37 殉教者
〈37〉
アルトリウスの鉄靴が、ザラチェンコの下腹部を捉える。
強い衝撃。金属のひしゃげたような鈍い音。充溢した魔力に裏打ちされた天使の脚力は、さながら振り抜かれた戦槌。
烈しく甃を転がりながら、ザラチェンコはすぐさま態勢を立て直す。痛みはある。が、衝撃に比してその痛みは微々たるもの。この蹴りは傷手を負わせるためのものではない。あくまで剣戟の膠着状態を打破するための、互いの距離を離すことを目的とした蹴り技。
その意味するところは、明確。
視界の端が、瞬く。
起き上がり様、ザラチェンコは半身を逸らす。蛇の鱗に被われた頬すれすれを、聖なる一閃が掠め過ぎる。
〈眩耀刃〉。
すぐさまザラチェンコは奔りだす。巨刃を担いでいるとは思えぬ疾さ。辷るようなその動きは、さながら獲物に迫る冷酷な蛇そのもの。聖騎士を相手に距離を離す愚を、これまでの戦いでザラチェンコは心得ている。
再び、一閃。
ザラチェンコは姿勢を低める。眩耀の刃が頭上を過る。清冽な魔力粒子が空中で燦めく。魔人の黒髪が幾本か灼き断たれ、はらりと宙を舞う。
気にせず、ザラチェンコはさらに疾く地を駆ける。奔る。
またも瞬く一閃。それも、二度。
飛来する光の斬撃を、しかしザラチェンコは避けない。敢えて正面から受け止める。
鋼鉄を鋸で強引に挽いた時のような不気味な高音と共に、ザラチェンコの蒼い胸当てに、交差する二条の轍が腐刻される。
斜め十字の創口から、血飛沫があがる。──が、出血量は思いのほか少ない。〈眩耀刃〉が到達する寸前、ザラチェンコは魔力装甲の出力を瞬間的に高め、高密度の魔力層によって聖なる刃の威力を減殺した。さらに全身を薄く覆う〈岩の膚〉の硬度を最大まで引き上げ、防禦性能の底上げを図った。──だが、その対応を差し引いたとしても、ザラチェンコの手傷は、これ以上ない程の浅傷にとどまっている。思えば先ほど〈眩耀刃〉を受けた時も同様だった。蒼鎧は断たれたものの、ザラチェンコが深傷を負うことはなかった。いくら魔力装甲越しとはいえ、対魔物戦に特化した退魔の光魔法、それも大天使たる聖騎士アルトリウスの手よる上位魔法とあっては、たとえ超越魔物と云えど、それ相応の手傷を負うことは必定。
血だ。
ザラチェンコは母である〈岩蛇〉の血を受け継いでいると同時に、父である〈人間〉の血も受け継いでいる。人間と天使、この二種族の血脈と云う名の大河を遡上していくと、その行き着く果ては〈神〉。神とは聖性そのもの。ゆえにその血を受け継いだ人間と天使は、聖属性に対して一定の耐性を生来より持ち合わせている。その血が、鎧となった。ザラチェンコに流れる人の血が、魔力装甲や岩の膚に勝るとも劣らぬ鞏固な鎧として、聖騎士の刃からザラチェンコ自身を護り抜いた。
とはいえ、アルトリウスはセイリーネス最強の守護者にして先の大戦で第一天使魔導師団を率いた古強者。剣術も一流ならば、魔法の腕前も一級品。アルトリウスの〈眩耀刃〉を真正面から受け止めるのは、いくら人の血の混じる魔人と云えど軽率に思える。
だが、ザラチェンコは受け止めることを選んだ。そうせざるを得なかったのだ。
ザラチェンコは、捉えていた。二条の閃光の向こうで瞬く、眼を射るような凄絶な耀きを。
血飛沫があがった時には、すでにザラチェンコは右斜め前方に向かって身を投げ出している。
──瞬閃。
一瞬前までザラチェンコの胸当てがあった空間を、鮮烈な一条の光芒が狙い澄ましたように貫く。
〈眩耀槍〉。
ザラチェンコの左胸が熱く疼く。口中に鉄錆の味が甦り、抉るような痛みが胸の創口にぶり返す。魔を貫く光の聖槍。その威力は、先刻身を以て経験したばかり。絶対に直撃してはならない一撃。
この一撃こそを、ザラチェンコは警戒していた。だからこそ、ザラチェンコはこの一撃を躱すことが出来た。
