3
なぜだろう。美女に懐かれた。
いろいろ楽観視しすぎた結果、読書友達ができた。
仕事帰り、自転車を引く奈都の横には、長身の美女。名前を理世と言う。びっくりなことに、これで大学生。
(わたしよりも十も年下だった!)
せいぜい五歳くらいだと思っていた。
理世とこうして帰宅するのはもう何度目だろう。
一度目で本を貸して、二度目で返却。それから感想を言いたそうな彼女につき合ってファミレスで深夜まで話しこんだのがいけなかったのだろうか。
(ハニートラップだわ、これ……)
こうして世の男たちは引き返せない泥沼へとはまり、堕ちていくのだ。
敵方に同性愛者だと誤解されているのだろうか。
とはいえ理世に不審な点は一切ないので、これは奈都の単なる妄想に過ぎないのだが。
今日はめずらしく推しがかぶらなかった作品の話で盛り上がっていた。
「あの作品は彼がヒーローで正解ですよ。満足の結末でした。ほかの男は裏切り者だったり、俺様だったり……わたしは、いつもそばでヒロインを見守っていた彼が一番彼女のことを愛してると思っていたので!」
「うーん、そうだけど。ヒロインには彼が一番なんだと思うけども! でも! 裏切り者の彼ってこれから先ずっと、彼女を愛しながら、それ以上に後悔しながら生きていくんだなぁって思うと、なんか嫌いになれないというか……」
「奈都さん、優しすぎる! わたしはああいうじめじめした男は絶対むり! あーもう、まだしゃべり足りなくないですか!? わたしのうちも実はこの近くなんです。よかったら寄っていきませんか?」
ちら、と彼女を見やるが、他意はないように見える。奈都は気後れしながらもうなずいた。
これでなにか企てているようならば、彼女は女優にもなれるだろう。
ええいままよ! とばかりに、奈都は意気込み彼女の自宅へと足を進めた。
理世の自宅は綺麗なマンションで、内心どきどきしながらエントランスを通り抜けてエレベーターに乗りこんだ。十二階のボタンを押したので、そこが彼女の自宅のある階なのだろう。なかなか高いところに住んでいる。ほんのり高所恐怖症な奈都は、なるべく外は見ないことを決めた。
エレベーターの到着した階で降りて、突き当たり。両脇に植木の置かれた玄関口で鍵をさした理世は、あれ? とつぶやき小首を傾げた。どうやら鍵が開いていたらしい。それ、大丈夫なのだろうか。
「あ、ごめんなさい。兄の方が先に帰ってたみたいです」
どうぞ、と言われたが。
(上がっていいの?)
まごついていると、理世は来客用スリッパを用意してくれた。もし彼女がハニートラップ要員だったのだとしたら、自宅に招きはしないだろう。家族に会わせるなんてもってのほかだ。
この時点で彼女が敵である可能性は完全に除外されたわけだが。
となるとこれまでのことが純粋な好意ということで。
それこそよくわからなくはあるにしても。
「おじゃまします」
「どうぞどうぞ。狭いところですが」
そう謙遜した理世だが、これで狭いのなら奈都の部屋は犬小屋だ。いや、グッズだらけなので豚小屋かもしれない。
「お兄ちゃん? 今日は早かったんだね」
「ん」
理世の兄だろう男性の、聞いているのかいないのかわからない適当な相槌が彼女越しに聞こえてきた。
理世は背が高いので、奈都には向こう側がまったく見えない。ひょいっと脇にそれてまず目にしたのは、ソファに座り資料のようなファイルを開いて真剣に目を通している男性の横顔だった。
男女の兄妹だからか、顔つき自体はそこまで似ていない。とはいえ妹同様端正そうな顔立ちに、背も高そうだ。美人の理世と並ぶと絵になりそう。
スーツの上着をソファの背にかけ、ネクタイこそ緩んでいるが、その顔はただただ険しい。だけど前髪が落ちてきたときの払う仕草が理世にそっくりで、兄妹だなと思わず笑ってしまった。
そこではじめて、妹以外に人がいることに気づいたのだろう、彼はようやくこちらへと顔を上げた。
その目が奈都へと向けられると、さっきまでの真剣な眼差しが一転、驚愕に見開かれた。これほどわかりやすくびっくりして硬直する人をはじめて見た気がする。
呆れ気味の理世が、簡単な紹介をした。
「ちょっとお兄ちゃん? 失礼な態度はやめてよ。こちら、奈都さん。わたしの友達。それでこっちがわたしの兄の純誠です」
「どうも、おじゃましています」
奈都は一応年長者らしく余裕ぶって挨拶をした。理世の兄ということだが、きっと奈都よりは年下だろう。見た感じ、二十代後半といったところか。理世と同じさらりとした黒髪に、少し冷たそうにみえる切れ長の目をしているが、その奥の瞳はあたたかみのある茶色で、不思議と親しみのようなものを覚えた。
「お兄ちゃん、聞いてる?」
理世に叱られてようやく我に返ったのか、彼はローテーブルに乗った資料の束を慌てて鞄へと突っ込み、脇へと置いた。その頃にはもういくぶん落ち着きを取り戻したらしく、よそ行きの顔でこちらへと軽く頭を下げた。
「はじめまして。妹がお世話になってます」
だいぶ年の離れた友人だなと怪しく思っていそうだが、礼儀としてか、それを表情に出したりはしなかった。ただ困惑を浮かべた目で妹をちらっと見やっただけで。
