その瞬間、その心を輝かせて
人は二本足で立っている。
この果てしない無限の宇宙の、光と闇が永遠に溢れている宇宙の中のとてもとても小さなところで立っている。
大きく広がった明るい空の下の、歓喜の叫びと絶望の喚きと誕生の産声がとめどなく流れる大地の上に立っている。
緑と赤と青に彩られたざわめきの中で。
クシータ・ダクシナ・アヤガラは立っている。
たった二本の足で彼は立っている。
先生、と、呼ばれた男は、10メートルほど離れたテントの中から出てくるなり、水の入った革袋を口にあてがい大きくかたむけ、喉仏を激しく運動させながらむさぼった。
痩せぎすの長身であった。薄汚れた黒いコートの肩までかかる黒の長髪は、髪先までうねっている。肌は褐色で、細面の輪郭は頬骨が張り出していた。まるで化粧をしているかのように睫毛が長い。男は、やがて、革袋を離すと、唇をコートの袖で拭いながらクシータに目を向けてくる。
薬指に紋印があった。
山形三本線ではない。二つの線が螺旋して絡み合うリングであり、当然ながらクシータは初めて見る紋印である。
正真正銘の剣士である。
「たまにいるんだ。ザーベライの子供が」
笑みを浮かべつつ呟いた男は、ミータポシェット悪党に剣を差し出されると、鼻先に垂れ落ちる前髪を紋印の入った左手の指先でかきわけながら、右手を剣の柄にかけた。
クシータの額に汗の玉が浮かぶ。震えが止まらなかった。紋印を見てしまったというのもある。しかし、男の立ち居振る舞いにはある種の隙がなかった。レナティリアと同じ確固たる姿勢があった。
男が柄を引くと、森閑な静寂のうちに怪しい輝きを放つ刃が現れる。
それは形ある殺気であった。
「うわあっ!」
クシータは思わず吼えた。と、同時に男へと駆け込んだ。彼は殺気に飲み込まれるのを嫌ったのだった。九歳のクシータが被支配を打ち払うために出来たことはただただ純粋に立ち向かっていくだけだった。
痩せぎすの剣士は歯を剥いて大きく笑いながら、瞳孔を、活、と、広げた。
「正気かあっ、坊主っ!」
クシータは並みの者では到底届くはずもない距離から、跳ねて飛び込んでいった。
「師匠付きだなっ!」
男はクシータの次の展開を読んでいた。クシータは飛び込んでいったさい、男の間合いに入る直前に腰を捻り回して一回転し、回っている間に剣筋を変化させようとたくらんでいたのである。これはレナティリアがクシータに向けて使った手だった。ところが、男もコートの裾をはためかせて飛び込んできたのである。間合いを詰めに来たのである。
おそらく、レナティリアであればこれの対処があるはずだろう。だが、クシータにはなかった。不意を突かれ、クシータの胴は空中にあって無防備になってしまっており、まず無計画であった。腕の長さも当然、男に分があるわけだから、クシータはこのとき、まず死んだ。
しかし、男は無防備なクシータには目もくれず、そのまま間合いを詰めてきたのだった。クシータの間合いに入ってきたのだった。当然、クシータは剣を振り下ろす。
が、
キーンッ、と、剣が鳴った。かち合わせてきた男の剣により、クシータは振り下ろしていった力を跳ね返された。上体ごと飛ばされた。剣術の腕の差どころか、腕力の違いが歴然としていた。ザーベライのクシータなのだ、並みの人間を相手にすれば結果は逆だったであろう。しかし、男も間違いなくザーベライであり、ザーべライとザーベライであれば、等しくして、子供と大人であった。たとえ、ザーベライを越えた才能を秘めているとしても、クシータは、その才能を発揮するための体が出来上がっていなかった。
弾き飛ばされたクシータは猛烈な勢いで空中を泳がされていったが、反動を利用してくるくると空中で後方宙返りをして、軌道を自分のものへと修正し、体勢を直して、地面に両足で着地する。
「さすがだな。やるじゃんか」
男はすでに着地していた。クシータとの間隔は当初よりも広がっている。
まったくもって涼しい顔の男であった。クシータの力量を確かめるために、がら空きだった胴体を狙わず、わざと剣をかち合わせたのだ。