〈眩耀槍〉には弱点がある。魔力を圧縮し、発射点に一極集中せる為、発動に若干の溜めを要する。さらに発射点が大剣の鋒に限定されている為、刃と刃を交える烈しい剣戟の最中では、思うように狙いが定まらない。だからこそアルトリウスは、ザラチェンコを強引に蹴り飛ばした。距離を取り、眩耀刃の二連撃で溜めの隙を消し、矢継ぎ早に繰り出された斜め十字の二閃を陽動とし、その二閃を躱した瞬間の無防備な魔人の心臓を、精確無比に貫く。
ザラチェンコはそこまでの流れを読んでいた。読んでいたからこそ、ザラチェンコは飛来する二閃を敢えて真正面から受け止めた。だからこそ、回避することが出来たのだ。
そしてその回避を、ザラチェンコは反撃へと繋げる。
前方へ身を投げた事により、両者の距離が一気に縮まる。そこはすでに巨刃の間合い。
身を投げた速力を刃に乗せ、四肢に魔力を滾らせ、ザラチェンコは渾身の横薙ぎをアルトリウスに叩き込む。
アルトリウスは大剣でその一撃を禦ぐ。が、あまりの衝撃に、今度はアルトリウスが横様に吹き飛ばされる。
甃を転がる銀の影。飛び跳ねる砂礫。すぐさま態勢を立て直し頭をあげたアルトリウスの視野一面を、灰色の影が覆い尽くす。剣、槍、斧、鎚──岩石から削り出された無数の刃が、アルトリウスに向かって雨あられと降り注ぐ。
衝撃に地が震え、砕け散った甃が粉塵となって上空に高々と噴き上がる。
見通しの利かぬ砂色の粉塵の只中で、白い火花が散る。鋭い音響が連続し、巨刃と聖刃が、藍鉄と白銀の肢体が、粉塵の切れ間で烈しくぶつかり合う。
魔力装甲同士の接触により生じた衝撃波により、粉塵が一瞬のもと吹き払われる。
未だ衰えを知らない両者の戦い。
刃を交わし、魔法の応酬を挟み、また刃を交える。
拮抗する実力。その様はまさに激闘、まさしく死闘。
──巨影が両者の姿を翳らせる。甲高い禽の啼き声と、風を切る翼のはためきが頭上に響く。ル・シャイル広場上空では飛竜の群れが旋回している。魔人と聖騎士の戦いを虎視眈々と瞰下ろしながら、しかしその実、飛竜たちが両者に襲い掛かることはない。
アルトリウスとザラチェンコの周囲には、至るところ飛竜の屍体が散乱している。眩耀の刃に斬られたもの、巌の巨刃に断たれたもの、光の聖槍に貫かれたもの、岩石の刀槍に串刺されたもの……そう、すでに一度、群れは聖騎士と魔人に襲撃を仕掛けている。そしてその悉くが、両者の手によって屠られている。アルトリウスは、この戦いは神の御稜威を護ると同時に、自らの雪辱を果たす為の聖戦と位置づけている。ザラチェンコにとっては、この戦いは両親の仇を討つ為の魂を懸けた弔い合戦。理由は異なれど、双方にとってこの一戦は重大な意味を持つ。何人であろうと、邪魔をすることなど赦されない。
生き残った飛竜たちは上空に撤退し、遠巻きに両者の戦いを静観している。眼下でぶつかり合うふたりの騎士、渦巻く気迫と魔力の応酬に、さしもの飛竜たちも再度の襲撃の戦端を掴めずにいる。
斬り結ぶたびに、鍔糶合うたびに、ふたりの騎士の戦いぶりは滾り立つような熱気を帯びていく。
飛竜にさえ割り込めぬ激闘。一進一退の攻防。これこそまさしく超越者同士の戦い。
凄絶な死闘は、このまま永遠に続くかに思われた。思われたが……
「──聖騎士様ッ」