「なあに?」
「いや……別に」
「ふうん? それが人の友達を不躾に見ていた人の言い訳ですか? へぇぇ?」
う、と純誠がうめいた。
「てっきり、亮太かと思ったし、それに……」
彼は言葉を濁したが、聞かなくても続きがわかる。「こんな年の離れた、なに繋がりかも不明な友達を家にまで連れてくるとは思わなかった」だろう。
「亮太は練習が忙しいって」
知らない名前が飛び交っているが、会話の流れ的に、理世の彼氏かなにかだろう。兄公認の彼氏がいる理世はやはりハニートラップとは関係なかったのだ。奈都は少しでも疑ってしまったことを猛省した。彼女はシロ。間違いなく。
理世は立ちっぱなしだった奈都にソファを勧めつつ、兄に拗ねたように言った。
「わたしにだって大学以外にも友達がいるんですぅ。それより、もうあっち行ってよ」
しっしっと兄を追い払う仕草に純誠は眉をひそめつつ立ち上がったが、自分の部屋に戻りはせず、その足でまっすぐキッチンへと向かった。戻ってきたときその手にあったトレーには、三人分のコーヒーとクッキーが。
さりげない気遣い。それにこの見た目。これは女性が放っておかないだろう。
「……え。お兄ちゃん、どうかしたの? なんか変なものでも食べた?」
「なんでだよ」
妹のぽかんとした様子にちょっと笑い、まず奈都の前へとコーヒーのカップを置いた。気取らない微笑みで、どうぞと言う。奈都が純粋無垢な乙女ならば、即落ちていただろう。お肌の曲がり角を超えてときめきさえも失ってしまった奈都でさえ、少し戸惑ったのだから。
「あ、ありがとうございます……」
「いえ。砂糖とミルクは?」
奈都が首をふると、彼は妹の方に猫柄のマグを置いた。中身はカフェオレだった。しかし理世には、妹思いの優しい兄に違和感しかないらしい。
「えー、絶対変。亮太のときは水も出してくれないのに」
「なんで妹の彼氏なんかにコーヒーを出さないといけないんだ」
なんか、というところに、かわいい妹を奪われた兄のわずかな嫉妬と切なさを感じる。
コーヒーを口にしながら、やはり例の亮太氏は理世の彼氏なのかと、改めて情報を更新した。
初対面なので少し居心地は悪いが、兄妹のやり取りは聞いていて楽しい。
奈都はひとりっ子だった。けれども実家に出入りするお兄さんたちに不思議とかわいがられていたので、寂しいと思ったことは一度もない。そもそも自営業だったので、両親も祖父もいつも家にいて、親しい友達こそいなかったが、寂しいと思う暇もなかった。
過去を懐かしんでいた奈都の斜め前、理世の隣に純誠が当然のように腰を下ろすのが見えた。それをまた、彼女が咎める。
「これから女子会なんですけど?」
「女子会、ね。ここは俺の家でもあるんですが?」
「いつも大学の友達が来てるときとか、さっさと部屋に引きこもるのに、なんか怪し…………あ。ああ!」
ひらめき顔で、理世が奈都を見た。次に純誠。そしてまた、奈都へと視線を戻し、紅潮した頰に両手をあてた。
「え、やだ、お兄ちゃん! そういうこと?」
(……いやいや)
「奈都さん! うちの兄、今フリーですよ。お買い得品のお値打ち品です。どうですか?」
ロマンス小説好きの彼女らしい、かわいらしい誤解。嬉々として兄を勧める妹を、純誠がじろりとにらんだ。
「おまえの方が失礼じゃないか。彼女に恋人がいるかどうかも確認せず」
いえ、見ての通り彼氏なんていませんが、と言いかけて、重大な過失をおかしかけていることに気づいて慌てて口を閉じた。
優一と付き合っているという設定を、すっかり失念していた。
そうだった。今は彼氏がいるのだった。ふりではあるが。
しかし、だ。奈都を友達と呼んで慕ってくれている理世を騙すのは気が引ける。
彼女は優一の事情とはなにも関わりのない子だ。それに女の子。本当に奈都と友達になってくれた奇特な子。
昨日の晩、近況を報告がてら相談した優一も、両親が女性を送り込んで来るとは思えないのですが……、と困惑していた。彼らは古い人間で、同性同士の恋愛を受け入れる柔軟さはないのでは、と。
だったら、本当のことを話してもいいのではないか。
しかし……。
「奈都さん、彼氏いたんですか? ……それは残念。ちなみに、どんな人ですか? 今度ダブルデートしましょうよ! ね?」
(ダブルデートは困る!)
「いや、えぇと……今はちょっと、ね」
「もしかして……ケンカ中とか?」
(それだ!)
奈都は光明を見出した。
今はケンカ中で、ギクシャクした結果、三ヶ月後に別れたことにしよう。これなら偽の恋人を紹介することもなく、優一との約束を守り通せる。
「そう、ケンカ中で。もうだめかもしれないかな……と」
「え?」
純誠が驚いたように顔を上げた。これにまた理世が食いついた。チェシャ猫のような、とってもいいことを思いついたとばかりの満面の笑みを浮かべ、純誠の腕を取って身を乗り出した。
「だったら! やっぱり気分転換にダブルデートしませんか? うちの兄を貸し出しますから!」
やはり自宅に招かれるべきではなかったのではないかと後悔したが、もはや後の祭りだった。
兄、純誠(28) 妹、理世(20) 仲は良好