小さな英雄、見果てぬ
クシータが幾度も木剣に叩かれて、痛い思いをなんとかこらえている間(本当は痛くないのだが)、ノッカラがアヌパビーを七匹も釣っていた。
木製バケツを手にして、ノッカラは誇らしげである。クシータは飛び跳ねて喜ぶ。
「今日はお魚祭りだ!」
ラソイハラに調理させた。全部、焼いた。ダクシナ郡に連れてこられて三十年目の彼女も、魚など珍しくて、調理法は焼くぐらいしかなかった。
「こ、これは、一体」
豪華な(焼き魚と豆煮だけの)食卓を前にして、目を丸めたのは父バフータと侍従長チャンバリンである。ノッカラの口から、クシータが釣り竿で捕まえてきた旨を聞くと、二人はますます驚いた。
「なんと、このクシータが開発しおったと」
クシータは鼻先をそそらせて得意げである。
「素晴らしい。素晴らしいと言う他ありませんぞ、バフータ様」
「おお。左様である。まったく左様である。まさかこの甲斐性なしがかような発明をしようとは」
バフータは頭上を仰ぎつつ涙ぐんでいたが、甲斐性なしの余計な一言がクシータをむっとさせる。
「バフータ様、それでは早速、坊っちゃんが捕まえてくださったアヌパビーを」
「待て。待つのだ、チャンバリン」
と、バフータは腰を上げた。焼き魚の添えられた皿を手にし、くるりと背後を向いた。そこはただの暖炉である。バフータは暖炉の前に片膝をついてひざまずき、皿を高々と持ち上げる。
「我がダクシナ家のあまたのご先祖様、どうぞご覧くだされ。我が子クシータがあのアヌパビーを捕まえて参りました。これもひとえにご先祖様方々が見守ってくださったおかげ。創立帝様、ナウビム様、じい様、それとおとっつあん、どうぞ我らより先にこの味を確かめてくだされ」
そして、アヌパビーの尾ひれをつまむと、それをぽいっと暖炉の中に放り込んだ。間口でお預けを食らっているノッカラに命じ、マッチを持ってこさせる。マッチから紙くずに移した火で暖炉を燃やす。
「ああ。私もようやく先祖孝行ができた」
パチパチと燃え始める暖炉の中をしみじみと見つめるバフータ。
(釣ってきたのは僕なんだけどな……。父上は何もしてないんだけどな……)
クシータの疑問はともかく、広間はしばしの間、厳粛な空気に浸る。
「さて。我らも食すとするか。ノッカラ、ラソイハラ、今夜は無礼講だ。魚が冷めないうちに皆で食べよう」
バフータは自席に座った。座りつつ、斜向かいのチャンバリンの手元から、それとはなしに焼き魚の皿をすっと引き寄せた。
「お、恐れながら、バフータ様」
「なんだ」
と、ナプキンをダブレットの襟に押しこめながら、跳ねたヒゲ先の素知らぬ顔。
「バフータ様が持っていかれてしまったら、わたくしの分が」
「ご先祖様にくれてしまったんだからしようがあるまい」
実は、この夕食には客が二人いた。ロイとレナティリアである。レナティリアから話を聞いたロイが図々しくたずねてきたわけで、魚の味を忘れて二ヶ月近くになるレナティリアも、ロイを引き止めるふりをしてちゃっかり食卓に腰掛けたのだった。
「では、わたくしの魚は」
ちらっ、と、ノッカラを見やるチャンバリン。チャンバリンは先祖代々ダクシナ家に仕えている侍従長、対してノッカラは、奴隷として買われた召使いである。
クシータはあわてて叫んだ。
「ノッカラは駄目だよ! ノッカラがみんなの分を釣ってきたんだから!」
「そ、それならば――」
ちらっ、と、ラソイハラを見やるチャンバリン。ラソイハラは奴隷として買われた家政婦である。
だが、すでにナイフを入れながら、バフータが言う。
「皆の分を焼いたのはラソイハラだ。これは長年ダクシナ家の食卓を支えてきたラソイハラへの褒美だ」
