表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マンガニーズ  作者: クン・パジャマ
2章 アバラータ探訪編
34/48

ルハ・オーラ・パヌカの殿下

 それまでアハラ・アバラータ・アヤガラはアバラータ郡の郡令の地位にあったが、父親のイマラ・アバラータが四十九歳の若さで急逝したことを受けて、二十八歳のときにアバラータ家第九代目当主となり、アバラータ県域の四郡二十八村、及び、約四十組織のサングを束ねる県令、昔で言うところの大公となった。


 以来、五年間、新王朝の風当たりが厳しい中、アバラータ県を切り盛りしてきた。


 独特の雰囲気がある。三十前半にしてなお眼光には若さがほとばしっており、丈の短いチュニックに細身のズボン、細身のブーツの下から筋肉質な威風をかざしている。その一方で、人の奥底を覗きこむような鳶色の眼差しをしており、口許から常に笑みを絶やさないさまは、ある種、老練なおもむきも伺わせた。


 剣を手放さないでいるのは身を守るためというよりも、癖である。


 彼は十四歳から十七歳までの少年期を帝都ザルカダエルの聖旗軍士官学校で過ごした。しかし、アバラータ家嫡男のため将校にはならず、アバラータ県に戻ってきたわけだが、士官学校時代の名残りで、衛兵が厳重に警護している宮殿の中にあっても常に腰に剣を吊るしており、存命中だった父に帯剣しないよう叱りつけられてもやめなかった。


 アハラはザーベライである。


 しかし、サバーセやクシータのような生まれつきではなく、士官学校時代に猛特訓して自己解放に成功した例であり、時折垣間見せる冷静なる自信の気配は、少年期の経験によって培われたものであろう。


「クシータが大きくなったら手合わせしたいものだな」


 と、言う。


 クシータはチャンバリンとともにアハラの晩餐に付き添っている。


 一度、謁見の間を退いたあと、内城の奥にある宿泊施設にレナティリアやデナたちを置いて、再び宮殿の中へ、ヌラ・ジャバンの導きで大広間に招かれた。


 創立帝の銅像とアバラータ家歴代当主の肖像画が並ぶ広間は、燭台のろうそくの火が昼間のように明るく染め上げており、純白のテーブルクロスに並べられた食事にはファリャム豆などなかった。山鳥のソテー、塩蔵品の小魚、果実の甘露煮、それから色とりどりの生果物、生野菜。


「高名な剣士クシータ様があらせられるとなっては、こちらも見栄を張らないかんだろう」


 アハラはそう言って笑ってみせたが、ナウビム城では誕生日でもこんなに皿が並ばない。ましてやほとんどが初めて見るものである。かしこまって硬くなりながらフォークを運んでいるチャンバリンの見よう見まねで食事を進めるが、味の良し悪しどころか、あまりにも豪華すぎて味がわからない。


「いいんですよ、クシータ。私たちなど気にせずにゆっくりお食べなさい」


 テーブルの向かいから笑顔で声をかけてきたのはアハラの母、ワキアであった。


 クシータが「はい」と言って答えた横で、チャンバリンがあたふたとする。


「もっ、勿体なきお言葉っ。このクシータ・ダクシナも、殿下のお優しさに触れて恐縮至極の次第でございますっ」


 チャンバリンの過度なおもねりに、ワキアは鬱陶しげに笑顔を消して、食事を進める。


 殿下、と、呼ばれている。


 大半のアヤガラ一族の大公家にはそうした呼び方の習慣はない。ゆえに現当主のアハラ・アバラータは「アハラ様」であり、アハラの父は「イマラ様」だった。


 しかし、ワキアだけには皆、「殿下」としている。大公妃殿下ということなのだが、夫に先立たれたあとも「殿下」なのであった。


 彼女は二重顎を揺らす幅の肉厚な齢五十の中年女性で、金髪を三つ編みに束ねて後頭部に結い上げている。襟袖をフリルで飾った薄手の青白いドレスを纏っており、ざっくりと開いた赤みがかった胸元には青い宝石のペンダント。


 彼女の息子のアハラは、煉瓦色のチュニック、黒いズボンという地味な装いであるのに対して、「殿下」の装いは大貴族であった。


 生まれはアバラータ県の隣のナディバインカ県にある小さな村であり、出自はアヤガラ一族の枝の枝のそのまた枝の小公家である。


 今でこそ貫禄の肥満体系であるが、彼女はクシータににこやかに語りかける。


「クシータ、私も老いてすっかりこの有り様だけどね、クシータの母親のラベラと私はですね、二人が会話をすればナディバインカの鈴の音、などと、もてはやされたものなんですよ」