クシータは、フーッ、フーッ、と、緊張と興奮の息遣いであった。小さな動物が精一杯の抵抗をするときの、凶暴だけれどもいたいけすぎる瞳であった。
「惜しいなあ。殺すには。たまにはいるけれど、なかなかいないんだよ、坊主みたいな奴は」
男はカチャと鍔を鳴らしながら剣を持ち替え、下段に構える。
「まあ、師匠付きのようだから、死んでもらおうか。師匠付きじゃなかったらおれの弟子にしてやってもいいんだが。まあ、師匠を恨め」
男がべらべらと余裕綽々で喋っている間、クシータは左手を顔の前に立てていた。こめかみに汗のしずくをすべらせながら、すでに詠唱を始めていた。
「バンナマイムジャバドゥ メレサマーネファーリ ラーネアエロ」
クシータの指先に雷光がバチバチと灯り、男の顔から一挙に余裕は消え失せ、見開いた瞼の中は驚愕だった。
クシータの五本の指が男に向かって振り落とされる。
五本の稲妻が大気を切り裂いて男に襲い掛かっていくと、男は顔を引きつらせながらコートの裾をはためかせて高々と飛び跳ねた。
これをクシータは予見していた。
「ウッラ キ バリ!(上に曲がれ!)」
すると、五本の雷鞭はまるで生きているかのように――、クシータに従順な下僕のようにして、突如直角に折れ曲がり、めまぐるしい速さで上空へと飛雷していき、
バツンッ
と、五本のうちの一本が無防備だった男の全身に激突した。瞬間、弾けた雷光で辺りがまばゆく閃いた。
樹海の陰鬱さを一瞬で薙ぎ払った閃雷は、クシータが才能の片鱗を見せた輝きでもあった。現代のエンドラ人は古語を字面として捉えている。クシータだけは口語として捉えている。だが、クシータが優れていたのはそれじゃない。エンドラ古語を認識できているというのは単なる技術であって、クシータはその技術の使いどころを一瞬のうちに判断し、決断し、自らの思考のうちで応用を完結させたのであった。並べられている方式を利用して、誰にも教わったことのない新たな方程式を一瞬で編み出してしまったのだ。
また、この思考の閃きを決断し実行するためには経験則が絶対なのである。九歳のクシータには経験則など皆無である。だが、やってのけた。
ゆえに、神の子であった。
空中から落ちてきた男は、地面に片手と片膝をついて、顔を歪めながらクシータを睨みこんできていた。黒くくすんだ煙を両肩からくゆらせて、なめらかにうねっていた長髪は雷火に焦げて縮れてしまっている。
男の表情から余裕など消え失せた。稲妻を浴びてしまった苦悶と、優位性をくじかれた苦渋によって、剣士の誇りは歪みに歪んでいた。
大きな樹海の一部のわずかな場所には、支配感が漂っていた。悪党に連れて来られた子供たちは、ブロンド髪の小さな友人の、凶暴のうちに研ぎ澄まされた眼差しに、飲み込まれ、あるいは震え、もしくは身を奮わせる。
ミータポシェット悪党が唇を小刻みに震わせながら、呟く。
「ま、まさか、ほ、法士――」
肩で息をつく長髪の剣士は、クシータを睨み込むまま、ぬめりと起き上がった。
「やりやがって、このガキ……。ぶっ殺してやるっ!」
痩せぎすの剣士は再度、剣を下段に構えた。クシータは再び左手を立てる。
「バンナマイムジャバドゥ――」
「二度はあるかあっ!」
飛び込んできた剣士は、開いていたクシータとの距離を一瞬で詰めてきた。すでにクシータの眼前で目玉を剥き出しにしている。
(くそっ)
クシータは左手を下ろし、剣を右手にしたまま後方にブリッジ回転する。剣士の太刀が空を斬る。クシータは両足をつけて着地している。剣士は剣を持ち替えている。上段から袈裟に叩き込んでくる。クシータは背丈が男の半分ほどしかない。子供相手に剣を振るったことなどないのだろう、袈裟斬りはクシータの体を確認した分の一瞬だけ遅かった。猶予の与えられたクシータは、屈み込み、左へ、肩から地面に転がり回る。剣士の剣は空っぽの空間を斬り、切っ先は怒り任せに地面をえぐった。
剣士は瞼をはち切れんばかりに広げ上げ、青筋を浮かび上がらせながら吠えた。
「ちょろちょろちょろちょろとおっ! このクソガキイィッ!」
