彼女との出会い
真実は人を傷つけるとか、真実を知りたいって、よく言うけど。
真実って何?
その人が言ったらそれが真実なの?
それはその人の主観が入ってないの?
その人は何を考えてそれを言っているの?
その人が語る真実は本当に『真実』なの?
「お母さん、再婚してもいいかなあ」
「いいと思うよ。今度会わせてね」
お母さん……と言われて真っ先に思い浮かぶのは、疲れて台所のテーブルで眠っている顔だ。
私のお母さんは、昼も夜も働いて、ひとりで私を育ててくれた。
お父さんは居なかった。
お父さんは私を妊娠中に浮気をしてあっさりと私たちを捨てたらしい。
らしいという言葉を使うのは、それが真実か知らないからだ。
母のお母さん……おばあちゃんが延々と愚痴って私に聞かせたのを聞いていただけだ。
「お前のお父さんは本物の屑だった。お母さんが妊娠してる間に子供を何人下ろさせたか、聞くだけで恐ろしいぞ」
「お前のお父さんは私を本気で殴った。60才の私をだぞ? これはその時の傷だ。お前をかばった時に出来た傷だぞ」
「お前のお父さんの金遣いは酷かった。毎日私の財布からお金を盗んで行った。毎日ギャンブル三昧だった」
延々と、延々と。
それは止むことがない雪のように、毎日五時に鳴る夕方のチャイムみたいに、定期的に聞かされた。
私の中には会った事がないお父さんが鬼として出来上がった。
まあ離婚してから一度も会いに来ないから、酷いヤツなのだろう。
私は納得していた。
幼稚園年長くらいだろうか、言葉が理解できるようになったらずっと語られたのはお父さんの愚痴だった。
そして五年生になった頃、お婆ちゃんは亡くなった。
二階から下りる時に階段で足を滑らせて転落。打ち所が悪かったようで、一日で亡くなってしまった。
愚痴を聞かされる時は「またか」と思っていたが、それ以外は優しかった。
色んな所に連れて行き、毎日ご飯を作ってくれた、勉強も見てくれた、一緒に眠ってくれた。
お母さんがいない時にずっと一緒に居てくれたのはおばあちゃんだったので、私はとても悲しんだ。
でもうちの階段は急だったので、仕方ない……と毎日階段を見て思った。
何度か階段の下に座り込み、おばあちゃんを思い、泣いた。
そして一年後。
私が六年生になる頃、お母さんが私に言ったのだ。
「お母さん、再婚してもいいかなあ」
私は喜んで賛成した。
中学生になるのだし、私のことは気にするなと伝えた。
でも思春期であることは間違いないので、私の部屋に再婚相手の男を近づけないで欲しい。
そう伝えた。
お母さんは苦笑していたが、それは当然の配慮だろう。
義理の父とは完全に見知らぬ男なのだ。警戒するのは当たり前だろう。
そして家に来た『新しいお父さん』に挨拶されて、私は絶句した。
「初めまして……になってしまうことを謝罪したい。君の本当の父親なんだ、僕は。おばあちゃんに嫌われてて追い出されたんだけど」
「ごめんね。離婚したのは、おばあちゃんの妄想からお父さんを守るためだったの」
なんと私の本当のお父さんと、お母さんは再婚した。
私は表面上祝福しながら、頭の中はパニックだった。
だって私は延々とおばあちゃんにお父さんの愚痴を聞かされて育ったのだ。
私の目の前でお母さんの手を握り、嬉しそうにほほ笑んでいるこの男は、私を妊娠していた時に浮気して子供を殺したのでは?
「そんなことしないよ! おばあちゃんは妄想が激しくてね……それも僕にだけ……」
おばあちゃんを殴り飛ばしたとか。
「人を殴れるほど大きな体に見えるかな。僕は本当に非力なんだ」
家のお金を盗んだとか聞いたけど?
