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奈都の祖父は無冠ながら、指導者としてはそこそこ名の知れたボクサーだった。
幼い頃から遊び場は祖父の経営するボクシングジムで、若い男たちが汗水流しながら自分の体を極限まで鍛えて上げているすみっこで、パイプ椅子に座って本を読むのが子供の頃の奈都の日常だった。
奈都は初孫だが女の子だったので後継者として育てられる予定はまるでなく、それでも子供の手習程度のボクシングと護身術を中心に、祖父から人並み以上の指導を受けて育った。
自分の身は自分で守らなくてはならない。それが匂坂家の家訓だ。か弱そうな見た目で産まれたせいで孫が不幸な事件に巻き込まれないように、祖父は持てる知識すべてを使い、偏った英才教育を施した。
奈都は世間とかなりずれた幼少期をすごしていることなど知る由もなく、顔を出せば生徒さんたちにちやほやされるのでいつも祖父のところ入り浸り、見よう見まねでサンドバッグを叩いては褒められる日々。
不思議なもので、手ばかり使っていると次は足も使いたくなる。奈都はボクサーの卵ではないので制限はなく、自由にのびのびと足技を極めていった。
それを普通のことだと思っていた奈都は、祖父に遊んでもらえることが嬉しくて、言われるがままに自分の専用のサンドバッグをズタボロになるまで殴り、蹴り続けた。
そんなアクティブな幼児期をすごしていた奈都に本の楽しさを教えてくれたのは、意外にも生徒さんたちだった。
ロッカールームで十代の少年たち数人が雑誌を読んでいたときだ。見せてとせがむと、なぜか困った顔をしてそれらは奈都の目から隠されてしまったのでその日は不貞腐れたが、次の日代わりにと、少しくたびれた絵本を持ってきてくれた。
それから奈都は祖父との稽古がないときは本を読むようになった。本は楽しい。いろんな世界へと連れて行ってくれる。
ちなみにきっかけとなったロッカールームの雑誌類は、祖父がまとめてゴミの日に出してしまった。少年たちの嘆きようは見ていてつらいものがあったので、奈都が両親から買ってもらった新品の絵本を読んで慰めてあげたりもした。
そんな風に年上のお兄さんたちに囲まれ、奈都はのびのびと育っていった。
祖父は度々、市内の学校からの要請で、教師の手にあまる不良少年を受け入れていた。体のいい更生施設だ。あの祖父が手を焼く少年たちだったが、根はいい子が多かったのだろう、年下の奈都にはみな優しかった。
だけど彼らが更生することを面白く思わない不良たちもいるわけで。
奈都は彼らにかわいがられていたこともあり、度々人質として攫われた。
ボクサーが一般人に手を出したらだめなことくらい子供でも知っていたし、自分を助けるために大人に黙って助けに来てくれるだろうこともよくわかっていた。
なので、奈都は自力で窮地を切り抜ける術を身につけた。
彼らに果たし状が渡る頃には、けろっとした顔でジムへと戻っているということもしょっちゅうだった。
だったら捕まるなという話ではあるが、多勢に無勢、一般的な子供サイズの奈都が、大人数のバイクを乗り回す少年らに真正面から挑んで敵うはずがない。
油断している隙に逃げる。それが安全かつ確実な方法だった。
逃げられないときは、不良少年たちとおしゃべりをした。無害な見た目のせいか不思議と人から話しかけられやすい体質だったこともあり、彼らはすんなりと奈都に口を開いた。
話してみるとわかる。みんな悪ぶっているだけで、抑圧できないなにかを抱えているだけで、本当の悪人などどこにもいない。
お菓子(万引きしたもの)をくれたり、ゲーム(花札や、賭け麻雀)をして遊んでくれたり、綺麗な刺繍の服(特攻服)を羽織らせてくれたり、花火(爆竹)を見せてくれたりと、人質の間、怖い思いなど一度もしたことがなかった。
しかしそんな環境を普通と思ってすごしていたせいか、学校ではかなり浮いていて、ただでさえ実家がボクシングジムということもあり、ちょくちょく不良たちのバイクに囲まれ攫われているのを目撃されていたこともあり、あの子とは絶対に仲よくしたらだめと、親にいい含められている子が殊更多かった。
