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白昼の夢で


 四月も中盤になると、校庭の桜ももうじきに見納めになる。

 春の日差しは青空のもとで燦々と青葉を照らしながら、やがては熱を帯びていく。


 そんな春の景色を見ていたはずなのに、いつしか私の意識は真っ白に濁る。



 泡の中に身体が浮くような不思議な感覚を味わいながら、そっと目を開ける。



 蜃気楼のような霧が揺蕩う視界には、不鮮明な誰かの影がぽつりと立っていた。

 俯いたその人の小さな手には、ちぎられた本のページが握られている。

 くしゃくしゃになるほど握りしめる手は、まだ幼い子供のようだ。




「     」





 か細い声は何かを言い残して、白い霧の向こうに消えようとしている。



 その頼りない姿をただ見ていることしかできなかった。彼方に消えていく小さな背中は、当てもなく道を彷徨うようにその影を揺らしている。





 あの子は、誰なんだろう。


 誰がこんな景色を見させているの……。



 私はその答えを知ることはないまま、ゆらゆらと揺れる蜃気楼に吸い込まれるように意識を濁していった……。








「ミィア~」


 私の顔を覗き込む白猫ちゃんが、どうやら起こしてくれたようだ。

 図書室の一角にある窓辺に近い長椅子に、意識がぼんやりするうちに横になっていたらしい。窓から直接差し込む春の陽光が眩しい。ここまでの記憶が、あまりないのだけれど……。



「あ……本を読んでたら、眠っちゃってたんだ」


 傍らには、開きっぱなしの児童書が落ちている。暇潰しにと手に取ってみたけど、思っていた以上に苦手な活字が多すぎて、いつしか記憶が飛んでしまったようだ。

 それに……眠っていた私の身体には、見覚えのない毛布がかけられている。


 そして、ちょうど視界の端に知っている人の姿を見つける。



「あれ……先輩?」


「赤子のように大口開けて寝ていたよ」


 本を探している様子の彼は、口を開くとそんな意地の悪いことばかり言う。

 その横顔は私のことなんかこれっぽちも見てくれはしないけど、私は寝起きの意識をはっきりさせながら彼に問いかける。


「あの、もしかしてこの毛布……」


「その猫が勝手にやったことだよ」


 本当なのかな? そう言ってはぐらかしているようにも見える。

 膝の上でおとなしくしている白猫とじゃれ合いながら、意識を手放す前の記憶を掘り起こそうとする。さっきまで誰かの夢を見ていたような気がするけど……もう思い出せなくなっていた。



「毎日ここに来てもやることがなくて……慣れないことをしてみたんですけど、やっぱり読書は向いてないんですかね」


「別に毎日ここへ来る必要はないと思うけど」


 代り映えしない図書室ライフに何か刺激がほしいと手を伸ばしてみたけど、いい睡眠剤になるだけだった。

 確かに彼が言う通り毎日ここに来る必要もないんだけど、私がここへ来る大事な用事を忘れているような……? 何かあった気がするんだけどなあ……。


「……あ、そうですよ。もともとここに来たのは、あなたに勉強を教えてもらうって約束だったんですよ」


「今思い出したの、それ」


 呆れたように言われたが、バカだから仕方ない。バカは記憶力が乏しいからバカなんだ。


「というわけで、教えてください」


「嫌だ」


 勉強を見てもらえるように頼み込んだが、桐嶋高雅はまともに取り合ってくれない。こんなに頼み込んでいるというのに、猫ちゃんも私の膝の上で応援してくれているというのに、表情ひとつ変えず本棚を漁る。


「そんな約束はしてない」


「ぐぬぬ……じゃあ、どうしたら取り合ってもらえますか?」


 淡い期待を胸にそう問いかけたのだけど、彼から返ってくる言葉は私の期待を打ち砕いて壮絶なものだった。


「お願いしたら言うことを聞いてもらえると思っていることが、君の甘えじゃない。別に僕は君の先輩でもないし、お世話をする気もないよ」


 予期せぬ辛辣な言葉をかけられる。確かに甘えてしまう部分があるかもしれないけど、じゃあこの中途半端なあなたの優しさはなんなんですか。ちょっと自惚れてしまうじゃないですか。



「お、お言葉ですが先輩こそ人のことを「君」とか「バカ」とか、私のことを名前で呼んでくれないじゃないですか」


「……それ、僕に何のメリットがあるの?」


 そんな素っ頓狂な質問を返される。

 あなたへのメリット……? そんなの決まっているじゃないですか。メリットと言われたら、特にそんなものはない。


「メリットは……私への好感度がもれなく上がります」


「君に付き合うほど僕もお人好しじゃないよ」


 少しふざけすぎてしまった。桐嶋高雅がさっさと踵を返していこうとする。なんとかここで踏みとどまらせないと、これまでの地道な努力も水の泡だ。


「ああ、もしかして先輩はあれですか。女の子に免疫がなくて、いきなり名前を呼ぶなんてハードルが高くてちょっと無理だなあとか、そういうことなんですか」


「はあ?」


 口から出まかせに言ってみたが、なんだこの煽り文句は。なんでこうなってしまったのよ。もう少し相手を考えればよかったよ。相手の視線が想像するに恐ろしすぎて口角が吊り上がってしまうよ。


「……だいたい、君の名前なんか知らない」


 でも、桐嶋高雅の意識は確実にこちらに向けられている。

 ひるんでいちゃダメよ、桃香。ここが正念場なんだから、根性見せるしかない。


「藤澤桃香です。高雅さん」


「……」


 逃げ場は塞いだところだろう。名前を覚えてもらえないなんて初歩的なことを怠っていたら、この先も桐嶋高雅を攻略するなんて絶望的だ。


 固唾を飲んで、私は彼の反応を待ち構える。

 桐嶋高雅は、視線を落として立ち止まったままそこから微動だにしない。彼にかけてもらった毛布をきゅっと汗ばむ手で握りながら、その人がどう出るのかを固唾を飲んで見守る。


 そして彼はその手でぐいっと私の制服の胸倉を掴むと、自分のもとに引き寄せる。その形のいい口元を、私の耳の近くまで当てる。

 一瞬のことで胸倉を掴まれたことにも反応できなかったが、その時の桐嶋高雅の微笑が妙に艶やかだったことは印象に残っている。



「……この間のお菓子、悪くなかったよ。また今度作って来るのなら、考えてあげてもいいけどね。ねぇ、桃香」




 至近距離で囁かれる声と吐息が、鼓膜を溶かすほど甘く聞こえる。

 鼻腔をくすぐる彼の香りは、よく彼が飲んでいる茶葉の香りに似ている。


 いつも無愛想な顔で、本ばかり読んでいる人が醸し出せる艶やかな雰囲気とは思えなくて、不覚にも動揺が顔に出てしまった。のぼせた私を、彼はその口説き文句を言い終わるとすぐに手を放して長椅子に放り込んだ。

 そのまま本を数冊手にして消えていく背中を、呆然と見送ることしかできなかった。耳の奥までくすぐったくて、速まる鼓動を抑えずにはいられなかった。

 心配そうに私のもとへすり寄って来た白猫に気づくのもそっちのけで、落ち着かない自分の気持ちとしばらく格闘することになった。



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