの肉塊の傍を通り過ぎる。粘りつく血溜まりに、人間の掌めいた猴の足跡が点々と刻印される。
シュラマルの中で、聖都落としは決着をみた。もとより〈地獄に堕つ五芒星〉の一員になったつもりなどない。あくまでも、シュラマルは黒狒狒流斬魔剣術の当主。この猴が忠を尽くすのは、開祖夜叉丸様の名と、一族に脈脈と受け継がれる羅狒魁の血のみ。これ以上、このような座興に拘り合うのは御免だ。
「頃合いだ」神殿屋上の縁に立ち、シュラマルは崩潰の拡がる聖都を眺めやる。「つまらん戮しには飽き飽きだ。これより先は好きにやらせて貰う」
己の齎した殺戮を背に、シュラマルは神殿から飛び降りる──寸前、シュラマルの動きが止まる。
全身の体毛が逆立つ。背筋を雷の如き衝撃が貫く。鼻孔がひくつく。項が火に炙られたようにチリつく。蟀谷が、云い知れぬ予感に静かに脈打つ。
シュラマルは、ある一点に視線を集中する。方角は、北東。高々と聳え立つ建造物の列により、視界は阻まれている。汚泥のように幾層も堆積する逆星の魔力残滓によって、遠方の気の流れを読むことも出来ない。
だが、白刃のように研ぎ澄まされたシュラマルの五感は、血で血を洗う蠱毒の果てに培った黒狒狒の勘が、確かにその瞬間、言葉に出来ぬほどに禍々しい、異質な凶兆を大気の中に見出した。
シュラマルは眸を抜き身のように鋭く細める。大刀の柄に手を掛け、研ぎ上げられた気を全身に廻らせ、殺意を湛えた双眸を以てその方角を睨む。「……何だ、この気配は」
衝撃に、思わずベリアルは退る。
純白の甃に血が飛び散る。兜より覗く視野が、水蒸気めいた薄煙に白む。白金色の胸当てを横切るように腐刻された、一条の傷痕。ベリアルは鎧越しに胸元を強く押さえる。傷口が疼く。煮え湯を浴びたかのような刺々しい熱感が膚を苛む。溢れ出る血潮が、堕天使の掌を朱々と染めていく。
「ベリアル様ッ」背後から上がった聖女の切迫した声に、
「案ずるな、シャルルアーサ」あくまでも泰然と、ベリアルは答える。「これしきの傷で倒れる私ではない。それよりも、君たちは無事か」
「私たちは、何とか」
「そうか」
「……申し訳ありません。私としたことが、結界の展開が遅れました」
「君の落ち度ではない」そう云って、ベリアルは素速く背後を顧みる。忸怩たる思いに顔を伏せるシャルルアーサと、その背後で怯えたように身を寄せ合う一塊の群衆。我が子を強く掻き抱く母親、固く手を握り合う幼い兄妹。慄えながら教会の聖句を唱える老人、怯えたように蹲り、数珠を爪繰りながら祈りを捧げる男……皆怯えている。恐怖に戦き、身を竦めている。だがそれでも、群衆の中の誰ひとりとして、手傷を負った者はいない。「君は最善を尽くしている」ベリアルは力強くシャルルアーサに頷き掛ける。「恥じるなシャルルアーサ。人々の安全は、君に掛かっている」
「ですが」
「惑うな、シャルルアーサ。我々が対峙している相手は──」
瞬間、眼を射るような眩い閃光と共に、再度ベリアルは後退を余儀なくされる。
血飛沫。白い水蒸気。またも胸元に腐刻された疵痕。
「──ほう、二度も耐えるか」氷河のように冷たい美声が、ベリアルの耳朶に響く。「胸から上を斬り落としたつもりだったのだが、さすがは堕天使、聖属性への耐性は充分備えているものとみえる」
金属を力任せに引き千切ったかのような異音と共に、三度、ベリアルの鎧に疵痕が刻まれる。
堪えきれず、ベリアルは態勢を崩し、片膝をつく。
胸元に刻まれた疵痕は、すべて同一の魔法によるもの──上位光魔法〈眩耀刃〉。
「苦しいか」冷たい美声が言葉を続ける。「いくら耐性があろうと、貴様が魔物である以上、世界の理には逆らえぬもの。ましてそれが〈神〉の魔力ともなれば、尚更」
肩で息をしながら、ベリアルは声の持ち主に視線を向ける。人の像をした一匹の竜、白竜ミル・カムイがそこにいる。
背後で、シャルルアーサが自分の名を叫んでいる。しかし、ベリアルは応えない。その余裕がない。
耐え難い劇痛が、ベリアルの全身、頭頂から爪先に到るまでを責め苛んでいる。