両者の間に、唐突に子供の叫び声が割り込んできた。アルトリウスとザラチェンコは同時に眉を顰める。続けざまに雑踏を思わせる跫音がドタドタと連なり、「聖騎士様ッ」「守護者様ッ」「アルトリウス様ッ」悲痛な叫び声と共に、老若男女とりどりの群衆が、両者の視界の裾から傾れ込んでくる。おそらくヘル・ペンタグラムの襲撃を生き延びた者たちなのだろう、血を流す者、火傷を負う者、腕の関節が逆方向に捻れた者──大小様々な負傷を負った人々が、恐怖に顔を歪め、声を限りに叫びながら、這々の体でアルトリウスに向かって駆け寄ってくる。先刻までこの者たちは、絶望の只中に取り残されていた。見慣れた街並みは破壊され、血塗れの騎士団の屍体があらゆる所に散乱し、聖都を象徴する連合の巨塔が、その中腹辺りから虚無の如き巨大な亀裂に沈み込むように呑み込まれている。聖都が、教会の膝許が、神の国が、無惨なまでに犯されている。蹂躙されている。敬虔な神の信徒である彼等は、絶望という名の谷底に墜落し、決して霽れることのない闇の中を手探りに這い回っていた。
そんな彼等の眼に、不意に一条の光が差し込んだ。
温かな光。清冽な魔力。崩れ去った建造物の向こう側で、散発的に瞬く、眼を射るような純白の閃光。魔力探知機能の精度が著しく低下した環境下であろうと、神の信徒たちはその光の魔力の持ち主が誰であるのか判った。判ったからこそ、信徒たちは走り出した。救いを求め。天使を求め。各所に散らばっていた信徒たちは道程の合間合間に幾度かの合流を重ね、そうして群衆となった彼等は、聖騎士と魔人の死闘の場であるル・シャイル広場へと傾れ込んだのだ。
──使えるな
走り来る群衆を横眼で見ながら、ザラチェンコが口端を吊り上げる。
平時であれば、群衆は敵と争う聖騎士の間に割って入るような愚を犯したりはしなかっただろう。だが、今の彼等は分別を失っている。混乱し、恐慌を来している。ヘル・ペンタグラムのみならず、飛竜の襲撃にも見舞われたのだ。度を超した恐怖は人間から理性の衣を易々と剥ぎ取り、愚劣な木偶の坊へと堕落させる。ようやく見出した聖騎士の姿に、群衆は我を忘れ、救いを求めてアルトリウスの許へと馳せ参じるが、一体誰にそれを咎められるというのか。
狙い澄ましたように、ザラチェンコが動く。邪魔が入るのは本意ではない。だが、拮抗した戦況を切り崩すのに、あの群衆は使える。ザラチェンコは辷るように奔り、群衆の背後に廻り込む。
ザラチェンコとアルトリウスの間が、群衆によって隔てられた。
この群衆は、枷だ。アルトリウスは聖都の守護者。国を、教会を、聖都の住人を護るのが、”聖”の字を冠する者の務め。周囲に群衆がいる状況では、アルトリウスは思うままに動けない。ましてザラチェンコとの間合いを群衆が隔てているとあっては、こちらに攻撃を仕掛けることは困難を極めるはず。ザラチェンコにとって鉄壁の盾である群衆は、アルトリウスにとっては厄介な枷となって聖騎士の身動きを封じる。
この機会を利用し、強烈な一撃を叩き込む。
ザラチェンコは巨刃に厖大な魔力を集中し、
巨刃を振りかぶり、
そして、
──一閃。
何が起きたのかを理解する前に、ザラチェンコは巨刃を盾にしている。ざらついた岩膚の刃面に、精確無比な直線が一本、横切るように腐刻されている。
ぐちゃりと、熟れた果物が潰れたような音がザラチェンコの耳朶に届く。水甕の中身をぶちまけたかのような、大量の液体が零れ落ちる音が、地面に反響する。背筋がそそけ立つような絶叫が、巨刃の向こう側に立ち上がる。
血が、匂う。
『アルトリウスはアタシ等と変わらないよ』不意にザラチェンコの脳裡に、ジュリアーヌの言葉が甦る。聖都落としが始まる直前、〈魔の廻廊〉の縁から聖都を瞰下ろしていたザラチェンコに向かって、『聖都が戦場になった場合、聖騎士と堕天使、ふたりの守護者には絶対的な免責特権が付与される。アイツ等はね、神の敵を祓すという大義名分の為なら、何をしようが赦されるの』然も可笑しそうに魔女は嗤い、『大天使なんてもんはさ、結局のところアタシ等超越魔物変わらない。違いがあるとすれば、”神”の側に立ってるか”魔”の側に属してるか、その一点だけ。だから覚えといた方がいいわよ』ジュリアーヌはザラチェンコを見つめ、警告する。『アルトリウスはアタシ等の同類よ。油断しないことね』