 若いころは誰もが目を奪われる美貌の持ち主であった。


 アバラータ大公家とナディバインカの些末な小公家など、格の違いが歴然としすぎて嫁に迎えられるのはなかなか無い話だが、ワキアは先代当主イマラに見染められたのである。


 嫁いできた当初は美しも甲斐甲斐しい気の優しい婦人であったが、イマラが病床に伏せると、政治の現場に夫の代わりに立った。長年の平和のツケで怠惰の一途にあった県令府、郡令府に自らが毎日庁舎に足を運んで目を光らせ、日がな一日遊んでいるような者は次々と追放していき、有能な者は上級責任者に引き上げていった。


 また、人々にワキアを「殿下」と呼ばせ、ひれ伏せさせる事件があった。


 食肉加工系のサングが役人とつるんで加工食品の原材料の偽装、さらには脱税をしていた。これは県令府の特定の職責に就いた役人が、代々、サングから莫大な賄賂を受け取ってきていた歴史があり、業界内では暗黙の慣習であった。


 脱税や偽装、それにおける贈収賄は、食肉加工系の話だけではなく、サングのお得意としているところであり、大公家をないがしろにして勝手放題している彼らを好ましく思っていなかったワキアは、大公名目でアディカセラを作成・執行し、悪徳役人、サングの委員長、加担していた加工従事者たち、さらには偽装していると知りながら加工サングに食肉を卸していた牛畜産サングの者たちまで逮捕、処刑していき、アバラータ県の食肉を支配していたサングを一夜のうちに破壊した。


 もしも、この食肉加工サングがワキアの動きを事前に知っていたら、同じような真似をしている他産業のサングと徒党を組んで、アバラータ県の経済を混乱させるかもしれなかった。あるいは剣士でも雇ってワキアを暗殺にかかる可能性すらあった。実際、そういう事件は過去にあったらしい。


 ワキアはそれをかいくぐり、電光石火に潰したのである。


 アバラータ県の市民たちはワキアの毅然とした行いに湧き上がり、サングは冷徹かつ豪胆なワキアに震え上がった。


 病弱な夫の代行としてアバラータ県に君臨してきたワキアは、自然と「殿下」と畏怖されるようになったのである。


 今でこそ息子のアハラが当主となって政治に口出しすることはなくなったが、依然として鳶目の眼光は鋭くて、誰かと会話をするときはいちいち威圧するようにして相手からじっと視線を外さない。


 だが、クシータに声をかけてくるときは、恐ろしいぐらい猫なで声である。


「ほんと、クシータはラベラの小さいころに瓜二つ。まるでラベラが帰ってきたかのようですわ」


 チャンバリンが、向けられるたびに縮こまってしまうその切れ長の瞼を、クシータに向けるときは急に目尻を緩め、にこにこと微笑むのである。


「ラベラは美しい娘でしたから嫁ぎ先は引く手あまたでしたが、ダクシナ家との縁を取り持ったのはこの私なんですよ」


 ラベラとはクシータの亡き母である。彼女とワキアは従姉妹の関係であり、かつ、それぞれ生まれた村が隣同士だったのもあって、小さい頃から顔を合わせていたらしい。


「ナディバインカの諸侯がこぞってラベラを娶ろうとしていましたけれど、私がダクシナ家を推薦したんですのよ。ダクシナ家はアバラータ家の弟のようなものですからね」


「もういいだろ、おふくろ。クシータが可哀想だ」


 べらべらと上機嫌きわまりないワキアをアハラが苦笑しながら制すると、ワキアは急に顔つきを変え、鋭い眼光で息子をじっと見据える。


「何が可哀想なの」


 と、声音も刺が入っている。


「可哀想だろうよ。死んだ母親の話をあんまりするもんじゃないだろ。こんな小さいクシータなんだから可哀想じゃないか」


「可哀想というのは可哀想だと思うから可哀想になるのです。そもそも、クシータにはラベラの精霊が常に寄り添っているはずよ。たとえ死んでしまったとはいえ、我が子を見守らない母親がどこにおりますか」


「はいはい。勝手にしてくれ」


「ねーえ、クシータ。大丈夫ですよ。何も寂しいことなんてないんですからね。あなたはちゃんと母上が見守っていてくれてますから。それでももし寂しかったら私をお訪ねなさい。手紙でもいいわ。遠いからね」


 このおばさんは自分にだけどうして優しくしてくれるのかと不思議で仕方なかったが、クシータはとりあえずワキアを見つめながら「はい」とうなずいた。ワキアはいっそう表情を笑顔に崩した。


