番外編 悪夢と安堵
書籍発売記念その二
「…………」
ラインハルトは自分の手をじっと見つめる。
何かを確かめるように握っては開いてを繰り返し、しばらくしてからぽつりと呟く。
「夢、か……」
(ラインハルト様、どうしたんだろう?)
ヘレーネは本を読むふりをしながらラインハルトをそっと伺う。
彼は朝から様子がおかしかった。顔色が悪く、口数も普段より少ないしぼんやりしているように見える。そして、ヘレーネと目を合わせようとしない。
(どうしよう……私、何かやっちゃったかな?)
心当たりは無いが、知らぬ間に何かやらかしてしまった可能性は充分ある。
早く謝った方がいいだろうかとも考えたが、何をやらかしたのかわからないうちから謝っても意味がない。
とにかく話を聞かなくてはと声をかけてみる。
「あ、あの、ラインハルト様」
「……ん、どうしたヘレーネ」
ようやくこちらを向いた彼の目には鋭さがなく、怒っているわけではないのだなと少しだけ安心した。
「その、お元気がなさそうですから、どうしたのかなって思って……」
「ああ、いや……別に大したことはない」
だがヘレーネの言葉に少し言い淀むと、ラインハルトはまた目を反らしてしまう。
そんな彼の反応に、やはり自分の考えは正しかったのだとヘレーネは確信する。
(や、やっぱり、私なにかしちゃったんだ! 謝らなきゃ!)
もはや理由を探る余裕など無い。ヘレーネは立ち上がり、頭を下げた。
「ごめんなさい、ラインハルト様! 私、何しちゃったんでしょう!?」
「え? ヘレーネ? どうした?」
突然謝罪するヘレーネをラインハルトは戸惑いの反応を見せる。
「だ、だって、今日ラインハルト、ずっと私を見ないようにしていたから、何か不快なことをしてしまったんだと思って」
「いや、それは……」
ヘレーネの言葉に心当たりがあるのだろう、気まずそうな顔をするラインハルトに彼女はまたしてもショックを受けた。
「ごめんなさい……」
「待て、違う、違うんだヘレーネ」
ラインハルトは慌てて弁明する。
「君は何も悪くない……ただ、その、夢見が悪くて」
「夢?」
「ああ、本当に……悪い夢だったんだ」
その言葉に、ヘレーネがまず思ったのは彼の家族のことだ。
彼らがラインハルトにした仕打ちは彼の心の底にまで傷をつけている。彼らが関係しているのであれば、それはもうヘレーネが触れていいものではない。
だから彼女は顔を強張らせて下手なことを言わぬよう、「そうだったんですか」とだけ返した。
(気を遣わせてしまったな……)
緊張気味な表情を浮かべながらそれ以上追求してこないヘレーネを見て、ラインハルトは自責の念を覚えた。
彼女に説明したことは本当だ。
だが、以前まで見ていたようなあの連中が出てくる夢ではない。しかしある意味、あいつらが出てくる夢よりも恐ろしい。
夢にはヘレーネが出てきた。
彼女は冷たい眼差しを自分に向けてこういうのだ。
『貴方をもう愛せない』
『他に好きな人が出来た』
『一緒にはいたくない』
『さようなら』
そして背中を向けて去っていく。
でもラインハルトは行って欲しくなくて、離れないで欲しくて、そばに居て欲しくて、だから彼女に手を伸ばして……そしてその首に手をかけたのだ。
当然、ヘレーネは暴れて何とか自分を振りほどこうとするが、力の差は歴然で、どうすることも出来ず、そのまま息絶えた。その瞬間感じたのは、愛する女を殺して真っ先に感じたことは、恐怖でも罪悪感でもない、悍ましい程の安堵感。
(…………俺は、頭がどうかしてる……)
朝、目を覚ませば己の所業に愕然とし、自己嫌悪に陥った。
ただの夢だと切り捨てたくとも、彼女の首を絞めた感触と、恐怖に歪んだ顔が忘れられず、まともにヘレーネを見ることが出来ないでいる。