「あ、ありがとうございます、旦那様」
ラソイハラはエプロンの裾で瞼をぬぐう。
しかし、チャンバリンの丸顔は憮然としたまま。その矛先を普段はない客二人に向ける。が、ロイはバフータよりも早くフォークでぺちゃぺちゃと食していて、あからさまに「うん、うまい」と舌鼓を打ち、レナティリアに至ってはかつてない凍てつい眼差しでチャンバリンを睨み返す。
チャンバリンはレナティリアの眼光にひるんでしまい、そそくさと視線を伏せる。
「おお! なんて美味なことか! これはアバラータから仕入れた魚よりも美味ではないのか!」
バフータが至福の表情でいる。
すると、ロイが口を挟んだ。
「いやあ、バフータ様、アヌパビーを食べたなどエンドラセトラ史上初めてのことではありませんか」
「おお! 確かにそうだ! 偉いっ! クシータ、お主は偉いっ! さすがは我が息子だっ!」
「あのう、バフータ様」
チャンバリンが小さな目をいじらしくさせている。
「なんだ」
「わたくしもエンドラセトラ史上初めての味を確認したいのですが」
「明日な。ノッカラ、明日もまた捕まえてこい」
「あ、明日ではなく今夜食べさせてくださいませ! なにゆえっ、なにゆえ、バフータ様はわたくしにそう意地悪されるのですか!」
「意地悪? 人聞きの悪い。ご先祖様にくれてしまったんだから、しようがあるまい。何を言っておるのだ、お主は。まったく」
確かに、バフータはときたま先祖への儀式をするが、チャンバリンを執拗に突き放しているのは、おそらく、今日、偶然、執務について口うるさく言われたのだろう。
チャンバリンは奔放なきらいのあるバフータを、歴代のダクシナ家当主、諸所のアヤガラ一族当主と比較したうえで蔑んでいるところがあって、バフータもバフータでチャンバリンのそうした蔑みに気づいている。
お互いを毛嫌いしているほどではないのだが、齢も近くて、昔からの友人主従みたいなものだから、二人はときたまこういう悶着を起こすのである。
クシータは吐息をついた。
「チャンバリン、僕と半分コしよ。だから、チャンバリンが骨とか取ってね」
と、自分の皿をチャンバリンの手元まで押し寄せた。
チャンバリンは目をうるうるさせる。
「坊っちゃん――。ああっ! なんて慈悲深いクシータ坊っちゃん様! このチャンバリン・ヨリダーナ、これほど、これほどまでに喜びを得たことは、ダクシナ家に仕えてこのかた初めてでございます! わたくしは、わたくしはっ、ダクシナ家に、いえっ、坊っちゃんに一生涯の忠誠を誓いますぞ!」
チャンバリンはテーブルに突っ伏しておいおいと泣いた。そして、腕の中から、ちらっ、と、バフータを見やる。
「良きかな良きかな。せいぜいクシータに一生涯の忠誠を誓ってくれ」
陰険このうえないが、どうせ明日の朝にはころっと忘れている二人である。
(これで毎日お魚が食べれる)
この日、クシータは、人生の充実感に満たされたまま眠りについた。アヌパビーはことのほかうまかった。が、そればかりではない。エンドラセトラ世界に革命をもたらしたことを自覚していたのだった。初めての自信に溢れた。さも、事業を成し遂げた英雄のような笑みを浮かべたまま眠りについたのであった。
自信を得た小さな英雄は、次の日、見違えたようにやる気であった。レナティリアの授業も熱中して取り組んだ。大嫌いな武芸も果敢にレナティリアに立ち向かった。剣先はほとんどさばかれ、ビシビシと返り討ちに合ったが、それはご愛嬌、さしもの鬼先生も、
「身に入ってきましたね。その調子ですよ、坊っちゃま」
と、珍しく笑顔であった。
