《雫ノ記》12 ★
五月九日は今宮社の祭日だった。
元々は〈紫野御霊会〉と呼ばれたこの祭りは神輿が三基も出ることで知られる。
加えて、馬長行列の華やかさ。例年、内裏、院、新院、女院の四所殿上人と院北面よりそれぞれ騎馬行列が寄進されるのだが、それに乗る着飾った美しい童たちを見ようと洛中は人で溢れかえる。
だが、近年、何と言っても一番人気は、編木子、簓、鼓に鉦、太鼓、これら妖しき楽器を打ち鳴らして舞い狂う田楽にある。〈永長の大田楽〉で火がついて以来、貴賎を超えて都人の田楽熱は鎮まる気配がなかった。
実は、成澄は、田楽屋敷の主たち──狂乱丸と婆沙丸──がこの祭りまでには京師に帰って来るものと思っていたのだが。
期待は見事に裏切られた。
都大路を練り歩く綾羅錦繍に籣笠の、煌びやかな田楽行列の中に懇意の兄弟の姿がないためか、成澄にとって今年の今宮祭はどこか物足らなく、寂しいものに映った。
が、そうは言っても、のんびりと祭り見物に現を抜かしていたわけではない。
いざや、検非遺使の本領発揮──
群衆に揉まれて落馬した細男を助け出したり、野火のごとく彼方此方で燃え上がる雑色や京童たちの喧嘩を鎮圧したり、神輿遷座の旅所が取り壊されるのを見届けるまで一日中気の休まることのなかった成澄だった。 ※京童=不良少年たち
「私は祇園御霊会の方が好きだな。クソッ、今宮はちょっと……乱雑過ぎる……!」
愚痴るのはほとほと疲れきった顔の清顕である。可哀想に、剣舞の列を正そうとした際、熱くなっている舞人に自慢の蛮絵の袖を切り裂かれてしまったのだ。
自慢の装束と言えば、検非遺使の〈熊〉に勝るとも劣らない勇猛な〈獅子〉の獣文様を纏うのが近衛集団である。その中に、失踪した高階康景の兄、貴景の姿を見つけた。
弟によく似た精悍で端正な顔が、祭りに似合わず翳って見える。
成澄は敢えて言葉は交わさなかった。
「やあ、これは! 静かだと思ったら一人かよ?」
襖から首を突き出して橋下の陰陽師が笑った。その夜の一条堀川、田楽屋敷。
「珍しいな! いつも数珠玉よろしくジャラジャラくっついている子分どもはどうした?」
酒の匂いがする処、電光石火で出現するこの男。
「祭りの夜だ。清顕は心身ともにボロボロなので家に帰したさ。そうでなくてもあれは母一人だから、たまには戻さないとこっちが母君に恨まれる。迦陵丸は法皇に召されての舞楽だとか」
既に陰陽師は自分の盃を差し出している。
「まあ、いいか。一人で飲むよりは──」
注いでやる成澄。
「そうか? 俺は酒さえあれば一人の方が良いが。だが、まあ、我慢して付き合ってやろう。お寂しい判官殿に」
「おまえなぁ……」
成澄は勢い良く盃をあおる陰陽師を見て頭を振った。だが、怒るのはやめて、思い直して言う。
「考えてみると、結構長い付き合いなのに俺はおまえのことは何も知らんな? いい機会だ、今宵は男子二人、じっくりと──恋の話でもするかな」
「ほう? 田楽屋敷版〈月夜の品定め〉か。それも良いが」
とっくに自分で自由に酒を注ぎながら有雪は言う。
「俺の講釈を聞きたくば酒代はケチるなよ。おーい、さざら丸!もっとどんどん持って来い!」
「清顕がよ、俺に『恋とは何ぞ』と問うのだ」
「聞く相手を間違えたな」
「では、聞くが、おまえのような男でも恋をしたことがあるのか?」
「あるよ」
意外にもあっさりと頷く陰陽師。逆に成澄の方が仰天して酒を吹き出した。
「ブッ……」
「十三の歳だったな」
「あ、相手は?」
「やんごとなき貴人の姫君さ」
「や、やるじゃないか! で、どうなったのじゃ? ぜひ、その先を聞きたい」
「一度だけ」
盃をあおる有雪の顔がいつになく優しげに見えた。
「おぶってやった。それだけじゃ」
「おぶっ……待て! これは聞き捨てならぬ!」
いったん笑い飛ばそうとした成澄だが、すぐ真剣な顔に戻って、
「女人は死んだら三途の川を最初に契った男に背負われて渡る、と言うからな! 憎いぞ、有雪」
「いや」
有雪は微苦笑する。
「その姫を、川を渡らせるのは俺ではないよ。俺はおぶっただけじゃ、三途の川まで。亡骸を」
「?」
俺はもう酔ったのだろうか? 眼前の陰陽師の言っていることがちっとも理解できない。尤も、この男の言はいつもそうだが。成澄は盃の酒を飲み干すと気を取り直して訊いてみた。
「さっきの話だが、実はよ、俺はずっと疑問に思って来たことがある。良い機会じゃ。日頃、知らぬものはないと豪語するおまえに聞くぞ。女は三途の川を最初に契った男に背負われるとして……相手の男がまだ生きていたら……死んでない場合はどうなるよ?」
「なんだ、そんなことか。答えは簡単。夢の中で呼ばれるのさ。朝起きて肩や背中がやたら痛かったらそれだ」
「あ! なるほど」
成澄は膝を叩いた。
「それにしても──では、モテる男は大変だろうな? 生きている内は勿論、死んでからも幾度も川を渡る羽目になる」
「そうなるな。だが、幸いなことにおまえは心配する必要はあるまい」
「え?」
「おまえみたいに無骨で鈍い男は女にモテっこないから大丈夫だと言っているのさ。おまえなんぞに夢中になるのはモノを知らぬ田楽師くらいのものだ」
「い、言ったな! お、おまえこそ、その毒舌を何とかしないと、いくら見た目が麗しかろうと女には金輪際モテないぞ!」
「毒舌ではないわ! 俺はいつも真実を言っておるのじゃ! ありがたく思え!」
結局、罵り合いになる二人だった。
この三途の川までおぶって行ったと言う陰陽師の恋の話はまたいずれ、別の機会に。
★蒼山様に描いていただいた検非遺使と陰陽師〈成澄&有雪〉です。
美しい双子の田楽師に押されがちですが中々どうして
平安京の青年組も捨てたものではない?
(いえ、コレも蒼山様の筆ならでは! ありがとうございました!)
「中原様はおられますか? 使庁の方に伺ったのですが、こちらだと聞いて参った次第……」
一条堀川の田楽屋敷に舎人の悲痛な声が響き渡ったのは、翌、五月十日、昼近くのこと。
「中原様! 中原成澄様! 我が主が、ぜひお会いしたいとのこと! 至急の用にございます! 何卒……何卒……!」
祭日明け。しかも久々に巡ってきた休日。かてて加えて、昨晩はあのままわけのわからなくなるまで陰陽師と飲みあった成澄だった。
例によって座敷で熟睡していた。
「ウー……わかった、わかった。中納言殿には、そろそろ今日辺り報告に行こうと思ったいたところだ。これから出向くから、取り敢えず、そう伝えてくれ」
明け方、さざら丸に掛けてもらった夜具の中でモグモグ言う成澄。
縁で膝を突いたまま、その従者は困惑して告げた。
「いえ、お出ましを乞うているのは中納言様ではありません。大納言・四条隆房様の使いとおっしゃっておりますが?」
「何?」