ゆっくりと、ザラチェンコは巨刃を下ろす。
ザラチェンコとアルトリウスの間が、累々たる屍体の河川によって劃然と隔てられている。横たわる屍体はすべて、上半身と下半身が、腰部の辺りから精確に二分されている。神の血を受け継ぐ人間は、聖属性に対する並々ならぬ耐性を持つ。しかし聖騎士の〈眩耀刃〉の魔力出力を前にしては、人間の肉体はあまりにも脆い。放たれた一閃は鋭利な剃刀が薄紙の上を辷るように、周囲の群衆を、その尊ばれるべき人々の骨肉を、精確無比にひと薙ぎにした。
群衆ごと、アルトリウスはザラチェンコを狙った。
それは本来であればザラチェンコが振るうはずだった兇刃。
「まったく、酷い男だな」累々たる屍体を前に、ザラチェンコはわざとらしく嘆息してみせる。「君を頼ってきた哀れな子羊たちを、護るどころか、まさか自分の手で屠るとは……いやはや畏れ入ったよ。さすがはセイリーネスの聖騎士様だ。君にとっては聖都の住人など蟲螻以下の存在らしいな」
「勘違いするな。この者たちは殉教者だ」
「……殉教者?」
「これは、聖戦だ」アルトリウスは凛然と大剣を構える。惨状のただ中には、いまだ息のある者たちがいる。彼等は劇痛に呻き、血の海で藻掻き、臓物に塗れながら狂ったようにのたうつ。手ずから生み出した地獄の如き惨状を前に、しかしアルトリウスは眉ひとつ動かすことなく、
「これは、神の御稜威を護る為の崇高なる聖戦だ」
再び放たれた一閃が、生存者たちの生命を、今度こそ完膚無きまでに断ち切る。噴きあがる血霧。乱れとぶ屍体。ゆっくりと転がる生頸のひとつがアルトリウスの鉄靴のそばで止まる。「敬虔なる神の信徒が、聖戦の最中に落命する。それも我が聖刃に掛かり、その生命を全うする」アルトリウスは足許の生頸を一瞥し、「殉教だ」厳粛な面持ちで魔人を見据え、「これが殉教でなく何だと云うのだ。この者たちを侮辱すること、この私が赦さん」
魔人に向けられた銀眸、その眸には、一切の曇りがない。
殉教者。
アルトリウスの言葉に嘘偽りはない。迷い、惑い、疑い──そのような疑義を差し挟む余地のないほど真摯に、正真正銘、アルトリウスは限りない本心から、自分が手に掛けた群衆のことを、そう讃えている。
「……なるほどな」ザラチェンコは小刻みに肩を揺すり、口許に嗤笑を泛べる。「どういうことなのかいまいちピンと来ていなかったが、君の言葉の意味がようやく判ったよ、ジュリアーヌ。確かにこの男は、俺たちの同類だ」
「……何だと?」
「噫すまない、少し声が小さかったかな。君は俺たち超越魔物の同類だと云ったんだよ、聖騎士アルトリウス殿」
「貴様等の、同類?」束の間、聖騎士は絶句し、「この私が……貴様等のような穢らしい魔物の、同類……だと?」白磁の蟀谷に青筋を立て、深々とした皺を眉根に刻み、アルトリウスは透徹した殺意を声色に籠める。「……雑種が、どこまでこの私を侮辱すれば気が済む」
「何だ、図星を突かれて決まりが悪いのか?」
「貴様の余命は、もはや幾許もないと思え」
「そう怒らないでくれ。俺は事実を語っているだけだ。君は俺たちのお仲間だよアルトリウス」
「……雑種が。貴様は血の一滴さえ残さん」
両者を中心に、静寂がル・シャイル広場全域に波紋のように拡がる。
蒼鎧と銀鎧。巨刃と聖刃。魔人と聖騎士。ザラチェンコとアルトリウスを隔てる空間が、異様な緊張感に、渦巻く殺意の奔流に、引き裂かれそうな程に張り詰める。
周囲を飛び交う飛竜の群れは広場から距離を取り、ふたりの騎士を遠巻きに見守る。
戦いが始まってから、魔人と聖騎士は殆ど言葉を交わさなかった。二言三言の言葉の応酬はあれど、彼等の語らいはあくまでも剣技と魔法。
