春の巻 弐拾
そもそものはじまりは兄だった。
「年頃の近い女官が欲しくはないか」
珍しいこともあるものだ、と華宮は目を丸くした。
兄が彼女の居室を訪れることも、こうして提案と言う名の相談事を持ちかけられることも。そもそもの話、人払いを面倒がって上総の留守を狙うあたりからして怪しい気が漠然としていた。それでも、何の冗談を云うの、と流さなかったのは単純に興味がわいたからだ。女官と言う名の腹心を持つことについては、これまで祖父に、母中宮に、橘中将に、何度となく話の水を向けられてきた。結構です、わたくし、もうあきらめておりますの――ときっぱり断るのがいつもの華宮だったが、驚きのあまり兄の言う「心当たり」がどのようなものか興味がわいた。
「身分から言えば今まで呼んだ娘たちよりは低くなるかもしれないが。わりあいはっきりと物を言う、気丈な娘のようだよ。気が合いそうだと思って」
気が合いそう、はっきりと物を言う。自分の好むフレーズに心が揺らぎそうだ。しかしこんな相談を持ちかける兄の真意はいったいどこにあるのだろう。
思い当たるのは、普段の兄の所業。何かしらの交渉事の餌として、「華宮に仕える女官」という役職を宛がうつもりなのだろうか。――だとしたら、随分と大きな対価を求めるつもりのようだ。
「わたくし、犯罪の片棒をかつぐのは趣味ではありませんのよ」
「おいおい、犯罪とか決めつけるなよ」
怪しげなにおいがする、と華宮は話題を打ち切ろうとしたが、続けられた兄の言葉に息を飲むことになる。
「――状況によっては、あいつをお前にやってもいい」
「!」
よくよく、この兄は交渉というものに長けていると思う。自分が望んでも得られないものをさらりと提示されると、まるで手のひらの上で転がされているように思えてひどく悔しくなる。それと同時に「そこまでして?」という驚きを禁じ得ない。兄の云う「あいつ」は、兄にとっても余人に代えがたい者であるからだ。
「…………本気ですの?」
「わからない。ただ――想像を裏切ってくれる期待はある。もちろん、悪くない方向に」
興味がわいた。身内以外の相手に対して非常に素行の悪かったはずの兄、その彼が「だれか」を選び女官の地位を与えるべく自分に頼みごとをするという。その心情を問い質したくなった。
なにより、対価として示されたものは破格だった。ならば、自分のとるべき行動はひとつだ。
「二言はございませんわね?」
真剣に兄を見据えて問うと、取引成立だな、といって彼は見たこともない顔で笑った。
◇
「そうして、呼ばれたのが貴方。あの娘は嫌、この娘はいや…と言ってばかりきたから、おじい様には気持ち悪くなるぐらい喜ばれたわね」
「そんなことがあったんですか……」
さすがは孫馬鹿である。
それにしても、と小夜はふと疑問を覚えた。
小夜と咲宮は、宴の前に引き合わされたのが初対面である。にもかかわらず、話の中で相手は小夜のことを知っているような口ぶりだった。
この時代、身分ある者はそれが高いほど顔を身内以外の他者から隠す傾向にある。女官などの役割を持たない貴族の娘たちも同様に顔を隠し部屋の内に籠り、御簾の外に出るなどはしたないこととされた。珍しい外出の際や大風で御簾がひるがえる折に、たまさか姿や顔があらわになる程度。そのたまさかを誰か公達が塀の割れ目や垣根の間から垣間見る、というのが一目惚れやヘッドハンティングのチャンスと言えた。 もちろん小夜も妾腹とはいえ貴族の娘。内裏に上がる前、権中納言家の屋敷に居る間であれば、小夜の姿や言動を垣根などから見初めた可能性はある。だが、それは都を気侭にそぞろ歩ける貴族に限られ、なにかと制約の多い東宮候補の咲宮には少し難しい。しかも、垣根などから垣間見た程度にしては、性格までよく観察されている気がする。
「それにしても、咲宮さまは一体どこでわたしをお見掛けになったんでしょう」
ぽつりと疑問を口にすると、華宮はぽかんと口を開けた。しばし呆然とし、ややして表情を引き締めた。
「……そうよね。知らなければそっちの発想をするわよね。当然よね」
「宮さま?」
「違うの、その兄じゃないの。咲宮ではない、もうひとりの兄」
母違いの兄だから、交流があるというとよく驚かれる。それも、二人の母の実家は言うなれば政敵同士だ。けれど、「兄弟は仲よくすべし」という祖父の主義主張もあってか、幼いころから行き来があった。
「刑部卿宮さまの甥で、何年か前に亡くなられた麗景殿女御のご子息、朔宮実朔君」
(さねのりさま)
その名前を聞いた途端、小夜の脳裏を数度の邂逅の光景がめまぐるしく過っていった。
ようやく、事態が繋がってきました。