ミル・カムイの云うように、ベリアルは魔物でありながら聖属性に対して並々ならぬ耐性を持つ。〈堕天使〉──神の軍門に下った魔物は、まず初めに〈教会〉の神官たちの手によって徹底的な肉体の聖別を受ける。聖水による湯浴みにより穢れを洗い落とされ、聖なる香油によって身を浄められ、堕天使の為に設えられた聖属性を編み込んだ特別な封鎖結界の中で、七日七晩に渡る聖なる黙想を行う。この聖別が一度で終わることはなく、年に数回は執り行われ、聖別を繰り返すことで堕天使の肉体は徐々に徐々に純化していき、やがて堕天使は、魔物でありながら聖属性への耐性を持つという、特異な存在へと到る。
聖属性はあらゆる魔力を乱し、中和し、相殺する。そしてあらゆる”魔”を無条件に灼き尽くす。
魔物が聖属性に触れた場合、その肉体は硫酸をかけられた人間の皮膚のように白い煙をあげながら熔け爛れていく。そしてその際、魔物は想像を絶する劇痛を味わうことになる。
ベリアルは堕天使として完璧な純化を遂げている。現在の彼ならば、聖騎士アルトリウスの魔法が直撃したとしても、そのダメージと苦痛を最小限に──そう、あたかも蛇の眸の魔人がそうであるように──抑える事が出来る。
それがただの聖属性であれば、どのような光魔法であろうと、ベリアルは耐え抜く自信がある。
そう、それがただの聖属性であれば。
ベリアルの咽喉から低い唸りが漏れる。皮膚という皮膚が粟立ち、額には脂汗が滲み、力みすぎた為に頸筋に太い血管が浮かび上がる。奥歯を嚼み締め、拳を強く握り、ベリアルはいつ果てるとも知れぬ凄絶極まる劇痛を、耐える。
ミル・カムイの言葉は正しい。魔物である以上、絶対に逆らえぬ理が、どう足掻こうと抗しえぬ法則が、この世界にはある。
「不様だな」鉄のように無情なミル・カムイの眼差しが、跪くベリアルを射貫く。「神を求め、神に屈し、神の奴隷にまでなり、その挙げ句がその様とは。不様を通り越して滑稽ですらある」ミル・カムイは高々と右腕を掲げる。肘から指先にかけてが、太陽と見紛うほど燦然と白熱する。前膊に充溢するのは、甚大極まる聖属性。ミル・カムイが操るのは、正真正銘、神の力。
「肩慣らしは終わりだ。そろそろ消えてもらおう」
〈眩耀刃〉そのものと化した腕を、ミル・カムイは振り下ろし、
「ほう、面白い」ミル・カムイは己の腕を見やる。振り下ろしたはずの右腕が、肩を過ぎた辺りの角度で彫像のように固まっている。ミル・カムイの視線がベリアルの背後、群衆の先頭に佇つ聖女を見出す。
「貴様だな、女」ミル・カムイはシャルルアーサに声を掛ける。「〈空間固定〉か。このような高等術式を操り、あまつさえこの私の動きを阻むとは、人間にしてはなかなかやる。──だが」冴え冴えとした破砕音と共に、ミル・カムイの周辺に硬質化した魔力の砕片が乱れ飛ぶ。「脆い。この程度の術では時間稼ぎにもならんぞ」
「無論、承知しております」
刹那、ミル・カムイの鼻先に巨大な拳が迫る。
滴り落ちる血液。立ちのぼる水蒸気。胸元に刻まれた三条の疵痕──ベリアルだ。空間固定によってミル・カムイに生じた僅かな隙、その一瞬の空隙を、ベリアルは見逃さなかった。灼けつくような劇痛は、いまだベリアルの躯を蝕んでいる。痛みは深々と肉に喰い込み、その牙を骨の髄にまで突き立てている。傷口からの出血は止まらず、周辺組織は無惨なまでに灼け爛れ、刻々と熱傷の範囲を拡げている。神の与える苦痛を前にしては、いかに超越魔物といえど屈せざるを得ない──だが、ベリアルは動いた。痛みを押し殺し、負傷の程度を度外視し、平時と遜色ない力強い動きで、ベリアルは間合いを詰める。白金の手甲の中で拳を固く握り締め、鉄靴がめり込むほど烈しく甃を踏み砕き、渾身の力と厖大な魔力を拳に籠めて、ベリアルはミル・カムイに挑み掛かる。守護者の任を果たすために、神の騎士としての使命を果たすために、ベリアルはミル・カムイへの顔面へと、真正面からその拳を叩き込む。
大轟音。
鉄塊と鉄塊が高速で衝突した重い響き。そのあまりの音量にに地面に亀裂が走り、砂礫が舞い上がり、周囲の建造物が震える。ベリアルを見守っているシャルルアーサですら思わず顔を蹙め、群衆は一斉に耳を塞ぐ。