いじめられもしないが、同年代の友達もいない。
それが子供の頃の奈都だった。
なので従弟という後継者もいることだしと、高校卒業と同時に思い切って実家を出ることに決めたのだ。
祖父や生徒さんたちにはかなり惜しまれたし、ちょっと泣かれたが、心機一転、新しい場所で一からなにかを成し遂げたかった。
しかし結果は、散々。
友人に嫌われていることを知ったわけだが、奈都は悲しいかな、陰湿な他人の悪意というものにあまり慣れていなかった。
これまで悪口など言われたことがなかったのが原因だろう。みんな奈都のバックボーンを知っていたからだが、人に嫌われるほどに親しくなったことがなかったせいもあったのだろう。
だからあのとき……恋人と友人の会話を聞いてしまったとき、頭が真っ白になった奈都は、その場ではなにも言い返せずに逃げ出した。
我に返ったのは帰宅してからで、まず最初にしたことは、恋人に別れを告げることだった。
すぐに納得して別れてくれると思っていた奈都は、実際には、部屋に押しかけて来た彼に殴られる羽目になったわけだが。
避けなかったのは、あまりのことに驚きが勝ったからだ。
理由を説明したのに、謝罪もなく、弁明もない。それなのに理不尽に殴られた。理解できなかった。
きっと奈都のおっとりとした気弱そうな見た目のせいで、どんな悪意に晒されても泣き寝入りすると思われていたのだろう。暴力でねじ伏せ支配できると、当然のようにそう思われていた。
そういう見た目な自覚はあったが、生憎、中身がそうでないことは誰よりもよく知っている。
二発目を受けてあげるほど、奈都は愚鈍でもなければ優しくもなかった。
さほど速くもなく重くもない素人のバカみたいに隙だらけの右ストレートとも呼べないようなそれをあっさりいなして、がら空きだった脇をすり抜け、背後からその無防備な尻を渾身の力で蹴りつけた。
一応肋骨や内蔵をやるとまずいと一瞬のうちに判断して胴体は避けてあげたのだが、一般人に手……いや、足を上げたことのなかった奈都は、これまで手加減というものをしたことがなかった。
なっちゃんに蹴られたら死ぬな、と生徒さんたちが苦笑していたのも、たんなる冗談のひとつだと本気で信じていた。
なのに、だ。
自分よりも二十センチは背が高い、そこそこ体格のいい男が軽々吹っ飛んで、白い壁を頭から突き破ってぴくりとも動かなくなったのを見たとき、はじめて、全身から血の気が引いた。
うっかり殺してしまったと本気で焦った。
奈都程度の蹴りなど、祖父や生徒さんたちなら楽々受け止めてくれるのに、いくら隙を狙われたからといって、これは一体どういうことなのかと狼狽した。
気が動転しながらも救急車を呼び、救出された男が脳震盪で気絶しているだけと知って、どれだけ安堵したことか。
壁が薄かったこともあり、脳に異常はなく全治二週間で済んだことは幸いだった。
警察沙汰にはならずに内々で済んだのは、支配できると見下していた女に軽々ねじ伏せられて、その傲慢だった心がばきっと折れたからなのかもしれない。
別れに諾々と応じてくれたが、奈都を見る目が化け物を見るそれだったのはさすがに堪えた。
さすがにそんな男と一緒の会社で働き続ける気にはならず、奈都は破壊した壁の修理費はきちんと払い、アパートを引き払って会社を逃げるようにして辞めた。
だけど帰るに帰れず、そうでなくとも実家にいたらますます人並み外れてしまうことに恐れおののき、つかず離れずの距離でフリーターとなった。
あの日から奈都は、どんなことがあろうとも、決して他人に手も足も出さないよう自分に誓っていた。
だが結局、また手も足も出してしまったわけだが……。
奈都をかわいがってくれていた元生徒さんたちの中には、地元で消防士や警察官になった人もいる。大勢いる。
ゆえに、ここで警察に通報されると、彼ら経由で実家に話が行ってしまう。そうでなくとも田舎の情報網は侮れない。それはだめだ。今もいい選手をぽつぽつ排出している実家にだけは迷惑をかけるわけにはいかない。