そんなふたりがここに来て、言葉を交わした。それも死闘を一時中断し、差し向かいに、剣を構えることなく、敢えて閑談に興じた。なぜか。
──双方の思惑が一致したのだ。
拮抗する実力により、戦いは膠着していた。この状況を打破するには、小手先の策を弄していては埒が明かない。形勢を逆転させる為には、戦況を大きく傾ける為には、決め手となる強烈な一撃を、楔として相手方に深々と打ち込む必要があった。
その一撃を練りあげる為に、双方には時間が必要だった。だからザラチェンコは口を開いた。聖騎士を侮辱し、瞋りを引き出し、時間を稼いだ。だからアルトリウスは言葉を返した。屈辱に歯嚼みし、瞋恚に眸を燃やし、刻を確保した。言葉を交わしながら、魔人と聖騎士は、その実鏡像のように全く同じ事柄に取り組んでいた。──厖大な魔力を練りあげ、その出力を最大まで高め、魔の法則へと昇華する。そしてその準備が整ったのもまた、同時だった。
形勢を逆転し、戦況を傾ける、絶対的な一撃。
そう、それは、つまり──
ザラチェンコはにやりと嗤い、
アルトリウスは眦を決し、
ふたりは示し合わせたかのように声を揃える。
「「極大魔法」」
*****
「それにしても頑丈な結界ね」倒れ臥したミノタウロスをよそに、ジュリアーヌは後ろ手を組み、踊るような歩様で闘技場の中を歩き始める。「アタシがこれだけ暴れてもビクともしないなんて、本当びっくり」ジュリアーヌは立ち止まり、頭上に垂れ込めた闇を振り仰ぐ。釣鐘のように空間を覆い尽くす果てしのない闇色の結界。おそらくこの結界は、四種類の空間魔法の掛け合わせによって成立している。影を媒介に異空を創り出す〈闇潜み〉。複数の防御機構を兼ね備えた〈多層結界〉。特定の領域を現世より切り離す〈空間遮断〉。そして魔の住人が好んで使用する転移術〈魔の廻廊〉。ひとつひとつが超高等術式に分類される四種類の空間魔法であり、その魔法を絶妙に掛け合わせ、繊細にブレンドし、この結界は本来では考えられない程強力な封鎖結界として機能している。「なかなか技巧派ね」ジュリアーヌは唇を吊り上げ、「この結界、誰が張ってるわけ?」
そう云って振り返った彼女の鼻先に、巨大な刃が迫る。
鎧越しに張り詰める筋肉。嚙み砕かんばかりに噛み締められた奥歯。滾り立つ殺意を胸に、燃え盛る憎悪を刃に乗せ、アステルは渾身の力で、戦神の遺産、断竜斧を振り下ろし──
黒い爆発が巻き起こる。
大気を灼く熱風。鎧を打ち据える衝撃波。アステルは後方へと吹き飛ばされ、投げ出された巨体が地面を叩き、そのまま地の上を勢いよく転がり──ガシッ、とアステルは地面に五指を突き立て、どうにかその身を引き留める。破城槌を叩き込まれたような衝撃に背筋に劇痛が走り、熱せられた鎧がじわじわと皮膚を灼き炙る。全身の骨組みが軋み、至る所で内出血が滲み、巨竜纏いの代償としての烈しい頭痛が、アステルの蟀谷を万力のように締め上げる。
それでもアステルは立ち上がる。震える指で断竜斧を握り締め、崩れ落ちそうな膝に活を入れ、満身創痍の躯を、殺意と執念によって強引に引き上げる。
殺すために、復讐のために、アステルは立ち上がる。立ち上がり、魔女に向かって一歩を踏み出し──
再び爆発。一度ではない。二度、三度、四度──爆発が連鎖する。
地鳴りに似た轟音に空気は震え、結界そのものが大きく揺すぶられる。
ジュリアーヌの周辺に黒い塵が漂い、その塵から漆黒の猟犬の群れが形を為す。