 一方で、この晩餐にはもう二人のアバラータ家の親族がテーブルについていた。クシータの向かい、アハラの隣に座っている男子と、男子の隣に座っている婦人である。


 男子はアハラの嫡男のデサラ。クシータより一つ年上の十歳。


 婦人はアハラの妻のアンドヘラ。二十七歳。


 この二人はべらべらと喋っているワキアに対し、まだ一言も声を発していない。やはりアヤガラ一族の金髪鳶目のアンドヘアは、着飾っているワキアに反比例しているかのように地味であり、視線もろくに上げてこない。虚ろぎみな瞳でゆっくりとながら黙々と食事を進めているだけである。


 デサラは祖母のワキアが猫なで声でクシータに甘えるたび、クシータに尖った視線を据えてきた。むしろ、敵意さえ醸し出していた。クシータは睨まれるのが嫌だったし、年も近そうなので、太ったおばさんのワキアよりもデサラと話したいと思っていた。


「それはそうとヨリダーナ、お前、いつになる」


 食事もあらかた進み終えたころ、アハラがナプキンで口周りを拭いながら、急に言った。


「はい?」


 と、チャンバリンは首をかしげたまま目を動物みたいに丸めて固まる。


 アハラはナプキンの手を止め、眉間に皺を寄せた。


「カネだよカネ。すっとぼけるな」


「えっ、あっ、いやっ」


「およし」


 ワキアが息子に刺すような視線を与える。


「あなたは何をお考えなの。こんな楽しいお食事の最中に忌々しい話を持ち出して。クシータに恥を欠かせる気なの、あなたは」


「忌々しい話も何も、忌々しくさせているのはダクシナ家だろう」


「およしって言っているのがわからないのっ!」


 ワキアの金切り声が大広間に響き渡り、針が刺さったようにしんとした。


 アハラは横目に母親を睨みつけ、ワキアは正面から息子を睨みつける。


「あなたは本当にカネカネカネカネ。カネと一言言うたびに自分を乏しくさせているのをわかっていないのかしら。創立帝様にお詫び申し上げなさい!」


 ワキアは顔を真っ赤に染め上げながら創立帝の銅像を指差した。


 アハラは椅子に腰を沈めていきながら、テーブルにナプキンを置いた。鼻から息を吐き出すと、席を立ち、妻と息子の肩を叩いて促し、二人は腰を上げた。


 ワキアが睨みつけるのをよそにアハラは妻と子を広間から退出させ、一度、戻ってくると創立帝像の前に片膝をつき、目を閉じてしばらく頭を垂らしていた。


 チャンバリンが気が気じゃないという具合で、目玉をワキア、アハラと交互に動かし、クシータもクシータでびっくりして固まったまま、息子の様子を睨んでいるワキアの横顔を見つめた。


(レナティリア先生よりも怖い人だ……)


 やがて、アハラは腰を上げた。クシータの席に歩み寄ってくると、若干寂しげになった微笑をクシータに見せながら、クシータの小さな肩に手を置いた。


「見っともないところを見せてすまんかったな。風呂も沸かしてある。何か足りないところがあれば侍従どもに遠慮無く申せ」


「は、はいっ!」


 クシータは椅子から飛び降りると、直角になってアハラに頭を下げた。


「ありがとうございます!」


 アハラは広間を去っていった。


「ごめんなさいねえ、クシータ。驚かせてしまって。ほら、葡萄があるわよ。お食べなさい。あ、いいえ、私が皮を剥いてあげますからね」


 すべてを震えさせた金切り声が嘘のようにして目尻を緩めながらワキアは大きな粒の葡萄の皮を剥き始めた。出入口に控えていた侍従の男が歩み寄ってきて、代わりにやるとワキアに手を出したが、ワキアは自分でやると言って聞かなかった。


「きょ、恐縮でございますっ。殿下ご自身のお手で剥いていただけるなどっ」


「ヨリダーナ」


 と、おもねったチャンバリンに、ワキアは葡萄に爪を刺し込みながらの刺のある声だった。


「は、はいっ」


「約束は守るからこそ成立するのですよ」


「は、はい……。かしこまりました」


「はい、クシータ。剥けましたわ。こちらにおいで」


 クシータが言われた通りにテーブルをちょこちょこと回っていくと、口を広げろと言われ、口を広げたらワキアはそのまま葡萄の粒をクシータの口の中に運んだ。


「おいしいでしょ。ね。ふふ。可愛いわね、クシータは」


 肉厚の掌で頭を撫でられ、クシータはテーブルに並んでいるあれもこれもをレナティリアたちに分けてあげたいと思ったが、持っていきたいと言うとサイニカのようにワキアに何か言われそうなので、「おいしいです。ありがとうございます」とだけ言った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