第136話 猫の不養生 (12)
電話を置いた根岸は、足早にダイニングへと戻った。
台所では人間の姿のミケがごちそう作りに励んでいる。
そして、諭一と志津丸、アメヤリの姿もある。
アパートでの騒動から間もなくミケは全快した。もう目薬を差す必要がないと思うと、根岸も一安心である。
そして家令の仕事に復帰したミケは、快気祝いとして三人を夕食に招待する事にしたのだ。
「日頃世話んなってるアメヤリさんがせっかく相談に来てくれたってのに、俺はどうにも、ものの役に立たない有り様だったからな。礼と詫びがしたくて」
そう言ってミケは、ダイニングのテーブルに大皿を置いた。
食卓に並んだのは、山盛りのトルティーヤにハンバーガーバンズ。それに肉野菜諸々の具材と手製のソース数種類。
タコスとハンバーガーを、ちょっとしたビュッフェスタイルで頂くパーティーという趣向だ。
和食の得意なミケが珍しくメキシコ料理とアメリカ料理を選んだのは、アメヤリと諭一、『灰の角』への謝意を込めて、という事だろう。
「別に気にしなくて良かったんだけど。……でも、美味しそう。故郷を思い出すわ。大したものね」
ワカモレの器を前に、アメヤリが思わずといった様子で目を細める。
彼女がこうして表情を綻ばせるのは、根岸が顔を合わせて以来初めての事かもしれない。
「お、根岸も戻った。電話って何だったんだ?」
各自の席に缶ビールとコーラのボトルを配って回っていた志津丸が、部屋に入ってきた根岸に気づいて首を傾げてみせた。
「ああ……そうですね、後で話します」
一先ず根岸はそう答える。
ブロナーからの電話について詳細を語るとなると、それなりに長くなるし重い話でもある。タコスパーティーの乾杯直前に立ち話で終えるのは、相応しくないと思えた。
「そんなら、早々に乾杯といくかい根岸さん」
根岸の表情からある程度の事情を察したらしいミケが、エプロンを外してさらりと提案する。
「うわーい。このパティうっまそー」
諭一がうきうきしながらグラスにビールを注いだ。
「じゃあ皆さん、ミケちんの回復を祝って……つっても普通の猫のミケちんも、あれはあれで可愛かったんだけどな。もう何日か猫のままで、ウチに泊まったりすれば良かったのに。ササミと玩具あげるから」
「お前さんは食わんでいいぞ」
「あーッ! 冗談だって」
ハンバーガー用のパティの乗った皿をミケがすいっと遠ざけ、諭一が悲痛な声を上げる。
いくらかのすったもんだの後、結局乾杯の音頭は根岸が取った。
「気を取り直して――乾杯!」
唱和の声と共に、平和の訪れた音戸邸のダイニングにて、各々のグラスが掲げられた。
◇
大分食事の進んだところで、根岸は先程受けた電話の内容を皆に語って聞かせた。
「……ブロナーが、貴方にそんな話を。そう……」
ブロナーからアメヤリへの『伝言』は努めてオブラートに包んだ上で伝えたのだが、それでもアメヤリは不穏に声を低める。
「マクギネス家の辿った運命について、ブロナーさんは――」
根岸はそろりと付け加えた。
「誰かのせいにしようという感じじゃなかったですね」
「でしょうね。ええ、彼女はそういうひと」
ふっと、どこか呆れたような息を吐いたアメヤリは、テーブルの上のグラスを勢い良く煽った。
彼女の飲み物は一見ただのコーラだが、実は自分で持ち込んだテキーラをコーラで割ったものである。いわゆるメキシコーラと呼ばれるカクテルだ。
「ていうかさ。誰かのせいにしようったって」
諭一が付け合わせのポテトを摘まみつつ、誰にともなく呟いた。
「誰が一番悪いんだよこの話?」
「エマを殺したのは私よ」
