1.奇怪な足音
ジージー。
シリリリリ。
先を覆い隠す暗闇の中で、虫たちの合唱が耳に突く。
ちょろちょろ。
アオーン。
穏やかな川の音と共に、狼の遠吠えが聞こえる。
「はっ……はっ……、くっそっ、なんだよ」
ぎゅっと、手の平で拳を握りしめ、秋二は山袴を足早に動かす。
パキパキと乾いた枝の音に、どきりと脈打つ。
ゴロ、ゴロ。
背負い籠に入れていた薪が、地面に落ちていく。
「なんで、急に夜になってんだよ」
上を見上げても、月も星もない。
真っ黒な朔月だけが、空に浮かんでいる。
額から流れる汗が、着物の袂に染みを作っていく。
闇の中に映える、亜麻色の髪の毛を吹き付ける風が揺らす。
頬には、赤く爛れた痕がくっきりと浮かび上がる。
「あっちぃ」
手の甲で額の汗を拭い付けても、汗が噴き出すばかり。
ザク、ザク、ザク、ザク。
砂を踏みしめる音に、心臓の鼓動が速まっていく。
「逃げないと、逃げないと」
小刻みに足を動かすと、ユサユサと背負い籠も一緒に揺れる。
肩に縄が食い込んで、ヒリヒリと痛む。
「邪魔だ、こんなの」
ひょいっ。
背負い籠を放り投げた途端に、秋二の足の運びはスルスルと前に進みはじめる。
ザクザク、ザクザク、ザクザク。
「ちっ、追いかけて来やがった。なんなんだよ、あいつは!」
震えた声を荒らげる。
握り拳を深く作って、吹き付ける風を泳ぐように手でかき分ける。
ザクザクザク。
ザクザクザク。
ザクザクザク。
土を踏みしめる音がどこから聞こえてくるのかも、見当がつかない。
まるで、山全体が追いかけてきているようだ。
「人でもねぇ……、狼でもねぇ……。だったら、この足音はなんだ」
荒れる呼吸。
張り付く服と、湧き上がる熱。
ねっとりと纏う、重い空気に力を吸い取られていく。
「わぁっ!」
秋二は、木の根っこに躓いて顔から転んだ。
「痛ってぇ」
ズキズキと痛む膝を見ても、暗くて何も見えない。
ザクザク、足音は着々と近づいてきている。
「こんなところで、止まっているわけにはいかない」
膝に鞭を打って、土を蹴って前に進む。
ジリリリ……。
スイーッチョン、スイーッチョン。
リリリリ……。
ザク、ザク、ザク、ザク。
耳を傍立てて、虫の音に混じる足音を聞き続ける。
「ただ薪拾いに来ただけなのに、何でこうなった。クソ、早く帰ってやらねぇと。なみが待っている。生まれたばかりの息子だっているんだ、こんなところで手間取っている場合じゃねぇ」
脳裏に浮かぶのは、黒髪で勝気な妻のなみ。
つい先日、なみは息子を生んだばかりで、産褥から回復しきっていない。
「村に帰らねぇと。それには、枝垂れ山から下山するしかない」
村には、枝垂れ山という山がある。
名の通り、多くの枝垂れ桜が植えられていて、春なれば一面桜色に染まる。
うだるように暑い夏は、青々とした葉を茂らせる。
そして、枝垂れ桜は、山神様の化身だ。
ふと、目を見ると大きな枝垂れ桜が見えた。
幹の下は、ぽっかりと空いている。
「いったん、あそこに隠れよう!」
秋二は転がるように洞の中に隠れた。
ひと一人が隠れられるほどの穴は、広いようで狭い。
ゴツン。
体勢を変えようとしただけで、頭をぶつける。
隠れるのには絶好だろう。
じっと、暗闇の中で目を凝らす。
闇が蠢くばかりで、何も見えない。
「今は、何時だ? 本当に夜になっちまったのか?」
洞から覗く空は、真っ黒い炭と同じ。
相変わらず、朔月が浮かんだまま。
膝を抱え込んで身を縮めると、鉄の匂いがした。
膝小僧に触れると、ぬるっとした感触。
「転んだ時に、切ったのか」
ほんのりと見える赤い血に、肌が粟立つ。
脳裏を埋め尽くすのは、漂う鉄の匂いの中で突き出した光の目。
ぬめりと、光る額から流れる血と、真っ赤な舌。
生気を奪われた、真っ白な肌をした。
変わり果てた兄の姿。
「兄貴も、山で死んだ。きこりで山に入ってから、帰ってこなかった」
気前のいい兄だった。
誰からも尊敬された、出来のいい兄。
なのに、あんな最後を迎えたなんて未だに信じられない。
「どうしてあの時、兄貴が山に入るのを止めなかったんだろうな」
唇と噛みしめる。
悔いても、悔いても。
死者は、生者には戻らない。
ふーっと、息を吐き出す。
「兄貴が死んで半年。俺は、怖くて山に入れなかったんだよな。今日は、どうしても薪が必要だから入ったってのに。こんなことになるなんて……」
こみ上げる熱いものを噛み砕くけれど、視界が滲みはじめる。
「帰りたい。なみのところに、家に帰らせてくれよ」
しくしくと流れ落ちる涙を甲で拭い去る。
「泣いていたってしょうがねぇよな。ともかく、下山する方法を考えないと——」
ドドド——ッ!
