《雫ノ記》14
言葉通り、この日の使庁での仕事を終えると、成澄は従者のさざら丸だけを連れて大納言邸へ赴いた。
承諾した以上、即刻今日から警護を開始しようと思ったのだ。
とはいえ、まだ未の刻を過ぎたばかり。 ※未の刻=三時
夏に向かう京師は光あふれて、いかに姫の熱心な崇拝者であろうと件の男が今すぐやってくるとは思われない。
予め、明るい内に邸内の様子を見知っておこうと成澄は考えたのだ。
西洞院大路にあるここ、四条隆房の屋敷は一町家を優に超えた、京師でも屈指の大邸宅である。
敷地の北に主殿、東西に対屋。南には広大な庭があって、池を廻って泉殿から釣殿まで美しく整えられている。何しろ、厩舎や車宿さえ檜皮葺きと言う贅の尽くしようだ。 ※車宿=牛車を入れておく建物
その一々をつぶさに見て廻り、配置を頭に刻んだ。
こうして邸内を見廻る内、成澄の胸に天童失踪を聞いた時と同様、微かな後悔の念が湧き上がった。
(これは……最初考えた以上に厄介な仕事になりそうだぞ?)
当の姫君は東の対屋に住まうと聞くが、何しろ、この広さだ。
大納言の嘆く通り、数多の舎人や家人、随身を以てしても捕らえられなかったのも頷ける。広壮な庭はむしろ侵入者に利する。闇に紛れてしまえば逃げるのは造作もないこと。
本気で夜這い男を捕まえたいと欲するなら、少なくとも火長隊の二、三隊は必要だろう。
だが、実際に災厄が起きたわけではない。娘に通って来る男の正体を知りたいだけの貴人の私事に部下たち──公の衛士──を使うことを成澄は良しとしなかった。
それでは自分が日頃嫌っている、権門に追従する私欲の検非遺使と同じではないか。
(ここは、やはり、俺一人で奮闘してみせるぞ!)
相手は、姫の思い人。賊というわけではないから自慢の弓矢が使えないのが成澄は少なからず口惜しかった。
「痩せ我慢は体に毒ですよ!」
聞き覚えのある声。
振り向くと、柘榴の木の下に清顕が立ってニヤニヤしている。
「おまえ! 今日はもう仕事は終わったはず。言ったろう? この件は俺が勝手に請け負ったことでおまえに命じるつもりはないから──とっとと帰れ。今日は母君のご機嫌でもとって喜ばしてやるといい」
「水臭いことを! それなら、私だって──勝手にお手伝いするまでです」
何故なら、自分は、頼って来る人を拒絶できない、お人好しで痩せ我慢な先輩の、まさにそういう点をお慕いしているのですから、と清顕は笑った。
「それに、困ったことに……その思いは私だけではないらしい」
「?」
いつの間に?
大納言の築地の上にズラリと整列した衛士の姿。
皆、成澄配下の火長や看督長たちだった。 ※看督長=検非遺使下級官
一同、声を揃えて叫ぶ。
「大納言様が我等、専門の技をご所望なら存分にみせつけてやりましょう、成澄様!」
「おまえたち……」
剛毅で聞こえる検非遺使尉の喉元に熱く込み上げるものがあった。
(俺は幸福者よ!)
なるほど、俺にはまだ妻も、子もいないが。思えば使庁の部下、衛士たちは全員、俺の大切で愛おしい〝子〟である。
「あれ? ひどいな! 馳せ参じたのは使庁の衛士だけじゃありませんよ!」
清顕の蛮絵の陰から飛び出して来たのは、紗の水干に淡紅色の袴の御室の稚児だ。
「迦陵丸? おまえまで?」
「私もお側にいさせてもらいます」
稚児は笑窪を刻んで微笑んだ。
「だって、約束ですから。福寿丸が見つかるまでは行動を共にすると誓ったでしょう?」
かくして──
竹取の翁の屋敷もかくや、と思わせるほど、その日の大納言邸の警護は厳重を極めた。
全ての門という門から、築地塀のぐるりに至るまで、成澄を慕って集まった部下たちが列を成した。
「おお! これでは訪ねて来た御仁もひとたまりもあるまいよ!」
四条隆房は却って同情したほどである。
「さてさて……今夜は専門の方々にお任せして、私は久々にぐっすり眠るとしよう」
成澄は万全の陣を敷いた。
最も信頼する三善清顕を東門に配置した。
以下、西門、東西の中門、全ての入口に豪腕を持って鳴る火長を配す。
稚児の迦陵丸はその身の安全を慮って、総指揮を取る自分の傍に留め置いた。
本音を言えば稚児は足手纏いになりかねないのだが、成澄は駆けつけてくれた少年の心意気を汲んだのだ。
こうして、夏の夕暮れはゆっくりと過ぎて行った。
この間も成澄は自らの詰所と決めた主殿の階から定期的に邸内を巡察した。
そして、その都度、各出入口に寄って異常はないか確認した。
何度目かの巡察の際、築地塀の上を低く掠めて白い鳥が飛ぶのを目撃した。
「鷺か? 朱鷺か? 珍しいな!」
付き従っていた迦陵丸が背後から笑って言う。
「いやだなあ! あれはカラスですよ」
「え?」
一番近かった西門から出てみると、果たして。
そこに橋下の陰陽師が立っているではないか。
黄昏の中で見る陰陽師は鬼気迫るほど妖艶だった。刹那、ブルッと成澄は胴震いした。
それを隠してぞんざいな口調で問う。
「有雪? 仕事帰りかよ? それにしても、どうして、俺たちがここにいるのを知った?」
「フン、言ったろう? 俺には全てが見えると」
例によって陰陽師は意味深に笑った。周囲を見回しながら、
「さても、豪奢なお屋敷だな?」
「うむ。俺たちは見ての通り、ここ四条大納言隆房邸で警護の任についている。お、ちょうど良かった! これでさざら丸を使いに返す手間が省けた。俺たちは今夜は田楽屋敷には戻らないからな、そのつもりでいてくれ」
「諾」
去りかけて、陰陽師はふと足を止めた。
「それはそうと、気をつけろよ、判官殿? 昨夜、おまえが緑陰の中、舞い狂っている夢を見た。前にも忠告した通り、天狗は〈田楽狂い〉が大嫌いだからな。せいぜい悪さをされないよう注意しろ」
珍しく真剣な口ぶりだった。
「それは夢告というものですか?」
迦陵丸が興味をそそられた様子で訊く。
それには答えず、有雪は成澄の黒衣の胸元を人差し指でトントン叩いた。
「おい?」
「だが、おまえのその田楽狂いが命を助けることもあろうよ? これぞまさに『芸は身を助く』だ。見事に舞い踊れよ? ハハハハ……」
白い烏が肩に急降下して来るのを待って、有雪はスタスタと去って行った。
「何だ、あれは? 相も変わらず面妖な奴……」
田楽と聞いて成澄は急に思い出した。そういえばここ久しく田楽を舞っていないな?
今宮祭の日は仕事柄、無理だったし、狂乱丸たちは不在だし。
それにしても、一体、田楽師兄弟はいつ都へ戻って来るのだろう? この季節、地方でも祭事やら僻邪やらで忙しいのはわかるが……
早く帰って来ればいいのに、と成澄は心から思った。
(また、存分に舞おうではないか、なあ? 狂乱丸よ?)
大納言の庭へ戻ると、先刻の有雪の烏を目にしたらしく、遠く東門から清顕もこちらに向かって手を振っているのが見えた。
成澄も笑って手を振り返した。