隙が出来ていた。クシータは焦っていたが、その一方では、冷静でいた。冷静な目がよく見て取っていた。剣士は構えるよりも先に怒りを爆発させたのだった。レナティリアを相手にしているときにはありえない空洞が、男の全身に出来上がっていた。
クシータは懐へ飛び込んだ。剣士はすぐにハッとして我に返っていた。しかし、クシータが詰め込んできたほうが早かった。
だが――、
クシータは次の一手、最後の決め手を選択できなかった。思考にそれがなかった。いや、あるにはある。けれども、クシータが持ち合わせているあらゆる選択肢において斬り伏せる自信が裏付けされていなかったのである。
そもそも、真剣で斬ったことがない。
クシータが上段から斜に叩き込んだ剣は、男の脇腹で止まっていた。刃はコートから腹部をえぐっており、赤黒い血が剣から鍔へと伝っていたが、そこから先、ザーベライの肉体を斬り込んでいける腕力にクシータの剣は足りていなかった。
瞬間、クシータは脳天から衝撃を食らった。柄頭を叩きこまれていた。さらに顔面を蹴り飛ばされた。吹っ飛んだ。一度も地面に落ちないまま、木の幹に叩きつけられた。崩れ落ち、ぐったりと頭を垂らした。
意識がもうろうとする中で、視線をなんとか持ち上げると、剣士は脇腹を押さえながら、両肩で息をついている。斬り込まれた脇腹のほうに体を傾けながら、クシータに歩み寄ってこようとする。
「クッソ……。ふざけやがって……」
ぐったりとしたままクシータは立てない。剣士が再び殺気をまとわせ始めているが、クシータは立てない。
――坊っちゃまは強く賢い大人にならなければいけません。無用な争いを避けるには、芯のある強さと、健全な賢さが必要なのです。弱く愚かな者ほど、無用な争いに巻き込まるのです――
(先生……)
クシータの瞼からポロポロと涙の玉がこぼれた。
傷めつけられた肉体は、クシータの心へ勝敗の諦めを願ってきていた。
ゆえに、その心は、肉体の求めに応じた。
生死の境界線を保っていた緊張は心から解放された。
クシータはただの九歳児に戻った。
(先生……、助けて……)
しかし、現実は現実である。
レナティリアはいない。
剣士は呼吸を整えながら歩み寄ってくる。
その瞳を戦闘の損害で濁らせながらも歩み寄ってくる。
剣士は出血する脇腹から手を離し、両の手で剣を握り締めた。
おそらく、クシータが絶望しているのを察している。
剣士は肩を大きく動かしながらも、ゆっくりと息を整えた。
やがて、勝利への執着心を眼光に点火させた。
彼は初めて冷静になったろう。
「よくやったな、坊主。褒めてやるぜ」
剣士は昔からの知り合いのように笑った。
同時にクシータに飛び込んできた。
――泣くなっ! 泣いて何になるっ!――
記憶の深淵から怒号が飛んだ。
クシータはすっくと立ち上がった。立ち上がって、無機質な瞳の色で世界を見つめた。
草木の生い茂るこの森は、幾重もの柔らかな木漏れ日の中にあって、人知れずひっそりと春に華やいでいる。
「ぐわああああああっっっっっ!」
小さい体を爆発させるかのように雄叫びを発したあと、鳶色に澄み渡った瞳孔で標的を定め、両手の剣を振り上げた。
咆哮する。
フルクルイ・ルックス
天高く青い空からまばゆいばかりの光の幕が降りた。
それらは一瞬のうちに一点に集合し、クシータが振り上げていた剣の切っ先へ閃光となって急降下する。同時にクシータは、地表を叩き割るようにして、空間を真っ直ぐに斬る。
そこに時間はあるようでなかった。
撃ち放たれた神技の波動は猛烈な輝きでもって大地を削りながら突き進んでいき、おそらく剣士は死の実感などなかった、肉体から意識から何からすべてを消し飛ばされた。
存在の影を抹消しても、なおのこと、樹海の木々から草から花々からを葬り去って突き進んでいき、もはや人の目では確認できないまでにこの樹海をえぐっていったあと、光の波は大きく飛沫を上げた。
空高くまで飛散した光の粒は粉雪のように樹海中に舞い降ってくる。わずかな時間ではあったが、森は夢うつつのような明るい靄に抱かれていた。