「それは聞いたし、正直ぼく人間だからちょっと引いたけど。でも最初にアメヤリさんが巻き込まれたのは超とばっちりじゃん」
「霊感ナシの人間連中が、嘘で金稼ぎしたのがマズかったんじゃねえの?」
そもそもを言えば、と志津丸はマクギネス家を手厳しく評価する。
人間として死亡した時のエマは若かったが、それでも今の志津丸よりは年嵩だ。彼はつい先日、二歳上の兄弟分と自身の正義を懸けて戦ったばかりである。
善悪の判断が難しい状態だったとエマを庇うのは、彼からすれば無理のある主張と言える。
「最初は些細な嘘だったようね。かつて一族が特別な力を持っていたのは本当だから、周囲から頼られて。後に引けなくなって」
グラスを空にしたアメヤリが、そのままの姿勢で天井近くを眼差した。
「じゃあ、結局誰が悪いのさー」
「別に誰が悪かろうと悪くなかろうと、揉め事の末に死人が出るこたぁよくあるだろう」
何故か不服そうな諭一に、ミケが淡々と応じる。
「そんで生命が尽きちまうってのは、誰のものでも寂しいもんだ」
ミケはアメヤリからテキーラをお裾分けして貰い、先程からハイボールにして美味そうに何杯も飲んでいるが、未だけろりとした顔色だ。
「そういえば、諭一」
ついでとばかりにミケは呼びかける。
「お前さんの友達……俺にとっちゃ日本史専攻の同期か。あいつは大丈夫なのかい」
「モリっち? どうにかね。オカちゃんと仲直りも出来たし」
怪異となったエマが消滅すると同時に、森心也の暮らす部屋からも泥水は引いていった。シンクや洗濯機にこびり付いていた髪の毛だの何だのも、エマの異能の一部だったらしく跡形も残らなかった。
乱闘の事実を物語るのは、倒された本棚とラックくらいのものだ。
そして、通報を受けて駆けつけた陰陽士に根岸らが応対している間に、森は脱水症状で病院送りとなり治療を受けた。
元々、森は違法な怪異写真取引が両親や学校に露見するのを恐れるあまり、怪異に祟られても通報出来ずにいたのだが、当然ながらこの騒ぎの結果、家族にも陰陽庁にも全てが明かされたという。
しかし幸いと言うべきか、諸々の事情を鑑みて逮捕までには至らず、停学などの処分が下る事もなかった。親からこってり説教を食らうくらいは、まあ良い薬の範疇だろう。
ちなみに諭一が『オカちゃん』と呼ぶのは、森との共通の友人で岡倉という学生だそうだ。
諭一の写真を記者に売った事で、森はその友人から絶交を言い渡されていたのだが、どうも岡倉青年は随分と真っ直ぐな性格であるらしい。
森が入院したと聞いて心配した岡倉は、結局諭一と連れ立って病院まで見舞いに行き、そこで無事、森と和解した。そういう顛末だ。
「もう退院してるし。モリっちは今までぼくより真面目に授業出てたからね、単位も大丈夫なんじゃないかな。あ、ミケちん授業被ってるじゃん。ノートとか見せてあげてよ」
「向こうさえ良けりゃ構わんぞ」
苦笑した上で、ミケはふと何か思い出したように顎に手を当てた。
「……アパートで森と対面した時、俺は獣の姿だったが。声で俺だと気づいたかな?」
「あの状況で声なんか聞き分けてる余裕ないっしょ、フツーの人間は」
諭一の呆れ顔に対し、そんなものか、とミケは首を傾げる。
混沌秩序の時代といっても、『普通の人間』にとって怪異は、異質で驚くべき存在ではあるのだった。
人類は時として怪異に翻弄され、また時としてお互いを利用し合い、あるいは平和な共存の道を探ってきた――
「かつてアステカ文明の人々は世界の終末に怯え、大いなる存在に対して生贄を捧げたと言われますが……」
何とはなしに、根岸は言葉を紡ぐ。食卓の皆が不思議そうに彼へ目を向けた。
