秋・婚約者・田舎の領地にて
日射しの温もりを感じた。
足元の草花も、色付き始めた木々も、ここから見渡せる領地の、遠くに広がるプルヴェツ麦の畑も、等しく照らす、輝き。
「ミリィ、どうした。時間がないだろ」
名前を呼ばれて、そちらへと意識を向ける。
灌木の植え込みに挟まれた小道、その先に、男の子が一人、立っている。
「ええ、ヴィー。分かってる。でも——」
この道は、緩やかな斜面の、庭園のように整備された中を通って、丘の上まで続いている。
「——時間は、あるよ?」
そう返事をして、もたもたとする私に、しびれを切らしたのだろう。その子は、すらっとした立ち姿の、ぴんと伸ばした背筋を前に倒し——刹那、一足飛びに駆け抜けて、私の目の前に、その黒く美しい髪に陽光を浴びながら、少しだけ怒ったような顔で、私のことを見下ろすように、立っているのだ。
「ヴィー。大きくなったね」
ほんの数年前、まだ私たちが子供だった頃は、私も、その子も、同じくらいの体格だった。
今では頭一つ分、私よりも上背のある彼は、怒らせた眉の持ってゆく先がなくなったようで、少しだけ困った顔になり。
「ミリィ……何言ってるんだ?」
それが精一杯。
「そのままの意味だよ。ねえ、覚えてる? 昔さー、おじい様がまだ生きていらっしゃった頃だけど——」
「ミリィ」
決然とした調子で、だけど、ちょっぴり情けない顔をして、彼は言った。
「忘れるんだ。昔の話だろ。子供なんだから、転んで泣くことくらいあるだろ」
丁度、この丘に遊びに来た時のことだった。
あれは『泣く』と言うよりも……『大泣き』だったなー。
「えー? 何も言ってないよー?」
彼は私から目をそらし。今駆けてきた所を歩いて戻り。立ち止まって。振り向いて。
「とにかく……遅れるな。お前が散歩したいって言ったんだろ。それでわざわざ抜けてきたんだから」
そう言って、私をじっと見た。
「うん」
お屋敷の周りの果樹園。ずっと下の方に立ち並ぶ民家。黄色や緑色の畑、働く人たち————
「ミリィ」
「あっ、ごめんごめん」
美しい田舎。小さな領地。
ここは、私の父、シュティーダン伯爵の、お屋敷の裏の丘の上。
「もう置いていくぞ」
言いつつ、それでも待ってくれる、私の幼なじみ。今では私の婚約者。
「ごめんね。待って待って」
背中を向けた彼に、今度こそ、付いていく。
濃紺のスーツが、目の前で揺れる。きらきら、きらきら、輝くそれが、私には、とても、まぶしく見えた。
*
普通、こういう丘の上には、それこそ領主のお屋敷だとか、教会だとかを建てるものだ。
「おい、ミリィ。丸見えだって。もう子供じゃないんだから」
「イイエ、私ハミリィデハアリマセン。小鳥ノオ宿、ミリィノ木デス」
「何言ってるんだ……」
それが、何を思ったか、私のご先祖様は、丘の一番高い所には手を入れず、そのすぐ手前に館を構えた。
「散歩するとか言って、今度はかくれんぼなんか始めるし。何がしたいんだ……」
最初はただの雑木林だったのだろう。だけどそれから何年もかけて、ここは私たちのお庭になった。
「あーあ。もう俺たちがいないってバレてるぞ。ザハルは怒られてるぞ。俺たちも父上から怒られるぞ…………捕まえた」
ヴィーの右手が、私の左の手を取った。
「捕まっちゃった。ザハルは大丈夫かな」
「さあな」
ザハルは庭師の息子で、こちらもヴィーと同じく、私の幼なじみだ。
今、お屋敷では、私たちの家の、親戚の集まりが開かれている。
彼の協力がないと、私たち二人だけでは、お屋敷からこっそりと抜け出すのは難しかった。
「さあ、帰ろう。まだバレてないかも知れないし」
そう言って、私の手を引く、硬くて、少しだけひんやりとした感触。
「やだ」
「ミリィ」
眉をひそめる、黒い瞳。
「だってまだ一番上まで登ってないもん。ねえ、ヴィー。また三人で怒られよう? きっとその方が楽しいよ」
「いや楽しくはないだろ」
とは言うものの、彼は諦めてくれたみたいだ。
帰り道とは反対側に、私の手を引いた。
「もう寄り道はしないぞ。このまま頂上まで行くからな」
意志の強そうな、黒い瞳。
「うん」
だけど、ね。