凄まじい衝撃。言語に絶する膂力。そう、この膂力こそが、ベリアルの有する最大の武器。これこそが彼の魔物としての本質。
直撃さえすれば、逆五芒星に連なる魔物たちでさえ、致命打となりかねないベリアル渾身の一撃。ミル・カムイといえど、直撃すればただでは済むまい。
そう、直撃さえすれば。当たりさえすれば。
──手応えが、ない。
「その躯でよく動く」拳の先から、冷静沈着なミル・カムイの美声が響く。「魔物である以上、神の魔力の齎す苦痛は想像を絶するはず。堕天使といえどその事実に変わりはない筈だが……そうか、思い出したぞ。ベリアル・シルフォルフ、貴様の正体は確か、アレの末裔だったな。肉体強度こそが貴様の種の特質。なるほど、道理で動けるわけだ」
ベリアルの拳を中心に、空間が歪んでいる。引き延ばされたように撓み、攪拌されたように渦を巻き、空間の至る所に漣が走る。
ベリアルとミル・カムイを隔てる、一枚の透明な障壁。聖なる魔力を帯びた、鉄壁の盾。
〈神聖魔防壁〉──ではない。別名〈聖剣の護り〉とも呼ばれる聖都を守護する極大結界術は、あくまでも神の魔力装甲たる〈退魔の神聖衣〉を身に纏う勇者、及び神の魔力への扉を開く鍵たる〈聖剣〉を介してのみ、発動が可能となる究極の絶対防禦だ。確かにミル・カムイは神の屍肉を喰らい、その魔力を己がものとした。だが、あくまでもミル・カムイが奪ったのは神の一部に過ぎず、神の本質たる魂、最も重要な根源魔力そのものを簒奪したわけではない。ゆえにミル・カムイが発動したのは〈聖剣の護り〉の下位に位置する上位結界術〈聖なる魔防壁〉。
ベリアルは拳に更なる力を籠める。右腕が鎧ごと張り詰め、鉄靴はさらに烈しく地面に喰い込み、幾筋もの地割れが蜘蛛の巣状に拡がる。空間の歪みは苛烈さを増し、走り抜ける漣が荒れ狂う大海原の波濤と化す。ベリアルの拳に籠められた魔力量がさらに高まる。そのあまりの魔力密度に、空間はより烈しくひずみ、捻れ、変形する。
それでも、ベリアルの拳は届かない。
〈聖なる魔防壁〉は聖属性の付与された非常に鞏固な結界だ。先刻シャルルアーサがジュリアーヌ・ゾゾルルの猛火から群衆を護ったのがこの結界であり、現在群衆の周囲に張り巡らせているのも、この結界だ。〈聖なる魔防壁〉はあらゆる魔法攻撃を禦ぎ、物理攻撃を弾き、あらゆる”魔”の侵入を阻む。まさしくそれは鉄壁の盾。
しかし、それでもこの結界は〈神聖魔防壁〉ではない。ベリアルの有する強力無比な膂力と、厖大な量の魔力の乗った渾身の打撃を真正面から受けたとあれば、たとえそれがシャルルアーサの手による結界だったとしても、一撃のもと粉々に砕け散る。そうならなければおかしい。
──神の魔力。それが答えだ。
ミル・カムイは神の魔力を介し、〈聖なる魔防壁〉を展開している。神の魔力を構成するのは、無尽蔵とも思える、超高密度の聖属性魔力粒子。聖属性の特性は──もはや説明は不要であろう。ミル・カムイの結界は〈神聖魔防壁〉には及ばぬまでも、限りなくそれに近い性能を以て両者の空間を劃然と断絶した。そしてその堅牢さは、ベリアル渾身の一撃をさえ、容易に禦ぎ切る。
「もう充分争ったろう」
冷たい美声が結界の向こうより響き、
──瞬閃。
眩い衝撃がベリアルを貫く。
再びベリアルは、崩れるように膝をつく。
鎧の背面、左の貝殻骨の辺りに、母指頭大の風穴が空いている。風穴からは熱い血潮が迸り、大量の水蒸気が勢いよく立ち上る。倒れかけた上半身を、ベリアルは片腕を地面に突き、支える。荒い呼吸。上下する肩。兜の吐息孔から溢れ出る鮮血は、臓腑より迫り上がってきた止めどない吐血か。
「肩慣らしは終わりだと云ったはずだ、堕天使」
ミル・カムイの右掌、その人差し指がベリアルに差し向けられている。
白熱する右腕の中でも、その指先一点が、一際苛烈な耀きを帯びている。
上位光魔法〈眩耀槍〉。
極大魔法を除く光魔法に於いて、おそらく最大火力を有するであろう、鮮烈なる光芒の一撃。極限まで圧縮された聖属性魔力は、射出されたが最後、あらゆる”魔”を貫く死の槍と化す。