どうして、あんな夢を見てしまったのか。原因はなんとなく気づいていた。
(俺は、不安なんだ……)
何かが起きたから不安なのではない。何も起きていないから不安なのだ。
ヘレーネと過ごす日々は、それまで感じたことのない幸せをラインハルトに与えてくれる。
けれど、ラインハルトはそれがずっと続くと思えるほど純粋ではなかったし、何があっても守り抜くと誓えるほど楽天的でもなかった。
どんなものにも終わりはある。
それはヘレーネの気持ちが変わることで訪れるかもしれないし、それ以外の理由かもしれない。
勿論、そうならないようにラインハルトだって努力する。だが、頑張っただけでどうにかなるほど世界は易くない。
どんなに死力を尽くし抗っても、その時が来ればどうしようもないほど簡単に二人は離れ離れになるだろう。
それなら、せめて……
(あれは……間違いなく俺の願望だ)
ラインハルトはちらりとヘレーネに目を向ける。
彼女の首が目に入った。白くて細くて力を入れれば簡単に折れてしまいそうな首。それこそ、夢と同じように。
結局、その日一日、二人の間には微妙な空気が流れたままだった。
ヘレーネとしては、そんなもの早くどうにかしたかったが、だからといって無遠慮に踏み込むほどの厚かましさは彼女にはない。
明日には状況が好転していることを願いつつ、ラインハルトにおやすみの挨拶に向かうと彼は机に突っ伏して眠っていた。
「ラインハルト様?」
声を掛けるも、彼が起きる気配はない。
(どうしよう……このまま寝たら体を悪くしてしまうかも……)
せめて寝台で寝てもらおうと肩を揺する。
「ラインハルト様、起きて下さい。ラインハルト様」
しかし、ラインハルトは起きない。
「こんなところで寝たら風邪を引いてしまいますよ、ラインハルト様」
強めに揺すると、ようやくラインハルトの目蓋が開いた。
「ラインハルト様? 疲れているなら寝台で休んだほうがいいですよ?」
ヘレーネは身をかがめて目を合わせながら告げる。
だが、ラインハルトは何も答えず、じっと彼女を見つめた。正確には、彼女の首を。
「ラインハルト様?」
「なあ」
どうしたんですか、と問いかける前にラインハルトの手が伸びて彼女の首に触れる。意識がまだ完全に覚醒していないのか、その眼差しはどこか虚ろであった。
「ヘレーネ、俺のこと好きか? 愛しているか?」
「ラインハルト、様?」
その指に力がこもり、ヘレーネは僅かな息苦しさを覚える。
「それとももう好きじゃなくなったか? 愛していないのか?」
「……好きです、愛しています」
困惑を覚えながらもラインハルトの問いかけに答えると、首から指先が離れていく。
それでもラインハルトの様子は変わらず、精気が欠けている。
「……すまない」
「いいえ、私は大丈夫です」
「すまない、本当に……俺は、本当にどうしようもない……」
手で顔を覆っている為、どんな表情を浮かべているのかヘレーネにはわからなかったが、打ちのめされているような雰囲気は感じ取った。
「……なあ、もし俺が、あの時した約束を破ったら、どうする?」
「あの時……?」
「もう二度と酷いことはしないと誓った、あの約束だ」
それは確かに二人が想いを告げ合ったあの時、ラインハルトが言った言葉である。
けれど、どうして今その約束が出てくるのかヘレーネにはわからない。
「あの、それはどういうことでしょう?」
「……俺が君に酷いことをしたらどうするんだ?」
「酷いことと、言われても……」
「君を……手にかけたりだ」
その言葉には流石のヘレーネも返事をすぐには出来なかった。それでも慎重に言葉を選んで口に出す。
「……それは、私のことが嫌いになったから?」
