麻痺
「陛下にはしてやられたよ」
ローウェンが、庭師のアランにぼそりとこぼした。アランは持っていた箒を下ろすと、それを杖のように立てて、両手を上に乗せた。
城の裏手にある蓮の畑の前で、二人は話し込んでいる。
「よほど、ムイを取られたくないようですね」
「ああ、国中で人気の歌姫だ。歌が歌えないとはいえ、手離したくないのだろう」
「そりゃあ、ムイって女を知ってしまったら、もう……」
「お前もその一人だったな」
ローウェンが苦笑しながら、手元の書類をパンっと叩いた。アランも苦く笑う。
「結婚に関してはこうも準備は整えてあると言うのに。うまくいかないものだな」
「その使いの女は、リューン様に取り入ろうと?」
「もちろんだよ。色気をプンプンと振りまいている。女がリューン様に取り入って二人がくっつけば、ムイが邪魔者扱いされるだろう。そして、ムイが追い出されたところを陛下が引き取る、という寸法さ」
「そんなにうまくいかないよ」
「まあ、リューン様がムイを手離すはずがないからな。多分、見向きもしないだろう」
「だろうね」
二人は一通り話をすると、各々の仕事場へと戻っていった。
しかし。
二人はそう楽観していたが、実際はその通りにはいかなかった。
✳︎✳︎✳︎
(……ムイは出かけていったようだな)
押し花を持っていく時に必ず用意する大きなカバンを抱え、ムイの背中を見送った。バラ園を横切っていく後ろ姿。
ムイとまだ心を交えていない時、バラ園を突っ切った場所にある白いガゼボがお気に入りで、ムイはよくそこへと向かっていた。
部屋の窓からその後ろ姿を、リューンはよく追っていたものだった。
足取りも軽く、ふわふわと駆けていく。ムイを愛しているのだと自覚した日から、リューンはその姿をいつも探していた。
ムイが自分を思って、自らリンデンバウムの城を後にした時。
リューンは狂ったような、いや、心臓を半分もぎ取られでもしたような痛みに、耐えた。
大ぶりのカバンには、たくさんの押し花。花に囲まれながら笑うムイの笑顔は、リューンにとって太陽のように眩しいものでもあり、月のように美しいものでもあるのに。
(……男に、)
その後ろ姿を見ながら、リューンは唇を噛む。
(他の男に取られるのを、このまま指を咥えて見ているしかないのか)
木こりの男は、屈強な身体を持っていた。ムイを愛して、守ることもできるだろう。
そして、あの目。ムイを見つめる熱い眼差し。
(ムイを愛しているのだ。あれはそういう目だ)
「花を、」
「何ですって?」
呟いて、顔を上げた。
隣に立っていたユウリが、問うた顔を寄越す。
「……いや、何でもない」
「リューン様、どうぞ、このユウリに何でも仰ってください」
ユウリが腕を伸ばしてきて、リューンの肩口にそっと手を添える。
「リューン様のお心をお話しください。わたくし、リューン様の為でしたら、何でもいたします」
今度はそっと頭を寄せる。
バラ園の中。むせるようなバラの香りがリューンの頭を麻痺させる。
「ユウリ、そう言って貰えて嬉しいよ。ありがとう」
リューンは、そのまま空を仰いだ。
(花を、贈ればいいのか。そうしたら、ムイの心は俺の元に戻るのか。ムイを他の男に取られでもしたら、今度こそ、俺は……)
空は青く、そしてどこまでも、空の彼方までも、雲を流していた。