「でも寄り道はするから。最初は、あっちの『おじいさんの木』ね。次は、その向こうの石段ね」
「ミリィ……」
時間は、ある。だけど、時間は、ない。
風が、少しだけ強く吹いた。
*
うちの隣に領地を持つ、メシュロフ伯爵家。ヴィーのお父様は伯爵様だ。
私のシュティーダン伯爵家と、ヴィーのメシュロフ伯爵家は、同じくらいのお家柄。遠い昔の戦争で、肩を並べて戦ったとか、なんとか。
その時から今に至るまで、両家はずっと仲がいい。
私の父とヴィーのお父様も、やっぱりどうしてか仲がいい。
私とヴィーも、同い年で、多分、仲がいい。
「やっと着いた……振り回された……」
私は長女で、彼は次男だった。シュティーダン伯爵家は私の弟が、メシュロフ伯爵家は彼の兄が、それぞれ継ぐことになっている。
「振り回してごめんね。でも、綺麗でしょう?」
丘の頂上には、一本の大きな木が生えていて、その枝を広く伸ばしている。
二人並んで、太い幹の前に立つ。手はつないだまま。
大きな枝の大きな影が、ゆらゆらと、揺れる。落ち葉が風に舞う。
「ああ……ここからの景色は久し振りだけど、いつ見ても綺麗だな……」
平坦な土地の中で、ここだけが高くなっている。庭園の植物から、町の中から畑から、その向こうを流れる川、ずっと遠くの山の峰まで、すべてが見渡せる。
「それで……これを見せたかったのか……?」
本当にくたびれた、といった調子で、彼は続ける。
「確かに綺麗だけど……こんなのいつでも見られるだろ。何がしたかったんだ?」
「うん」
私はここからの眺めが好きだ。私自身は、住んでいる家のすぐ裏だから、見に来ようと思えば、いつでも見に来られる。
「ねえ、ヴィー」
日射しが弱まって、空気が少し冷たくなった。
私は前を向いたまま、隣に立つ彼はどんな表情をしているのだろう、と想像した。
「……あと何回来れる?」
子供の頃は、メシュロフ伯爵に連れられて、彼は何度もうちに遊びに来た。
だけど大きくなるに連れて、彼も私も忙しくなり、会える機会は減っていった。
「王都行きの話か」
「うん」
彼は王都で就職して、官僚として働くことになっている。コネで入ったようなものだけど。
本当は陸軍を志望していたけれど、色々あって、そっちは駄目になった。
仕事が落ち着いたら、結婚して、私も王都に住むことになっている。
「別に、ここからなら、大して遠いわけでもないだろ。いつでも来れる」
ぶっきらぼうに、だけど優しさのにじみ出る声。
だけど。だけどね。
「ねえ、ヴィー。カチェードニク様のお手伝いなら、王都に行かなくてもさ、おうちでできるじゃない」
カチェードニク様は、彼のお兄様だ。
官僚として働き、経験を積んで、領地に戻ったら、家の手伝いをする。
「ミリィ、どうしたんだ。そういうわけには行かないって、分かってるだろ」
辺りが暗くなってきた。灰色の雲が広がる。
「分からない」
「ミリィ」
私は彼の顔を見た。怒ったような、あきれたような、そんな顔。困らせてる。それは分かってる。だけど。
「分からないよ」
「ミリィ。あのな——」
彼は何かを言おうとしたけれど、私にだって言いたいことはあるのだ。
「ねえ、『ここ』じゃ駄目なのかな。私、この場所が好き。お屋敷があって、お庭があって。家族がいてヴィーもいて。私、幸せだよ。今ここにいて、幸せだよ」
「ミリィ」
どこにも行きたくはないのだ。
「ミリィ。この間の夜会は、お前も楽しそうにしてたじゃないか。ここじゃなくて王都でも、楽しいこと、幸せなこと、一杯あるだろ」
王弟殿下のお誕生日会が王都で開かれて、それに貴族みんなが呼ばれたのだ。
「楽しくなかったよ。私、全然、楽しくなかった」
「バースニィク卿からも、親しく話し掛けられていたじゃないか」
有名な詩人のことだ。
「見てたの? 見てたなら助けてくれれば良かったのに。あの人わけ分かんない。こっちが一つ言えば、三つも四つも返してくるし。そのくせこっちの話は聞いてるのか聞いてないのか分からないし」
「いや、そう言われてもな。芸術家って、そういうものじゃないのか」