「むしろ家にお金を入れ続けていたよ。これだけは証拠がある」
そう言ってお父さんらしき男が見せてくれたのは12年間ずっと振り込まれてた月20万ものお金で、総額で数千万あった。
それは一度も引き出されて無くて、私名義の通帳に入っていた。
「ここにお金を入れ続けることだけが、僕の無罪証明になると思って続けてきた。ずっとお母さんと君を遠くから愛していたよ」
そう言い、私を見て涙を流した。
お母さんも一緒に泣いている。
私は完全に置き去りになった。
わかんないわ、これ。
お父さんが本当の事を言っているのか、お母さんが本当のことを言っているのか、おばあちゃんが本当のことを言っていたのか。
現時点で私が不思議に思うのは、お父さんの左手薬指には指輪が無いことだ。
それほどずっと思い続けていたなら、離婚しても指輪を外さないのでは?
証拠にお母さんはずっと指輪をしていた。
それはおばあちゃんに何を言われても外さなくて「太って外せないのかな?」と私は思っていたけど、今分かった。
お母さんはお父さんをずっと好きだったのだろう。ずっとずっと待っていたのだ、この時を。
それは理解できた。
でもお父さんと名乗っている人の指に指輪もなく『むしろ指輪を外した日焼けの跡がある』のだ。
それは少し前まで『他の指輪をしていた証拠』だ。
……別の人と結婚していたのでは?
ずっと遠くから愛していたとか、本当だろうか?
でもこれは、私がおばあちゃんに吹き込まれた……それこそ6年以上ずっと延々と語られた根雪が溶けないだけなのかもしれない。
でも私には目の前にいる「お父さん」と名乗る男が鬼のように妖怪のように、また本当のお父さんのように、得体の知れない生物のように見えた。
でも誰にも言えなかった。
どうやらそれは周知の事実だったようで、お母さんの友達数人も復縁を喜んでいた。
それにお父さんとお母さんは、外では会っていたようだ。
私の知らない所で。
だったら永遠に知らない所で会って居れば良かったのに。
知らせてくれてなくて良かったのに、再婚しなくても良かったのに。
そして延々と私の心を蝕んだのは、『本当におばあちゃんは自然に転落死したのか』だった。
おばあちゃんが階段から転落死した時、家にはお母さんしか居なかった。
第一通報者は、お母さんだった。
一階で料理をしていたら突然おばあちゃんが落ちてきて! と私に抱き着いて病院で泣き叫んだ。
警察が来て色々調べて行ったけど事件性はなく、普通に転落死として扱われていたし、事実おばあちゃんの部屋だけ二階にあったので、それはおかしなことではなかった。
でも私だけは知っている。
二階におばあちゃんの部屋を作ったのはお母さんなのだ。
お母さんが「一階は手狭ですし、お二階へ」とおばあちゃんを二階に入れた。
それは私が小学校二年生くらいの時だったはずだ。
そのために改築までしたのだ、我が家は。お金がない、大変だと言っていたのに、かなりの金額をかけて。
おばあちゃんのために大きなお風呂まで二階に作ったのだ、ジャグジー付きの。
「おばあちゃんには快適に暮らしてほしいから。それに娘の面倒も丸ごとお願いしちゃって悪いなあと思ってるのよ」
「嬉しいねえ」
事実お母さんは昼も夜も働いていて、ほとんど家に居なかった。
だからこそ私は延々とおばあちゃんにお父さんの愚痴を聞かされていたんだけど。
ずっとおばあちゃんと二人だったから。
おばあちゃんは一日数回お父さんの愚痴を吐く以外は、普通の人だったのだ。
むしろ私には優しかった。
私はおばあちゃんが嘘をついていると、言い切れなかった。
それにお父さんらしき人が月に20万も振り込んでいたなら、お母さんはあんなに働く必要はあったのか。
家に居られたのではないか?
