後編
身分を捨て、愛する男と知らない町へ旅立つ。
近頃は、そういう筋書きが貴族の娘たちの間で流行っているらしい。物語はそこで頁を閉じる。翌朝の食卓を誰が整え、夫が留守のあいだ何をして暮らすのかまでは書かれていない。
二人が店を訪れたのは、よく晴れた日の午後だった。
若く可憐な令嬢は、ユリウスより半歩だけ先を進んだ。扉を押したのも、占いを申し込んだのも、相談票を書いたのも彼女だった。
ユリウスはその後ろを、柔らかな笑みを崩さずについてきた。
「相性を見ていただきたいんです」
ミラに向かって切り出したのも、ユリウスではなく、その隣に座る令嬢だった。
淡い色の外套に、丁寧に整えられた髪。華美ではないが、身につけたものの一つ一つが、長く大切に扱われてきた品に見える。
「恋愛の相性でよろしいですね」
ミラが尋ねると、令嬢は少し照れたようにうなずいた。
今、卓の上に置かれているのは灰色の紙ではない。恋愛と相性。生成り色の相談票にはそう記されている。
令嬢の名は、アレクシア・リント。
代々この辺りの土地を受け継いできた、リント男爵家の末娘だ。
王都ではさほど高い爵位ではない。だが、この町では家名そのものが信用になる。新たに店を構える商人にとっては、立派な看板より、男爵家が一度うなずくことの方がよほど効くだろう。
「なぜ占いたいのか、伺っても?」
「はい。私の父が、そろそろ正式に話を進めてはどうかと。母も、結婚後のことを考え始めた方がいいと言うものですから」
アレクシアが答えてから、隣のユリウスに微笑みかけた。
「では、恋が縁談に変わるところなのね」
ミラはカードの束を手に取り、軽く切った。そこから三枚を抜いて卓の上に並べる。令嬢の前に一枚、男の前に一枚、二人の間に一枚。表を伏せて置いた。
「まず、お互いが何を求めているかを見ましょう。自分の前にあるものを、一枚ずつ開いて」
先に手を伸ばしたのはアレクシアだった。
おずおずとカードに触れて裏返すと、窓の絵が現れた。
「窓。外の世界、新しい暮らし、今いる場所からの解放」
アレクシアの顔に驚きが広がる。
続いてユリウスがカードの縁に指をかけ、ためらいなく裏返した。
鍵のカード。
「あなたは、入る場所を探している」
ユリウスの片眉がわずかに上がる。
二人の間に伏せられた一枚へ、ミラは指を伸ばした。
「では、二人を結ぶものを」
現れたのは、鏡のカード。
「似た者同士ね。どちらも相手ではなく、その向こう側を見ている」
ミラは水晶の表面に映る令嬢を見た。
「あなたは、どのような暮らしがしたいのかしら」
アレクシアの視線がカードから離れた。彼女はゆっくりと息を吸い、口を開いた。
「身分に縛られず、好きな方と自由に暮らしたいんです」
よくできた台詞だった。流行りの恋物語なら、そのまま章の終わりに置けそうなほどに。
「では、その次の頁を見てみましょうか」
ミラは令嬢に微笑みかける。
「この人と結婚すれば、あなたは家を出る。実家の領地ではなく、商会の都合で住む場所が決まる。その地で、平民の生活を一から覚えることになる」
「でも、平民といっても、商家なら……そこまでではありませんよね」
「商家には、あなたの家——貴族家に代々仕えるような使用人はいない」
アレクシアは小さくまばたきをした。意味がまだ追いついていない顔だった。
「それは……嫁ぐのですから、当然だと思います」
「ええ。当然のことなの」
淡々としたミラの返しに、令嬢の瞳が揺れた。不安げな視線が隣へ向かう。
「ユリウスのお屋敷にも使用人は大勢いるのでしょう?」
「ええ、もちろんです。ですが……」
そこでユリウスは口を閉じ、ミラを見た。
面倒なところだけ、占い師の口から言わせるつもりらしい。もっとも、そのための銀貨は受け取っている。
「商家の使用人はいる。でも、あなたが朝に何を飲むか知っている者はいない。母君が不機嫌な日にどの廊下を避けるべきか知る者も、幼い頃に苦手だった花を覚えている者もいない。あなたを知る者のいない家で、平民の奥方を始めることになる」
アレクシアはすぐには答えなかった。
当然のことを言ったまでだ。けれどその当然が、いま初めて、自分の暮らす部屋の形をして立ち上がったらしい。
沈黙を貫いていたユリウスが、そこで割って入った。
「つまり、相性は悪いと?」
「悪いわね。結ばれた時に、互いが相手に見ていたものを失うから」
ミラは中央のカードをふたたび伏せ、アレクシアを見やる。
次の瞬間、令嬢の引き結ばれていた唇がゆるみ、ふっとほどけた。
「……そうですか」
その声は、思っていたよりも静かだった。
令嬢は泣かなかった。
怒りもしなかった。
ただ、助かったような顔をした。
「ありがとうございました。よく、分かりました」
アレクシアが立ち上がり、乱れのないお辞儀をして、衝立の向こうへ出ていった。
ユリウスは、ほんの一拍遅れて、帽子を手に取る。
「失礼します」
その笑みは、店に入ってきた時より少しだけ薄かった。
*
それから十日ほどが過ぎた頃、ユリウスが再び占いの館に姿を現した。
アシスタントの案内を待たず、衝立の内側へ入ってくる。そして水晶の隣に革袋を置いた。
「残りの代金です」
ミラはアシスタントに目配せした。
アシスタントは革袋を手に取り、奥へ下がる。中身を確かめに行くのだと、ユリウスにも分かったはずだった。
「望みどおりになりました」
「そう。では、なぜそんな顔をしているの」
「彼女があんなに簡単に受け入れるとは思いませんでした」
ユリウスは少し不貞腐れたように言い捨てる。
「簡単に受け入れたんじゃないわ。ようやく手放せたの」
相性が悪いと告げたとき、令嬢は動揺を見せなかった。ただ、長く抱えていた荷物を下ろしたように、ほんの少し息を吐いた。
彼女もまた、恋物語めいた夢を終わらせる口実を探していたのかもしれない。
「あなたが欲しかったのは、男爵家へ通じる道であって、男爵家の一員になることではなかったんでしょう」
「ずいぶん簡単に言ってくれますね」
「簡単にしたのはあなたよ。縁談になる前に、星のせいにして切ったんだから」
「そのフード、似合いませんよ」
ユリウスが唐突に話題を変えた。
ミラの指が、身にまとうローブの表面を確かめるように触れる。
「占い師らしくない?」
「占い師らしく見せようとしているところが、少し」
帽子のつばを撫でて、ユリウスが続けた。
「その座り方も、客の黙らせ方も、下町で覚えるものではないでしょう」
ミラはフードの下で紫の瞳を瞬かせた。それから、口角をわずかに上げて言った。
「商人は、人の値札を見るのが好きね」