〈地獄の狩り犬〉は実体を持たぬ霊体生物。性質としては貓鬼に近いか。群れを成し、宙を駆け、魂を喰らう恐ろしい猟犬。火蛇の例に漏れず、ジュリアーヌはこの猟犬の群れに〈凶炸〉を仕込んでいる。嗾けられた猟犬は俊敏な動きで獲物へ喰らい掛かり、そのまま自爆する。実体を持たないがゆえに猟犬は爆発と同時に四散し、塵として漂い、すぐさま形を取り戻す。魔物と魔法を掛け合わせた無限に再利用可能な霊体爆弾。魔女の残忍性をいかんなく発揮したこの戦術が、アステルを黒い焰の渦に突き落とした。
「アンタも頑丈ね」退屈そうに欠を噛み殺し、ジュリアーヌは地に蹲る亜人を見やる。
本来であれば骨すら灼き尽くす魔女の黒焰魔法を直撃して、しかし、引き始めた熱のただ中には、今だアステルの姿がある。片膝をつき、巨斧で身を支え、それでもアステルはまだ生きている。そう、彼はまだ生きている。
もう幾度、このやり取りを交わしたか知れない。魔女に挑み、あしらわれ、黒い焰を浴びせられる。猛火の奔流に灼かれ、灼熱の火蛇に頭から呑まれ、黒い猟犬の連鎖爆破に吹き飛ばされる。幾度も、幾度も、アステルは魔女の焰に甚振られ、嬲られた。一度としてアステルの刃は魔女に届かなかった。あと一歩、あと一息というところまでアステルの刃は迫る。あと一歩。あと一息。本当に、あと少し……だが、アステルの握り締めた断竜斧は、そのあと少しの壁を越えられない。敵は超越魔物。シュラメール魔術王国建国以来最高の魔導師にして逆五芒星にその名を連ねる者。〈黒焰の魔女〉ジュリアーヌ・ゾゾルル。両者の間に横たわる彼我の差は、天地の如く懸絶している。
それでも、アステルは立ち上がる。
血反吐を吐きながら。骨を軋みませながら。
殺すために。復讐のために。娘の、ミドナの亡骸に誓った約束を、今こそ果たすために──
「いい加減理解しろって、アタシ云ってるわよね?」
唐突に、アステルの躯が引き攣る。何が起きたのか理解する間もなく、アステルの手頸と足頸、そして頸筋が、灼き鏝を押し当てられたような強烈な熱感に締め上げられる。背後の空間が一瞬で煮え滾り、アステルの背筋が、熱傷の痛みに醜く爛れる。
「あのさ、なんでアタシがアンタに付き合ってあげてたのか、判る?」
アステルは藻掻く。だが、びくともしない。すでにアステルは魔女の掌中に囚われている。
上位焰魔法〈焦熱の磔刑台〉。
名が示す通り、それは見るも悍ましい魔女の拷問具。黒い焰によって象られた磔刑台は対象の背後より現出し、灼熱の手鎖、足枷、首輪を以て対象を拘束、背後で燃え上がる黒い焰が捉えた者の躯を、その名前とは裏腹に低温の焰によって、じりじりと炙り、やがては灼き焦がす。シュラメール魔術王国宮廷魔術師時代に罪人を罰するためにジュリアーヌが考案した、まさに嗜虐のためだけの魔の法則。
ゆっくりと、ジュリアーヌはアステルの許へ歩み寄る。周囲に群れる狩り犬が追随し、傍らに浮かぶ異形の長杖がクルクルと廻る。
「ザラチェンコに頼まれたからよ」
長杖がジュリアーヌの背後に廻り、彼女は杖に腰掛ける。長杖はゆっくりと上昇し、ジュリアーヌは自身の二倍近くはあろうアステルの目線に自らの目線を合わせる。
「アンタさ、何か勘違いしてない?」ジュリアーヌはおもむろにアステルの顔に手を伸ばし、「別にアタシはアンタなんかどうでもいい。ザラチェンコがどうしてもって頼むから戯んでやっただけで、その気になればいつでも殺せたわけ。判る?」魔女の手は、その細腕からは想像もつかない膂力を以て重厚な戦神の兜を、竜を模した異形の面頬を、軽々とアステルの頭部から取り払う。「へぇ、それがアンタの素顔なわけね」ジュリアーヌは無造作にアステルの半顔に触れ、「確かにアタシの署名が刻まれてるわね」