〈眩耀刃〉と〈眩耀槍〉。聖騎士アルトリウスを象徴する二つの魔法は、同時に白竜ミル・カムイの代名詞でもある。
ベリアルは、声にならない唸りを上げる。胸に空いた風穴は勿論のこと、ようやく収まりかけていた灼けつく劇痛が、再度ベリアルの全身を責め苛む。
腕が震える。躯が鉛のように重い。肺が空気を求め、痙攣めいた収縮を起こす。動けない。今度こそベリアルは、その場から動くことが出来ない。
今こそ、シャルルアーサの援護が必要だ。彼女の結界術が、豊富な補助魔法の数々が、今のベリアルには必要不可欠だ。しかし、シャルルアーサにそのような余裕はない。
ベリアルを貫通した死の槍は、そのままシャルルアーサのすぐ傍を過り去り、彼女の張り巡らせた結界を引き裂き、身を寄せ合う群衆の只中を、光の速度で貫いた。
幾人もの人々が、一瞬のもと消し飛んだ。悲鳴を上げる間もなく、何が起きたのか理解する間も与えず、〈眩耀槍〉の軌跡に重なる人々は、影さえ残さずに蒸発した。
当然、直撃を免れた人々もいる。〈眩耀槍〉の軌跡から離れていた為に、難を逃れた運の良い人々が。そして直撃こそ避けたものの、〈眩耀槍〉の軌跡の近くにいたが為に腕を失い、脚をもぎ取られ、躯を抉られた人々が。
シャルルアーサはそうした人々を、懸命に助けている。治癒魔法を用いて出血を抑え、恢復魔法を用いて肉体を賦活し、何とか負傷者の生命をこの世界に繋ぎ止めようとしている。ベリアルの加勢に駆けつける余裕は、今のシャルルアーサにはない。
「咄嗟に身を躱し、心臓への直撃を避けたか」ミル・カムイの白熱する指先が、確然とベリアルへと擬せられる。狙いは、額。言葉通り、肩慣らしは終わりだった。ミル・カムイは、ベリアルとの実戦を通じて、己の戦闘能力の確認を行っていた。三百年余年もの長きに渡る〈回生の睡り〉によって、ミル・カムイの肉体は完全な状態を取り戻している。最終決戦の折に生体兵器たちから受けた致命傷は完璧に治癒し、底が尽きる程に使い果たしたに思われた神の魔力も、その嵩を十全に取り戻している。だが、目覚めてよりまだ日が浅い。身体感覚の機微、魔力循環の様相、魔法発動までの速度と精度──ベリアルとの戦闘を通じて、ミル・カムイはそれらひとつひとつを実地に確認していた。結果、問題はなかった。今のミル・カムイは、三百年前と遜色ない戦闘能力を取り戻している。
だから、終わりだった。これ以上戦いを長引かせる必要はない。
聖都には、排除しなければならない敵が数多いる。堕天使程度にこれ以上時間を費やすのは、あまりに無意味。
「神の力によって消滅するのだ、貴様にとっては本望であろう」ミル・カムイの顔貌に憎悪の翳が射す。黒竜様の前に立ち塞がるものは、誰であろうとこの私が屠り去る。白竜の指先が、眼も眩むほどの耀きを放ち、「消えろ、堕天使」
眩耀の槍が射出される、その寸前、
ミル・カムイは、目撃する。
聖都を両断する、赫き斬撃を。
*****
バズロは動くことが出来ない。
どれだけ藻掻こうと、どれだけ足搔こうと、バズロを鷲摑む赫い魔力の拘束は、微塵も弛まない。どころか、暴れれば暴れるほど赫い魔力の締め付けは強まる。もはやバズロに逃げ道はない。
「意外だな」鑢のようにざらついた声が、バズロの背筋を凍りつかせる。「まとめて殺したつもりだったが、ひとり生き残ったか。それも、弱い方が」
バズロの皮膚が粟立つ。獅子の鬣がぞわりとそそけ立つ。腕が慄える。掌に冷や汗が滲む。咽喉がカラカラに渇き、バズロの眸に恐怖が──超越魔物と相成ってい以来、ついぞ感じたことのなかった掛け値なしに純粋な恐怖が、泛ぶ。
あり得なかった。あり得る筈がなかった。兄貴が、俺の兄貴が、たった一撃で──
「……何なんだ」
恐怖に抗うように、バズロは叫ぶ。
「……一体、何なんだッ」
恥も外聞もかなぐり捨て、超越魔物としての矜持すら投げ捨て、眼前の男に向かって、禍々しき緋の翼を背負った化け物に向かって、バズロは声の限りに絶叫する。
「テメェは一体、何なんだッ!」