「いいや、愛しているからだ」
淀みなく答えるラインハルトだが、その言葉は常軌を逸していた。確かめるようにヘレーネは「愛しているから、ですか?」と問いかける。
「ああ、そうだ。ヘレーネ、君を愛している。そして君と一緒にいられて本当に幸せだ。間違いなく今までの人生で一番幸せな日々だと断言できる。だが……だからこそ怖い」
ラインハルトはゆっくりと自分の気持を吐露していく。
「夢を見たんだ。君が俺から離れようとして、俺はそれを止める為に君を殺す夢だ。今朝だけじゃない、さっきだって同じ夢を見た。しかも俺は、君を殺したというのに俺は……そのことに安心してしまったんだ」
「……」
「……死んだらどこにも行かないだろう。俺は、君と離れ離れになるのが怖いんだ」
ヘレーネはラインハルトと離れるつもりはない。勿論、ラインハルトが側にいて欲しくないというのなら話は別だが、彼が望んでいるのなら決して、それこそ地獄の底まで一緒にいるつもりだ。しかし、そう言ったところで確実にずっと一緒にいられる保証はない。
もしかしたら、何かやむにやまれぬ事情のせいで一緒にいられなくなるかもしれないし、あるいは全く予期せぬ出来事により離れてしまうかもしれない。
ラインハルトはきっとそのことにも気づいているはずだ。ありふれた慰めでは、彼の心に届かないだろう。
「ねえ、ラインハルト様。私を殺した後も傍においてくれる?」
「ああ、勿論だ。絶対に離さない。誰にも渡さない」
「そう」
ラインハルトの言葉を聞いて、心は決まった。
「ラインハルト様がそうしたいなら、いいよ」
ヘレーネがそう告げると、ラインハルトは息を呑んだ。
けど、それに気づかぬふりをしてヘレーネは一歩、彼に近づく。
ラインハルトは酷いことをしないと約束した。けれど、ヘレーネだって一生傍にいると約束した。
例えラインハルトが約束を破ったとしても、ヘレーネは約束を守りたい。
それに、こうも思うのだ。
「死んでも一緒にいられるなんて、素敵」
その言葉を聞いた瞬間、ラインハルトは弾かれたようにヘレーネの体を抱きしめた。
痛いほどの抱擁をヘレーネは身じろぎもせず受け止める。
「ヘレーネ、ヘレーネ……お願いだから、俺から離れないでくれ。君がいなくなったら、俺は本当に何をするかわからない」
「はい、ラインハルト様。ヘレーネはどこにも行きません」
か細い声に庇護欲が湧き、ヘレーネはなだめるように彼の体をさする。
先程のやり取りを正常か異常かの二つに分類するとすれば、間違いなく後者であると彼女にも判断が出来た。けれど、それが何だというのだろう。ラインハルトを拒絶するぐらいなら、そんな道理や常識など捨ててしまった方がましだ。
やがて落ち着きを取り戻したのか、ラインハルトは力を抜いてヘレーネから離れる。そうして出来た距離を少しだけ寂しく思いながら彼女は告げる。
「ねえ、ラインハルト様。もし、離れ離れになったとしても私はきっとラインハルト様を探すと思います。多分、何年かかっても、ずっと……だから、その……待っててくれますか?」
生きて離れ離れになるぐらいなら、死んででも一緒にいたい。けれど、死ぬ暇もなく離れてしまうことだってありえる。そうなったら、自分は間違いなくラインハルトを探し続けるという確信がヘレーネにはあった。
出来ればラインハルトもそうであって欲しい。そんな期待を寄せながらヘレーネがラインハルトを見つめると、彼も真っ直ぐに見つめ返した。
「……いや、俺も、俺も君を探そう。どんなことをしてでも、きっと取り戻してみせる」
実に他愛のない約束である。
守られる保証などどこにもない。
けれど、ヘレーネの言葉は夢で感じたものとは比べ物にならないほどの安堵をラインハルトにもたらした。