アステルの右半顔は、眼を背けたくなるほど凄惨な瘢痕の重層に被い尽くされている。ある場所は畝のように盛り上がり、ある場所は強く引き攣れ、ある場所は堅く肥厚し……幾重にも重ねられた地層のような疵痕を、ジュリアーヌは長い指先で丹念に、丹念に擦り味わう。「アンタのことなんか欠片も覚えてないけど、この疵痕は確かにアタシの手によるもの。──アタシはね、殺す時は盛大に殺すって決めてるの。二、三人殺すだけなんてしみったれた真似はしない。四、五人手に掛けるだけじゃつまらない。最低でも村単位で鏖にする。男も女も子供も、貴族も平民も魔術師も、人間も亜人も魔物だって、その時アタシの眼に入った奴等は、等し並みに獄焰で焼き払う。そしてひとりだけ生かす」ぐいとジュリアーヌは身を乗り出し、鼻先が突き合う程の至近距離でアステルの瞳を奥深くまで覗き込む。沸き上がる憎悪に、アステルの顔が醜く歪む。手を伸ばせば、届く。この距離なら、この両掌で魔女の喉笛を締め上げることが出来る。頸椎をへし折ることさえ可能だ。殺せる。今なら殺せる……だが、その想いに反して両腕は動かない。アステルは無様に身悶えることしか出来ない。「アンタは証人なのよ」とジュリアーヌは云う。「アタシがこの世界に齎した酸鼻を極める殺戮の、アンタは重要な生き証人なの。観客のいない演劇に価値なんて無いし、読み手のいない書物は単なる紙屑でしかない。事象を確定させるためには観測者としての証人が必要不可欠なの。アンタがアタシの殺戮を記憶し続けている限り、アタシの殺戮はこの世界に残り続ける。アンタが絶望の底でのたうち続ける限り、アタシがこの世界に刻みつけた疵痕はジクジクと膿み爛れ続ける。アンタがその身の内にドス黒い憎悪を滾らせ続ける限り、アタシの焚きつけた殺戮と云う名の火種は絶対にこの世界から消えてなくならない。──愕いた? アンタは重要な大役を任されたのよ」
「……理由は、何だ」
「話聞いてなかったわけ? 今云ったじゃない」
「……違う……なぜ、貴様は、殺した」アステルは焼けつく咽喉を烈しく震わせ、声を絞り出す。「なぜ、貴様は……私の故郷を灼き払ったッ なぜ私の娘を……ミドナを殺したッ なぜだッ!」
闇の中に響き渡ったアステルの叫びに、
「さあ?」ジュリアーヌは顎に人差し指を当て、少女のように小頸を傾げる。「その時の気分とか、たまたま眼についたからとか、あとは新しく開発した魔法の威力を試したかったからとか、考えられる理由は幾らでもあるけど──でもさ、アンタのことすら覚えてないのに、理由なんて尚更覚えてるわけないでしょ」そう云って、彼女は優しげな手つきでアステルの頬を撫で上げ、「まあでも、強いて理由を挙げるとすれば、好きだから」眼を細め、深々と靨を両頬に刻み、心底可笑しそうに、ジュリアーヌはからからと嗤う。「アタシはね、生きながらに灼かれた奴等が焰の中で踊り狂う様を眺めるのが、たまらなく大好きなの」
アステルの意識が、一瞬虚空に突き落とされる。
理解できなかった。意味が判らなかった。
その時の気分。たまたま眼についたから。
アステルの意識に、魔女の告げた無慈悲な言葉が、ようやく染み渡ってくる。
好きだから。ただ、その光景が見たいが為に灼いた。
その為に、殺した。
『……熱いよ……』
あの子の震える声が、今も耳にこびり付いている。
あの子の灼け焦げた屍体が、今も瞼の裡に焼き付いている。
あの子の伸ばした手の感触が、あの子が最後に見せた表情が、
いまだに忘れられない。
『……パパ……熱いよ……』
「……そんな、ことの為に」アステルの声が、掠れる。握られた拳に、手甲が軋る。胸奥より衝き上げる衝動に、アステルの顔面が、血潮が、感情が燃え上がる。全力で噛み締めた奥歯が、薄氷を踏みつけたような音を発てて砕け散る。全身が倍ほどに膨れ上がった、そう錯覚を起こさせるほど、アステルの体躯が止めどない怒りに滾り立つ。餓え渇いた肉食獣が獲物に喰らい掛かるように、アステルは全身を撥条にして、ジュリアーヌへと挑み掛かる。手枷と足枷に四肢を縛られ、喉笛を頸輪に締め付けられ、それでもアステルは、皮膚が破れるのも構わず、骨肉が焦げるのも気にせず、灼熱の拘束を振り解こうと、全身全霊を以て暴れる。