「現代の人も、そして怪異も。案外彼らと変わらないのかもしれませんね。夜も眠れない程の不安や恐怖に駆られれば、持てる知識をありったけ使って行動を取るしかなくなる。その時に、他の誰かを犠牲にしてしまう事もある」
根岸の頭には、エマ・マクギネスやロナン・マクギネス、津島昇といった人々の顔が浮かんでいた。
殯の異能によって否応なく脳裡に焼きつけられた、本来知る由もなかったはずの人々。
たとえ嘘つきだったとしても悪人だったとしても、彼らもまた、ただ生きるために足掻いただけなのだ。
「何言ってんだオメー、酔ってんのか?」
志津丸が身も蓋もなく混ぜっ返す。
「はい、多少……」
と根岸は頷き、ようやく飲み終えた一杯めのビールのグラスを見つめて照れ臭くなった。
「怪異の抱える不安、か……。そういやぁ根岸さん、聞いたところではあんた、悩んでるそうじゃないか」
「えっ? 悩んでる?」
悪戯小僧めかしてにやりと笑いかけてくるミケに、根岸は目を瞬かせる。
「この屋敷での家事が思うようにこなせない、とか何とか」
しばしの時間をかけてミケの言葉を飲み込んでから、根岸は諭一を睨んだ。
ミケと根岸では家政技能のレベルに大きな差がある。文化財たる音戸邸の主の座を継承したものの、この屋敷を維持するために根岸が出来る仕事は少ない。
そう悩んでいたのは確かだが、それを零した相手は諭一だけだ。あの時のミケは、人間の言語が理解出来ない状態だった。
どうせ彼がミケに口を滑らせたのだろう。無言で睨まれた諭一は案の定、首を竦めて縮こまった。
「御主人――前の御主人だって家事はからっきしだったし、何も気にしなくっていいんだがな。しかしあんたはそういう所、ややこしい性格をしてるときたもんだ」
根岸の内心の狼狽などどこ吹く風で、邸宅の家令にしては行儀悪く、ミケは食卓に頬杖をついてみせる。
「何なら、和室の手入れのコツを一から教えるさ。二人でやっていきゃあいいだろ」
今度は茶化す風でなく、柔らかな笑顔が向けられた。
我ながら単純なものだと根岸は思う。彼にそう言われると、ただそれだけで心が軽くなったような気がした。
「そう――ですね。お願いします」
「お、言ったな根岸。ミケが教師面し始めると厄介だぜ?」
かつてミケに家庭教師を務めてもらったという志津丸が、こちらはけらけらと笑い声を立てた。
「一からってどこから? クイックルワイパーの効率的なかけ方?」
背筋を元に戻して、諭一が話に加わる。
「伝統に則るなら、まずは雑巾の絞り方のコツをだな……」
「うぇーおじいちゃんじゃん」
「ミケって素手でリンゴ潰してジュース作れるだろ。それで根岸にコツ伝えんの無理がねえか?」
わいわいとやり始めた三人を見つめて、ふと、アメヤリが呟いた。
「ここは……平和ね」
根岸は彼女と視線を交わす。
「ええ。大変幸いなことに」
不安や恐怖。全ての生命に等しく降り注がれ、時に狂乱へと走らせる感情。
それらを遠ざける奇跡の源とは、多分、こんな風に家の片隅に落ちているものなのだ。
根岸秋太郎は――異なる世界層までも見通す異能を得た、怪異屋敷の主は――今この瞬間、視界に広がる光景をただ噛みしめるのだった。
【第三部 完】
◇◇後記と謝辞◇◇
ここまでお付き合い頂き、どうもありがとうございました。
大変申し訳ございませんが、書き手多忙のため、今回の章をもって本作は一旦休止とさせて頂きます。
また続きのプロットがまとまり、時間が取れたら再開させる予定です。その際はぜひともよろしくお願い致します。
これだけのボリュームの作品を書き進めるのは初めての経験でした。
ひとえに読んで下さる方々、評価や感想を送って下さる方々がいてこそやってこられたものと思われます。
改めて皆さまに感謝申し上げます。