「知らないよ、そんなの。詩作の出しに使われた、って感じ。公爵様が助けに入ってくださらなかったら、多分、最後まであのままだったよ」
彼は押し黙ってしまった。少し待ってから、私は続けた。
「そっちこそ、夜会は楽しそうにしてたよね」
「どういう意味だ、それ」
「王都の美少女、ここにあり、って感じだった。笑顔もお化粧も完璧だったし、ドレスもかわいかったし、あの子を見てたら、私、自分が情けなくなっちゃった」
父親らしき人と一緒に、ヴィーとも話しているのを見た。
「ああー、あれか。俺の上司になる人の、そのまた上司の娘さんで——」
「ヴィー」
そんな話、聞きたくないよ。聞きたくない。
「全然頼りにならない。ヴィーは、ぜーんぜん、頼りにならない!」
怒りに任せて、言ってしまった。
さすがにむっとしたのか、彼は目をつり上げた。
「それなら、ミリア、そんなことを言うなら、あの公爵様も、確か結婚してなかったよな。俺との婚約は解消して、あっちに付いていったらいいんだ」
おかしなことを言い出した。
「はぁ? 何馬鹿なこと言ってるの? 私みたいな田舎娘なんて、相手にされるわけないじゃない」
全然、釣り合わない。年はそこまで離れていないと思うし、性格はよく知らないけれど、素敵な方だとは思うから、結婚する相手として絶対に嫌だ、ということではない。
だけどそもそも、そんな話ではない。
「どうだかな。向こうだって、お前のこと、ちょっといいなと思ったかも知れない。俺と結婚するより、ずっといいだろ」
怒っているのか、悲しんでいるのか、彼の表情からは読み取れない。
「本当に……何言ってるの。すねてるの? ねえ、ヴィー」
黒い瞳をのぞき込む。だけど彼はだんまりだ。
「……分かった。じゃあヴィーゴ。私たちの婚約は解消ね。今からお屋敷に戻って、お父様たちと話そう。それで私たちの関係はおしまい」
こんなことで駄目になるなんて。本当に。私のわがままのせいだろうか。それとも彼の器が小さいのだろうか。
「あなたは王都にでもどこにでも行って。私はここに残るから」
彼は何も言わない。
「……ねえ、なんとか言ってよ、ヴィー。私たち————」
その時。
曇り空を震わせる音がして。
大粒の雨が降り出した。
*
突然の土砂降りで、私たちは大木の下に閉じ込められた。
「まずいな」
「何が?」
閃光が見えて、ごろごろと鳴るのも聞こえた。
「雷だ」
「ヴィーのお父様の?」
彼は落ちてくる雨粒を見上げていた。
雷の音は、ずっと、鳴っている。
彼は、視線を戻すと、私の顔をまじまじと見た。
「ミリィ……何言ってるんだ?」
何言ってるんだろうね。自分でも分からないけど。
「雷のことでしょう?」
彼は眉をしかめた。
「そうだ。ここは一番高いから、例えばこの木なんか、特に雷が落ちやすいはずなんだ。もしそうなったら、雨宿りどころじゃないぞ」
少し焦ったように言った。うーん、だけどね。
「確かにそうだけど……ねえ、見て。この木もそうだけど、お庭もお屋敷も、なぜだか分からないけど、一度も雷が落ちたことがないんだよね」
おじい様から聞いた話。私が生まれてからも、ずっと。だから私は、あまり心配してはいなかった。
「それはたまたま運が良かったのかも知れないし、分からないだろ——」
一際強く光った。一拍置いて、全身を震わせるような音が鳴り響く。
「——ほら」
彼の言う通りかも知れない。分からないけど。
「でも、どうするの? こんなに降ってるんだから、ぬれちゃうよ」
私がそう言うと、彼は、つないでいた手を離し——ずっと、今の今までずっと、私たちは、手をつないでいたのだ——スーツのジャケットを脱いだ。
彼の長い腕と、濃紺のジャケットの黒い裏地が、私の肩と頭とに回された。
「ほら、これで一応、ぬれないだろ」
「何言ってるの? ヴィーはどうするの」
「いいから。雨が弱まったら、走るぞ」
そう言って、再び、手をつなぐ。この感触。私は忘れたくない。
「分かった。じゃあヴィー。『おじいさんの木』まで走ろう。他の木よりも背が低いし、雨宿りにも丁度いいよ」
「そうだな……よし……今だ、走るぞ!」
*
ついさっき通ったばかりだったから、迷うことはなかった。その木。