真実が何一つ見えない。
そもそも真実とは何なのか。
誰かが言ったら真実なのか、そこの主観はないのか、想いはどこにあるのか。
私は何を信じれば良いのか。
すべてが恐ろしく、表面上のすべてが信じられない中学一年生をすごした。
そしてそれを吐き出したくて仕方なかった。
でもそのまま書いたら、ダメな事は分かっていた。
お母さんがおばあちゃんを殺したかも知れないって?
おばあちゃんの気が狂っていたって? 私はその人の育てられたって?
お父さんが鬼のような人かもしれないけど、今一緒に住んでるとか?
なにそれ気持ち悪い。
そのまま書いても仕方ない。
そもそも『表面上我が家は普通なのだ』。
むしろ厄介なおばあちゃんが死んで、やっと家族三人でやり直そうとしている家。
徹底的に隠すべきだ。
でも我慢できなかった。
誰かに気が付いてほしかった。
脳内に感情や言葉が溢れて、私は物語を書き始めた。一見普通の文章を書いたが、裏に狂気を潜ませた。
事実そうでしょう? みんなどうして目に見えていることが、語られることが真実だと思えるのだろう。
私の潜ませた毒に、誰も、誰も気が付かないまま、時が過ぎた。
そんな時に、県の美術展でとある絵を見た。
それは家族の普通の絵だった。
でも手の先が、足の先が、お互い見えないように、絶対見えない角度で、凶器を持っていた。
ナイフや包丁、斧。でもそれは『そのまま書かれてなくて、花で彩られていた』。
この絵、好き。
調べると、同じ学校の一年生だと分かった。興味を惹かれて放課後、教室に行ったのだがその子は居なかった。
「先輩じゃないですか。何か用事ですか?」
「あの、美術展で絵を見て……」
「ああ、あの子は授業が終わるとすぐに美術室です」
教えられてB棟にある美術室に向かう。
B棟へは無駄に長い連絡通路がある。
その日は夕方には雪が降ると言われていたような気温で、恐ろしく寒かった。
授業が終わって5分後に美術室に居るとは思わず、私はコートも羽織って無かった。
歩くたびにカタン、カタンとうるさい木の板を渡って、B棟へ向かう。
……居た。
渡り廊下から見える一階の美術室、窓際に座ったオカッパ髪の女の子。
一人しかいないから間違いない。
自分が座った背丈の二倍くらいある大きなキャンパスを立てて、背筋をピン……と立てて、身動きひとつしない。
ただまっすぐ前を見ている。そこに何かあるわけでも、誰かいる訳でもなさそうだった。
空気はキンキンに冷えていて、ずっと渡り廊下にいたら凍えてしまいそうだった。
それでも私は身動きひとつしない彼女から目が離せなかった。
たっぷり10分は動かなかった彼女が、クッ……と顔をあげて手を天空に伸ばした。
そして鉛筆の先を睨んで、真っ白なキャンパスに雷を落とすように真ん中に線を、踊るような線を描いた。
そこからは一気だった。
立ったり座ったりしながら、彼女は絵を仕上げていった。
あまりにその姿が美しくて私は見惚れた。
寒さを忘れて、たっぷり一時間以上見ていたと思う。
やがて彼女がキャンパスを片付け始めたのを見て、慌てて教室に戻って上着と荷物を持って昇降口に立った。
胸がどきどきしていた。
彼女は何を見て書いているのだろう、彼女の横に座ってみたい、彼女が何を見ているのか知りたい、そう思った。
こんな気持ちは初めてで、家のことで頭を支配されない時間は初めてで、私は高鳴る胸を押さえつけて彼女を待った。
二年生と一年生の昇降口は違う。
一年生の昇降口に影が見えて……人が歩いてくる。
彼女だ。
あ、わりと身長が小さいんだ。
歩く姿をみて認識した。
放課後、しかもかなり遅い時間。
遅くなればなるほど雪の可能性がある日に、昇降口に立っている私を彼女は素通りしていく。
勇気を出して話しかけた。
そこから私と彼女の物語が始まった。