というのは建前で、笑いのネタを提供したくないだけだった。
こんなチンピラどもが警察に助けを求めるとも思えないが、念のため全員のスマホは回収しておかないと。
奈都はかえるのように地面に倒れた男たちの真ん中で、ふぅ、と肩で息をつく。
さすがに歳か、多数を相手にするのは骨が折れた。
なるべく筋肉がつかないよう生活していたせいかもしれないが、うっかり殺してしまわないようになるべく急所を外していたからだろう。
安全になったとわかるやいやな、現金な優一が降りてきて、子供たちに結束バンドを手渡して縛るよう指示した。
自分でやらないところがいかにも優一らしい。
理世はなんの疑いも持たず、むしろ率先して気を失っている男たちを縛り上げた。さっきまでの腹に据えかねていたものをぶつけるように。
奈都は純誠の方へと目を向けれずにいると、彼が後ろでぽつりと言った。
「ごめん……なんか、俺、情けなかったですよね……。守るとか言っておいて……」
奈都は驚いてふり向いた。自尊心がぽっきりとへし折れた純誠が、深くうなだれていた。
「そんなこと……」
「いや……慰められると、もっと傷つく……。傷つく資格なんて、ないけども」
奈都が黙ると、彼も黙った。
なにをどこまで知っていて、知らないのだろう。
わからないまま、奈都は口を開けずに視線を落とした。
縛られ集められた男たちの前に優一が立ったので、地面から目を引きはがしてそちらへと視線を移した。
優一は一切の慈悲なく言った。
「よし……燃やそう」
それは、本気か冗談か、いまいちわからない発言だった。
「賛成です! こんな社会の害悪、燃やすべき!」
「いや、りーちゃん……? さすがに燃やすのはまずいんじゃ……」
「亮太は捕まってないから、そんななまっちょろいことが言えるんだよ! わたしなんて、スタンガンで気絶させられたんだからね!?」
ご立腹の理世をなだめる亮太を遠巻きに、意外と常識的な考えを持つ充希が青い顔で引いている。
「え、なに、本気なの? やだ、怖い怖い……! みんな怖すぎて、僕、ついてけないんだけど!」
彼の言うみんなの中に、奈都も入っているのだろうか。
(入ってるんだろうな……)
むしろその筆頭なのかもしれない。
助けてばあちゃん……、と涙目になる充希を慰めてから、奈都は優一の隣に立って男たちを見下ろした。
さて。
「どこが穏便に別れさせる、ですかね?」
「それに関しては本当に申し訳ありません。だけどやはり、なっちゃんさんに頼んだことに、間違いはなかったようですね」
それを織りこみ済みで頼んできたくせによく言う。
万一のことを想定しての奈都だったのだ。
しつこい勧誘ににっこりとしてビニール傘をへし折る姿など、見せるのでなかった。
「まあ、相手次第では負けてますけどね」
「ご謙遜を。見事なハイキックでした」
奈都は最強なわけではない。相手が油断してくれていたから勝てただけで、正々堂々と戦ったら負けていたかもしれない。
みのりんの件と大切な人たちを傷つけようとしたことに対する報復の意味もこもっていたので、負けなかったとは思うが。
優一が男たちの写真をスマホで撮影し、誰かへと送りつけた。
もしかしたら特定の人物宛てではなく、全世界に向けてかもしれないが。
そこでふと、大事なことを伝え忘れていたことに気づいてひとりの男を指を差し告げ口した。
「この茶髪の人、みのりんを踏みました」
優一はすっと表情を消した。そして、酷薄に微笑む。
「社会的に抹殺しよう」
「同感です」
ふふふ、と。どちらが悪役かわからない微笑みをそろって浮かべる。
事後処理は優一に任せておけばいい。
奈都は迷ってから、気持ちを奮い立たせて純誠へ話しかけた。
「後で少し、話せますか?」
彼は顔をこわばらせたが、わかった、と真摯にうなずいた。
補足
奈都の悪口を言っていた友人はDV男に好意があったので、悪口を吹き込んで別れさせようと画策したという裏事情
なお奈都は知らない




