カスカニカスカナリ 5
── 慈覚大師・円仁帰朝の時、船中に於いて虚空に声有り。
告げて言う。
『我が名は摩多羅神。即ち障礙神なり。
我を崇敬せざる者は浄土往生叶わざる者なり』
仍って大師、常行堂にこの神、勧請せり。
《渓嵐拾葉集・荼枳尼天秘訣》抄訳
「し、障礙神? と言うことは……魔の本身……一切の障りとなる神?」
成澄の顔は今や蒼白だった。
「つ、つまりよ、その、おまえたちの言う〈摩多羅神〉とは……往生を妨げる神なのだな?」
蛮絵装束に包んだ逞しい肩を震わせて検非遺使は今一度、黒い厨子を眺めた。
「そんな恐ろしい神を……魔と等しい神を……一緒に祀って大丈夫なのか?」
「驚くのはまだ早いわ」
兄の田楽師は落ち着き払って言った。
「この摩多羅神はな、もう一つ別の名を持っている。その名こそ〈荼枳尼天〉なり」
「?」
「〈荼枳尼天〉は臨終の人間の内臓を喰らうことでその者の往生を遂げさせる天と伝えられる。
逆に言えば、死に際して内蔵を喰わせなければ往生は叶えない、凄まじい天なのじゃ」
ここで弟が割り込んだ。
「それ故、またまた別名〈奪精鬼〉とも言うらしいぞ? 死に臨んだ人の精を奪うからだとさ!」
「いずれの名で呼ぼうと」
兄が引き取って締め括った。
「この〈摩多羅神〉がどれほど恐ろしい神かわかったろう?」
「そ、それは十分に了解した」
唾を飲み込みながら成澄、改めて質す。
「だが、何故、おまえたちはこれほど詳しいのだ?」
双子はお互いを見詰め合うと声を重ねて答えた。
瓜二つの微笑も重ねて、
「「この神こそは、我等の神だからよ」」
狂乱丸は言うのだ。
「ここ常行堂では、先刻、源空も言っていたように常行三昧や不断念仏──数々の修行が行われる。それら修行中には様々な〈魔〉が文字通り〝邪魔〟をする。修行者を悩乱させたり誘惑するのさ。
この〈魔〉を総じて叡山では〈天狗〉と呼び習わしている」
婆沙丸がまた割り込んだ。
「密閉された堂内じゃ。過酷な修行が僧たちに幻を見せるのかも知れぬ。その幻をある者は〈仏〉や〈神〉と言い、ある者は〈魔〉と呼ぶのかも……」
「それはともかく、仏道修業の妨害者=天狗を調伏する神が、この〈摩多羅神〉なのじゃ」
「え?」
検非遺使にはわけのわからないことばかりである。
狂乱丸は素晴らしい笑顔を燦めかせた。
「まあ、考えてもみろ、成澄。自らを障礙神と認めた摩多羅神だぞ。毒を持って毒を制す。恐ろしければ恐ろしいほどその力は絶大だ。障礙を為す天魔=天狗を祓うために、それ以上の障礙の神の力を借りようというのは道理じゃ」
「なるほど」
「そして、その神を招聘するのが我等〈芸人〉なのさ! 一切の魔障を退散させるべく、摩多羅神を呼ぶ〝裏の行法〟──舞いと歌、所作と咒文を我等は先代師匠より叩き込まれた」
婆沙丸の笑顔も兄同様、素晴らしい。頷きながら言う。
「師・犬王に我等が仕込まれたのは田楽のみにあらず。例えば──夏の終わりの大念仏会では、この阿弥陀像の前で僧たちは法式通り念仏を誦すが、こっち、後戸では我等〈芸人〉が跳ね踊り、わざと順序を違えてデタラメに経を読む。これも〝裏の行法〟の一つじゃ。
これは別名〈天狗威し〉とも呼ばれている。その際の呪文は『ゲニヤサバナム……』」
「あ!」
ここで成澄は小さく叫んだ。
「そうか! と言うことは──紙片に記されていたあの咒文『シシリシニシシリシト ソソロソニソソロソト』も? おまえたちなら裏の意味を知っている?」
「では、愈々ここからが本番。おまえに〈玄旨灌頂〉での歌舞いの話を明かそう」
狂乱丸、両袖を払って居住まいを正すと語り始めた。
「〈玄旨灌頂〉の執り行われる道場は方丈である。
八方に幡を掛け、中央には法華教と釈迦と阿弥陀の像を。
東に十界の名号、南に山王の名号、北には仏菩薩の名号。
だが、最も重要なのは、西だ。
西には本尊・摩多羅神と二童子を祀った祭壇を設ける。
西こそ、摩多羅神の本地仏・阿弥陀の浄土だから。
摩多羅神の左右には柳と水、そして、御前には供物を供える。
さて、灌頂を授ける師は授者を率いて無言のまま三回、壇の周りを廻る。
それから、摩多羅神の宝前へ真向かう。
授者が手にした〈茗荷〉と〈竹葉〉を摩多羅神の左右へ安置する時、
歌舞いの儀式は始まる──
この歌舞い、正式には〈三尊舞楽ノ歌〉と言う。
仏道の理想の境地〝一心三観〟から、その字義の〝三〟となるように数を合わせて、
摩多羅神一に童子二を加えたのじゃ。
摩多羅神は太鼓を叩き、丁令多童子が小鼓を打ち、爾子多童子が舞う。
その時の歌こそ……
右ナル童子『 シシリシニシシリシト 』
左ナル童子『 ソソロソニソソロソト 』
兄の傍らに控えていた婆沙丸が堪えきれないと言う風に声を発した。
「ここまで聞けば十分だろう、成澄? 左の童子は俺で、右は兄者じゃ。俺たちこそ、今回騒動になっている〈玄旨灌頂〉、その歌舞いを伝承された者……!」
「そうだったのか!」
成澄の声は喘ぎに近かった。
「先代師匠に」
常行堂の床に視線を落としたまま狂乱丸は言った。
「舞楽は地獄と極楽……表裏一体と教えられた。心澄んで天に昇る善趣の舞いも、心濁れば煉獄の悪趣のそれへと一瞬で転化する。鬼畜の振る舞いも、仏菓の荘厳も、全て舞楽の内に存在と。
そのどちらが良いと言うのではない。そのどちらも一つ。同じなのじゃ」
── 地獄極楽、そのどちらの域へも行き来して十界を舞い狂え……!
狂乱丸の厳かだった声がふいに柔らかくなった。
肩に降る雪のようにふうわりと優しくなった。
あの日、降っていた雪……
「なあ、成澄? おまえと我等、初めて会ったのは正月儀式の修二会だったな?
あの舞いと歌もこの〈玄旨灌頂〉の歌舞いに根差している。
もっと言えば、我等、狂乱・婆沙の名もここから来ている」
―― 狂乱の振る舞いこそ絶対なり、婆沙の境地こそ永遠なり。
「何故なら、それこそ、芸能の神=摩多羅神を招聘する技なれば。
この世の全ての魔障を祓うため、摩多羅神を誘い、御出でを請う。
そのために我らは舞い歌わなければならない。
いや、そのためにこそ、我らの身体はあるのじゃ……」
三人が常行堂を出た時、四方はとっぷりと暮れていた。




