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境界線の上で

 曇天の朝。拠点の空気は、前日よりもさらに静かだった。


 シノの犯行が明るみに出て、物資盗難の騒動は一応の決着を見た。

 だが、そこで終わりではない。俺の手元には、まだ“整理すべき問題”が残っていた。


 執務室。

 俺の前に立っているのは、ミナ。そして、その隣に立つのは生活班のリーダー格──アンナだった。


 アンナは中年の落ち着いた女性で、避難民のなかでも特に信頼が厚い人物だ。

 今日は、ミナの申し出に同行し、「責任は私も共有します」と申し出てきた。


 ミナは強張った表情のまま、視線を床に落としていた。


「……遼さん、今回の件、本当に……申し訳ありませんでした」


 震える声で、ミナは切り出した。


「自分では、あの時のことをちゃんと見たと思っていて……それが誤解だったなんて……私……」


 言葉を詰まらせたミナの肩に、アンナがそっと手を置く。


「ミナはあの日、すぐに報告するべきか悩んでいました。私にも相談してくれていれば、止められたかもしれない。責任は、彼女だけじゃないわ」


「……俺が責めるために呼んだわけじゃない」


 俺は書類の束を閉じて、ゆっくりと顔を上げた。


「確かに、誤認だった。だが、お前の行動の動機が“拠点の秩序を守るため”であることは否定しない」


 ミナの目に、ほんの少しだけ光が戻ったように見えた。


「ただし──これからは“確証のない話”を、断定的に伝えるな。報告と告発は、似て非なるものだ」


「……はいっ……!」


 ミナは深く頭を下げた。アンナがその肩を支えながら、俺に微笑みかける。


「ありがとうございます。ミナも、これからもっと“見極める目”を育てていくわ」


「……ああ、期待してる」


 


 俺は少し間を置き、メモをめくって確認を取る。


「それと、ミナ──お前が“タルクが袋を持っていた”と言ったあの日……あれは事実だ」


 ミナの表情が一瞬こわばる。


「だが、中身は盗品じゃなかった。作業後、他の者が落とした配給袋を拾って、倉庫に戻しに行っていた。……お前が見たのは、その途中だった」


「……っ……!」


 ミナの目が潤む。唇を噛み、悔しさと安堵が入り混じったような息を吐いた。


「人は、“見たもの”を真実だと思い込む。でも、それが誰かを傷つけるなら──次は、それを防げる人になれ」


「……はい。今度こそ……ちゃんと、支えられる人になります……!」


 アンナは黙って彼女の背を軽く叩いた。



(秩序のために動いた者を、切り捨てるわけにはいかない)


(けれど、それが誰かの信頼を削ることもある)


 俺は椅子に深く背を預け、ゆっくりと息を吐いた。



 昼過ぎ、俺は倉庫裏の整備区画に向かっていた。


 そこには、タルクがいた。

 俺と顔を合わせると、彼は軽く顎をしゃくって作業を続ける。


「様子はどうだ?」


「特に変わりはねぇよ。皆、黙って働いてる。ただ……少し、よそよそしくなった気はするな」


「……ああ、俺もそう感じてる」


 タルクは一度手を止め、俺の方に向き直る。

 だが、以前よりも、その距離の取り方は明らかだった。


「別に、あんたを責めてるわけじゃない。あの時点じゃ、俺が怪しく見えたのも仕方ねぇさ」


「そうか」


 俺はそれ以上、余計な言葉を足さなかった。

 もう“あの時の件”は済んでいる。ただ、傷跡が残っているだけだ。


「……で、今日はなんだ?」


「意見を聞きたくてな。現場に近いお前の目線で、今の拠点がどう見えるか」


 その問いに、タルクは少し目を細めた。


「珍しいな。あんたが人に“意見”なんて求めるなんて」


「今は、それが必要だと思った」


 タルクはしばらく黙っていたが、やがて木材の端を指でなぞりながら言った。


「秩序はある。仕事も割り振られてる。でも、“誰かが見てるから動いてる”奴も多い。つまり……『信用じゃなくて監視』で動いてる」


「……なるほどな」


「最初はそれでもいいんだ。けど、それを続けるなら、どこかで“逃げ出す”か、“反発する”奴が出る」


 静かな語調だったが、その言葉には確かな重みがあった。


「俺が言えるのはそれくらいだ」


「十分だ。感謝する」


 タルクは「別に」と短く返し、再び作業に戻っていった。


 

(……信用と秩序。俺は後者を優先してきたが、それだけじゃ足りない)


(こいつの言う通り、信頼“されてるように見える”だけじゃ、いつか瓦解する)


 

 俺は無言でその場を後にした。

 だが、その言葉はしっかりと胸に刻まれていた。


 夕刻前、俺は執務室で、数名の班長たちと向き合っていた。


 集まっているのは、生活班のアンナ、警備班のガイル、衛生管理を担うマリア、そして──犯行が明らかになった生活班所属の青年、シノ。


 シノは椅子にうつむき、何度も「すみません」とだけ繰り返している。


「……さて、問題はここからだ」


 俺の言葉に、室内の空気がわずかに張り詰める。


「シノは盗みを働いた。それは事実だ。だが、その理由は“病気の母親のため”。……配給を受け取っていたにも関わらず、追加の物資を独断で持ち出した」


「ルールを破った以上、罰は免れません」


 静かにそう口を開いたのはアンナだった。

 その表情に感情はないが、責任者としての筋を通していた。


「……だが、子を守ろうとしただけの母親や、親を思った子供にも、同じ罰を与えるのか?」


 マリアが低く問いかける。

 机上の正しさだけでは語れない現実に、彼女は誰よりも敏感だ。


「懲罰として労働時間の延長、物資の支給制限なども考えられるが……」


 俺は言いかけて、ふと、ガイルの視線とぶつかる。


「お前は、どう思う?」


 そう尋ねると、彼は肩をすくめながら答えた。


「罰するだけじゃ、また同じことが起きるだろうな。誰もが黙って、見えないところでやるようになるだけだ」


「……つまり?」


「“盗まなくても大丈夫”って、拠点全体に思わせねぇと意味がねぇってことさ」


 その一言に、場が静まる。


 


 俺は立ち上がり、窓の外を見た。


 空は夕焼けに染まり、今日もまた日が暮れようとしていた。


「決めた。シノには、“労働延長処分”を科す。だが同時に、“拠点の医療と補助制度”を見直す」


 全員が顔を上げた。


「必要な治療、食事、支援が行き渡るように。申請制でもいい。“勝手に取る”しか選べない現状があるなら、まずそこを潰す」


「……あんた、結構甘いな」


 ガイルが笑いながら呟いた。


「甘くない。“制度で守る”ことが、秩序を守ることに繋がると判断しただけだ」


 そう言うと、うつむいていたシノが、小さな声で呟いた。


「……本当に、ありがとうございます……。俺、絶対に……償います」


「そうしろ。そして次は、黙って苦しんでる奴がいたら、“手を貸す側”になれ」


 シノが強く頷いたその瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。



(正しさだけでは、人は動かない)


(だが、間違いを許すだけでも、秩序は保てない)


(その狭間で――どう道を引くか。それが、俺の役割だ)



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