『おじいさんの木』は、幹が、まるで腰の曲がったおじいさんのように曲がっている、不思議な木だ。
枝が横に大きく広がって、その高さは、子供が下に入るには十分だけど、大きくなった私たちには、少しだけ低い。
「ほら、髪を拭くから。風邪引いちゃうよ」
「ミリィ、大丈夫だから。自分でできるって」
「いいから。やっぱりびしょぬれだ」
それでも、根元に腰を下ろせば、私たちは少し落ち着いた。
下草の間に、古代の石材が埋まっている。その表面には、模様が彫り込まれている。
蛇、犬、猫、鳥。不思議な図柄。馬や人間の姿もある。
「ねえ、ヴィー」
「なんだ」
雷はまだ鳴っている。遠く。近く。
「手、つないで」
「分かった」
それと雨の音だけが聞こえる。二人だけの世界。掌の感触。
「ねえ、ヴィー」
「なんだ」
私は前を向いたまま、言う。
「さっきはごめんね。『頼りにならない』って。そんなことないよね。ヴィーは、私を大事にしてくれるよね」
「いや……」
彼の気配が揺れて、黒い瞳が、私の顔をのぞき込んだ。
「俺の方こそ、ごめん。頼りないやつで」
「うん……」
「婚約は……解消、しないよな? 俺と……結婚、してくれるよな?」
「もちろんだよ」
もちろん、そのつもりだ。
少し、明るくなってきた。雷の音が遠ざかる。雨も上がっていきそうだ。
「そっ、そうか。それなら良かった。あー。あー、良かった」
そう言って、彼は、気の抜けたような笑顔になった。
「本気にしたの? あきれた。今更なしになんてできないよ」
「いや本気にするだろ。あれは絶対本気だっただろ。あー良かった。あー、雨も上がったな」
「あっ、そう……うーん、まだじゃない?」
「いや行ける。行こう」
彼は、膝を曲げて、腰を浮かすと、私の手を引いた。私も同じようにして、二人で立ち上がっ————
「いてっ」「あわわわ」
枝や葉っぱにぶつかった。二人とも中腰になる。
「おじいさんみたい」
「そうだな」
木の下から外に出る。雨は、やっぱりまだ降っている。
「ほら、言ったでしょう。もう少しここに——」
「ミリィ」
急に抱き寄せられた。
「えっ、ちょっ、どうしたの」
「一緒に、王都で暮らすよな。結婚してからの話だけど。お前だけこっちに残ったりしないよな」
そんなこと。
私は、一度、目を閉じて。小さな領地の、大好きな故郷の、光に満ちたその様子を思い浮かべて。
「うん。しないよ。一緒に暮らそう。私、付いていくから。ヴィーに、付いていくから」
それで私は、幸せだから。
「ミリア」
彼が私の名前を呼んだ。
吸い込まれそうな、黒い瞳。
彼の顔が近付いてくる。
「ヴィーゴ」
包み込む、彼の温もりが、降り掛かる雨の冷たさも忘れ————
「ミリア様ー! ヴィーゴ様ー! どこだー!」
はっとなって、私たちは体を離した。
声のした方を見下ろすと、緑色の向こうに、人の姿が、ちらちらと見えた。
「おーい、ここだー! バレたかー! 怒られたかー!」
私は思わず吹き出してしまった。
ザハルと、もう一人、ザハルの奥さんになる人もいる。私たちを捜しに来てくれたのだ。
「バレたー! かんかんだー! 覚悟しておけー!」
まだ雷は去っていなかったみたい。
「じゃあ、ヴィー。行こっか」
「ああ」
歩き出そうとして、ふと、彼が立ち止まった。
「ヴィー?」
彼は、ちらっと、ザハルたちのいる方を確認した。今は緑の中に紛れてしまっている。
「どうしたの————」
一瞬。
触れた。
彼はすぐに顔を離して、そっぽを向いてしまった。
ヴィー。
日射しが戻ってきた。その温もりも。
だけど、私の中に生まれた、この温かさは、きっとそれだけではなくて。
つないだ手を引っ張れば、彼は驚いてこっちを向いた。
私はなんだかうれしくなって。
雨上がりの輝きの中を。
力を込めて。
元気一杯に。
踏み締めて。
駆け出した。
いつも思うのですが、異世界とはなんだったのか。
そして、読後感ぶち壊しで申し訳ありませんが、面白いと思われた方は『★』を、何か一言でも残したいと思われた方は、お手数ですが、感想を頂けますと、筆者がとても助かるのだ。