そして、叫ぶ。
「獄焰の魔女ッ! 貴様はッ、貴様はッ、そんなことの為にッ! 私の故郷をッ、あの子をッ、ミドナをッ──」
慟哭の如きアステルの叫びは、しかし、
「煩いんだよ、亜人」
左胸を貫いた強い衝撃に、言葉が詰まる。
衝撃はアステルの全身を走り抜け、次の瞬間、灼け付くような劇痛に変わる。
気づいた時には、アステルの口から血が噴き出している。喉許を迫り上がる塩辛い液体。口腔を満たす鉄錆の匂い。本人の意志とは関係なく、汲み上げ式の井戸のように、大量の鮮血がアステルの口腔から止めどなく、止めどなく、湧出し続ける。
「云ったでしょ? ザラチェンコに免じて戯んでやってただけだって」
アステルは血を吐き出しながら、頭を垂れる。
蒼白い魔女の細腕が、屈強なアステルの左胸に、深々と減り込んでいる。
ボタボタと、アステルの足許に何かが溢れ落ちる。鮮血、ではない。より赫るく、より熱を帯びた、それは燃え盛る熔岩──巨竜纏いの残滓だ。アステルの身に帯びる異形の鎧、その胸当ての部分が熔け、滴り、アステルの足許に、小さな熔岩溜りを形成している。
「これも云ったわよね。アンタなんか、殺そうと思えばいつでも殺せたわけ」
アステルの躯が、ひとつ大きく波打つ。
左胸に突き立った魔女の掌が、この世界の生物にとって最も重要な器官、魂の鎮座する場所──心臓を鷲摑む。
アステルの鎧は山竜と呼ばれたベヒモスの、岩盤の如き巨大な竜鱗より削り出された代物だ。ゆえにこの鎧は堅牢堅固であり、物理的な衝撃に対して圧倒的な防禦性能を誇る。さらに死してなお膨大な魔力を蓄える山竜の鱗は、使用者の身体能力を高める強化術式として機能し、漏出する濃密な魔力は出力こそ低いものの魔力装甲を形成、対魔法攻撃に対しても充分な防禦性能を発揮する。これらの性質によって、アステルは現在この瞬間まで、満身創痍になりながらも魔女の猛攻を生き残ることが出来ていた。
だが、それはあくまでも上位魔法に限った話。
極大魔法〈地獄の掌〉。
街ひとつを焦土に変える甚大な熱量を、掌ただ一点に収斂し、漆黒の太陽と化した掌を以て触れるものすべてを灰燼へと帰す、近接撃滅型の極大魔法。絶大な火力を誇るこの掌を前にしては、巨竜纏いなど火をあてられた牛酪も同然。「復讐なんて大それた望みを抱かないで、森の中でガタガタ震えながら過ごしてればいいものを、馬鹿な亜人」頬に飛び散ったアステルの吐血をジュリアーヌは無造作に拭い去り、「せっかく生かしてやったのに、身の程を辨えないからこういうことになるわけ。本当、馬鹿馬鹿しいったらありゃしない」そうして嘲るように嗤い、魔女の右掌が、アステルの心臓を、その魂を、灼き、溶かし──握り潰す。
一際盛大に、アステルは鮮血を吐き出す。夥しい吐血は足許に盛り上がる熔岩溜りに落ちかかり、生命の灼け爛れる悍ましい臭気を伴った蒸気を上げる。
火勢が失われたように、黒い磔刑台が陽炎のようにゆっくりと消える。
ジュリアーヌはアステルの左胸から細腕を引き抜く。
アステルの巨体が、崩れるように両膝を付く。鎧同士のぶつかり合う音が、結界内に高々と反響する。
虚空を見つめるアステルの眸。その眸から、光が滲むように消える。
そして、仰向けに斃れる。
ジュリアーヌはその光景を見ていない。すでに亜人への興味を失っている。黒い猟犬を引き連れ、傍らに異形の長杖を戯せ、ジュリアーヌは闇の中で踵を返す。
「さよなら、哀れなミノタウロス」ひらひらと手を振りながら、ジュリアーヌは歩き出す。「安心して。アンタのことなんて、きっと明日には綺麗サッパリ忘れてる」