クシータは自信を得たのであった。
(僕だってやれる)
釣り竿のひらめきが、彼を前向きにさせたのであった。
ところが、クシータに芽生えた志向性は、すぐに暗雲が立ち込める。
レナティリアの授業を終えて、待ってましたとばかりに釣り竿を手にして城外へと駆けていったクシータであったが、思わぬ光景に釣り竿を落としてしまう。
呆然としてしまう。
たたただ突っ立ってしまう。
昨日の今日だというのに、釣り竿を手にしたナウビム城の住民たちが、パタラ川の川辺をびっしりと埋めていたのである。まるで、ナウビム城の三百人そこそこの住民が総出で釣りをしているのではないかと思えるほど、茶褐色の頭がずらりと並んでいた。釣り糸もずらりと垂れていた。
まったくもって、お魚祭り。
クシータは瞼のふちに涙を浮かべた。
(こんなにいっぱいやったら、お魚さんいなくなっちゃうよお)
実際、釣れてなかった。おそらく、クシータが居室でノートにペンを走らせている昼前から、連中は釣りをしているはずであった。
なにせ、ダクシナ郡の人々は、常日頃から暇である。自給自足の芋と豆の栽培の他は、家事をしている程度である。働き盛りの男はほとんどがパハロマ山地の向こうのアバラータに出稼ぎに行っている。年寄りや女が、家事を早々と切り上げるには十分なのんびりさがこの地にはある。
いや、年寄りや女ばかりではない。ナウビム城に住む数少ない働き盛りの男たち――ダクシナ郡の衛兵としてナウビム城に詰めている者たち――の姿も川辺にはあって、この呑気風情は、ある意味、無法地帯の様相であった。
「あっ、坊っちゃん!」
プラーネがちょこちょこと駆け寄ってきた。
「ねえ、坊っちゃん! すごいんだよ! お父さんね! お魚さんを捕まえたんだよ! 見て見て!」
プラーネに袖を引かれていくと、川辺に座るのはチャンバリンの弟にして、衛兵のサイニカであった。鎖帷子をまとい、短剣を腰に吊るしたままの彼の脇には、ジャンガルフも釣り竿を手にしていて、
「なんだよ、全然、捕まんねえよお」
と、ごちている最中であった。
「あっ、これはクシータ坊っちゃん。これ、クシータ坊っちゃんが作ったんだってねえ」
サイニカはチャンバリンにはまったく似ていない痩せぎすの顔をほころばせながら、竿をくいくいっと引いた。
「いやあ、すごいね、クシータ坊っちゃんは。おかげで魚をタダで食べられるよ。感謝感謝、アッハッハ!」
サイニカの高笑いが忌々しくって、クシータは耳を塞ぎたくなってくる。
クシータに笑みを見せてきたのはサイニカだけではない。その隣にいる衛兵も、その隣のセゴ屋の女将も、その隣も、その隣も、口々に「坊っちゃん」「坊っちゃん」と、クシータを呼んできて、
「これ、すごいネ! 坊っちゃん!」
「天才だべ、坊っちゃんは。サバーセ様とは大違いだべ」
「やっぱ坊っちゃんは母上様のラベラ様に似たんだね!」
「すげえや、クシータ坊っちゃんは」
称賛の嵐である。しかし、称賛と引き換えに、クシータの大好きなお魚さんたちはことごとく捕らえられていくわけである。
いや、もう、川にいないかもしれない。
わあっ、と、クシータは泣き上げた。住人たちはきょとんと目を丸めたが、クシータはわんわんと泣いた。竿を捨ててしまい、泣き上げながらナウビム城に戻っていく。
すると、レナティリアとすれ違った。また昨日とは違う黄緑色のお洒落なチュニックを着ている鬼先生は、さっきまで鬼の目つきで木剣を振るっていたくせに、今は肩にいつのまにやら作成した釣り竿を掲げている。
「坊っちゃま、どうしたのですか」