大地がうねる。
木々が揺れて、目の前に雨のように枝が落ちてくる。
「な、なんだ……うぉっ!」
地面が突如として盛り上がって。ゴツンと頭を打ち付ける。
辺りを見渡すと、木が波を打っていた。
まるで、地面の中に大きなもぐらが這い回っているみたいに。
「今度は、なんだ」
ザクッ! ザクッ!
「ひぃっ……。お、音が大きく、なった?」
大地が揺れる最中、土を踏みつける音がやけに大きい。
虫の音は聞こえない。川の音も聞こえない。
見えない大きなものが近づいてきている。
「まさか、熊が近くにでもいるっていうのか?」
洞から顔を出して、じっと目を凝らす。
メリメリ。
大きな杉の木が、傾きはじめた。
ミシミシ。
暗闇の中ではっきりと見える。木が折れ曲がっていく。
ドスンッ!
木が倒れた。
大きく波打つ地面の上に落ちて、砂埃が舞い上がる。
「ゲホっ、ゲホっ。熊の仕業じゃねぇな。あいつらにこんな芸当はできねぇ。じゃあ、誰かやってのけたんだ」
砂埃を手で払う最中。
見えた。
白装束と、木に触れている真っ白い手を。
「霊だ……」
弾かれたように洞から飛び出して、秋二は奥へと駆け抜ける。
「人じゃねぇ。捕まったら……死ぬ!」
草履の鼻緒が食い込んで、ズキズキと痛む。
咄嗟に、脱ぎ捨てて裸足で夜の山を走り続ける。
落ち着いた呼吸も、荒れてきて息をする度に苦しい。
「はっ、はっ。俺は死ぬわけにはいかねぇんだ!」
笑ったなみと、にこやかに笑う息子の顔が浮かぶ。
本当は、震えて動けない。
ただ、本能が「逃げろ」と言う。
愛する者のために、人は力を発揮するらしい。
飛び出す木の根に躓いても、転ばずに体勢を持ち直せる。
ザクッザクッザクッ!
奇怪な足音は、近づいてくる。
音が反響して、後ろからも、前からも、横からも聞こえてくる。
「どっちだ。どっちにいるんだ!」
身構えができれば少しは、木が楽になるのに。
全方向から聞こえるんじゃ、どうしようもない。
「前に進むのでいいんだよな。前からやってくるとか、無いよな。クソ、月の光があれば——」
相変わらず、真っ黒な朔月しか空には浮かんでいない。
目を見据えて走る度に、底知れぬ恐怖が喉まで這い上がってくる。
捕まったらどうなる。
生きて帰れるのか。
口に出してしまえば、きっと走れない。
恐怖に呑まれれば、終わりだ。
「走れ、走れ!」
目尻から流れる涙を雑に拭う。
僅かな坂を駆けあがった途端に、片足が急に軽くなった。
「わっ! 崖だ!」
片足は気が付けば、空中を踏みつけていた。
つんのめりになる体勢を、無理矢理後ろへ引き戻す。
どしっ。
「いててて」
打ち付けた尻を撫でる。
「くそ、逃げきれないか」
闇の中でも崖の下が深いことだけは分かる。
落ちれば間違いなく、命を落とす。
広昭のように。
「他に逃げると言っても、どこだ」
立ち上がった秋二が、振りかえった途端。
息を吸い込んだ。
シャラン、シャラン。
澄んだ鈴の音が目の前で鳴っている。
闇の中で、艶立つ真っ白い肌。
ぷっくりとした淡い桜色の唇。
闇と同化する漆黒の髪に差された、桜の簪。
それは、それは美しい女がじっと見つめていた。
見る度に、心を奪われるほどに見目麗しい。
「あ、あなたは……もしかして」
小さな唇が動いた途端。
バキッ!
足元が軽くなって、体が浮いた。
ガラガラ、ゴロゴロ。
岩が転がる音がする。
いや、目の前で岩が転がっている。
真っ暗な闇の中で、下へ落ちていく感触。
「足場が、崩れたのか……」
上を見上げると、じっと見つめる美貌が微かに見えた。
「見惚れて落ちるとか、馬鹿か俺は。なみに、叱られちまうな」
風を切る音が鼓膜を刺激する。
「ああ、俺は、これで——死ぬのか」
目を閉じる。
脳裏を巡る走馬灯を見る間——。
ドンッ!
地面に叩きつけられる音が最期に聞こえた。