と、やたらやかましく泣いているクシータを呼び止める。クシータは立ち止まるものの、ナウビム住人たちの残酷な仕打ちがやるせなくって嗚咽が止まらない。
「どうしたのです」
レナティリアは片膝をついて、クシータの背丈に視線を合わせてくる。クシータはわんわんと泣く。
「あんまり泣くものじゃありませんよ。理由をおっしゃってごらんなさい」
「お魚さんが。お魚さんが。いなくなっちゃう」
クシータは川辺の連中たちを指差す。
「ああ、あれですか」
「みんな、みんなが捕まえちゃったら、お魚さんが」
「うーん」
と、レナティリアは唸った。
「仕方ありませんね、こればっかりは」
わあっ、と、クシータはいっそう泣き上げる。
「泣いてもどうしようもありません。パタラ川は坊っちゃまだけのものではありませんでしょうに」
「もう食べられなくなっちゃう!」
「そうですね。でも、今のうちに食べておきましょう」
「やだ! ずっと食べたい! やだ!」
「欲張り言うもんじゃありません!」
「やだっ!」
クシータは逃げるようにしてナウビム城内へと駆け出した。待ちなさい、というレナティリアの声が飛んできたが、鬼先生の怒号を振り切って、クシータは天主塔の中へ、居室のうちへと飛び込んでいく。
ベッドの上に突っ伏した。
(もう食べられなくなっちゃう。明日には食べられなくなっちゃう)
悔しくって悔しくて涙はどうにも止まらない。
(こんなことなら、こっそり食べておけば良かったんだ)
と、恨めしくもなってくる。
ただ、「こっそり」というちょっとした悪事は、クシータの性根におさまらない。興奮がやがて落ち着いてくると、いいや、やっぱり、ナウビム城のみんなで食べるのが一番良いのだ、と、帰結する。
でも、みんなが釣ってしまうので、お魚祭りは束の間の出来事。
涙で腫らした目で、クシータは窓辺の向こうの庭先を眺める。
溜め息を深々とつく。
(駄目なんだ。結局、パタラ川はちっちゃいから、駄目なんだ。おっきい川とか、おっきい海があれば、大丈夫なのに。ダクシナにはそんなのないから)
初めて思う。さびれた田舎の不便さを。
(おっきい川と、おっきい海があるとこに行きたい)
庭先の向こうに想像する。見たこともない大河、見たこともない大海を。そこに飛び跳ねる魚の群れを。
そして、魚がうじゃうじゃと跳ね回る生け簀を。
生け簀を。
はっ、とした。
はっ、として、クシータはベッドの上に立ち上がった。
(育てればいいんだ。捕まえたお魚さんを育てて、めちゃんこ増やせばいいんだ!)
クシータはベッドから飛び降りた。ドアをおもむろに叩き開けて、天主塔の回廊を駆け出した。なぜに見たことも聞いたこともない生け簀なんかを思い浮かべたかなどどうでも良くて、ただちに養殖を始めるためにも、ナウビム城の住人たちよりも釣って釣って釣りまくらなければならないと思い、回廊を駆け抜けた。
すると、向かいにレナティリアが現れた。レナティリアは、泣いて逃げていったクシータが、今度は勇ましいがまでに駆け戻ってくるので、きょとんとして立ち止まった。
「どうしたのです、坊っちゃま」
「先生! 僕、お魚さんをめちゃんこ育てたいんです!」
「は?」
肩で息せき切りながら、クシータはレナティリアを見上げる。
「お魚さんを食べないで、育てて、増やせば、ずーっとずーっとお魚さんが食べられます!」
レナティリアは冷ややかな目でクシータを見下ろしてくる。
「先生! お魚さんを――」
「今、めちゃんこという言葉を使いましたね」
「えっ」
「はしたない言葉を今後一切使わないと誓うのであれば、坊っちゃまのお話を聞きましょう」
「つ、使いません」
「よろしい。話を聞きましょう」