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悪役令嬢に転生したので、とりあえず農業を始めました  作者: 秋月 もみじ


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第1話 断罪の朝、鍬を磨く


 農具小屋は、いつも土の匂いがする。


 腐葉土と藁と、それから昨日の雨が染み込んだ木材の匂い。わたしはその匂いが好きだ。前世の記憶を取り戻してからのことで、農業試験場で働いていた頃の、あの朝の感覚に似ているから。


 鍬の柄を布で拭う。乾いた土がぱらぱらと落ちる。


 明日は断罪だ。


 と、一応頭の中で確認してみる。


 うん。わかってる。


 どうしてこんなに落ち着いているのかというと、たぶん準備が整っているからだと思う。農業記録ノートは種入れ壺の隣。商人ギルドへの仮登録の控えは農業記録ノートの裏表紙の内側。持参金の控えは、まあ、頭の中に入れてある。


 断罪があるからこそ、準備がいる。逆ではない。


 この農地を整えておかなければ、断罪の翌日から生活が始まらない。前世の農業試験場の主任がよく言っていた言葉が、今も頭の中を流れる。段取り八割。作業に入る前の準備が収穫を決める。


 とりあえず、鍬。


 柄のひびを確認して、亜麻仁油を薄く塗り込む。明日は使わないけれど、放置すると割れる。鍬は消耗品だが、柄のひびを放置すると手に豆ができる。それは困る。これから毎日使うのだから。


 小屋の棚にはほかにもいろいろ並んでいる。ジョウロ、スコップ、石拾い用の細い籠、種入れ壺が三つ。陶器の壺のひとつには春告げ菜の種が入っている。ひとつには薬草の種。もうひとつは空だ。春に購入する予定の品種のために空けておいた。


 計画は全部頭に入っている。


 冬麦の収穫が春先。薬草の初出荷が同じ頃。売り先は商人区のガルバナ通り、下位組合の仲介業者だ。「エル・ファーム」という偽名で仮登録してある。エルゼの「エル」だから偽名というには甘いが、令嬢の名前を使うよりはましだと判断した。


 うん。全部、整っている。


◇◇◇


 冬麦が順調だった。


 屋敷裏の台帳外の荒れ地(農地と呼んでいいか少し迷うが、もうそう呼ぶことにした)に並ぶ細い緑の列を見ながら、わたしはしゃがみ込んで土を一握り取った。


 水分量は悪くない。霜の降り方も均一だ。この場所は日当たりが少し弱いが、その分霜が均一に降りるので冬麦には向いている。三年前に気づいたことで、一年目は試験栽培、二年目に本格的に植えた。今年が三年目の本番だ。


 野薔薇の境界線に沿って土の硬さを確かめながら歩く。霜柱が立っている部分を踏むと、ぱきりという音がして崩れる。この音が、なんとなく好きだ。


「……なぜ令嬢が土を触っているのですか」


 声がした。


 振り返ると、制服の騎士がいた。二十代前半くらいだろう。黒髪で、灰色の目。制服が少し着古している。靴底の減り方から、よく歩く人だとわかった。


「農地の確認です」


「……令嬢の農地、ですか」


「台帳外の荒れ地ですが、三年前から耕しています。作物が育つ土壌にするのに二年かかりました。腐葉土を混ぜ込んで、石を抜いて、排水の傾斜を整えて」


「……それは、大変でしたね」


 なんと答えればいいか分からない、という顔だった。たしかに答えにくい。


「明日は、断罪の日なのでは」


「そうですね」


「なのに」


「なのに、なんですか」


 答えが出ないらしかった。わたしも補足しなかった。


 なのに農地を確認しているのですか、では間抜けだし。なのに平気なのですか、では失礼だし。なのになぜ笑っているのですか、では。まあ、そうは言えない。


 沈黙が数拍続いた。


 騎士がいつの間にか立ち去りかけていた。


「……転ばないでください」


 出がけに、ぼそりと言った。


 何が、とは言わなかった。わたしも何が、とは聞かなかった。


 その背中が遠ざかるのを見ていた。着古した制服の、肩のあたりのほころびが少し目についた。


 転ばないでください、という言葉の意味が少しよくわからなかった。農地で転ぶな、ということかもしれないし、明日の断罪で転ぶな、ということかもしれないし、人生が転ぶな、という大きな意味かもしれない。


 ……まあ、どれでも、転ばない予定だ。


 とりあえず土に戻る。今日中に薬草の列の水はけを確認したい。


◇◇◇


 父との会話は短かった。


 夕食の席に父がいて、「明日、無様なことはするなよ」とだけ言った。わたしは「はい」と答えた。


 無様なこと、というのが何を指すか、父の頭の中まではわからない。泣くな、という意味かもしれないし、騒ぐな、という意味かもしれない。どちらにせよ、する予定はなかった。


 笑っていればいい。それだけのことだ。


 六年間そうしてきた。婚約者に別の女性ができたと知ったときも、社交界でひそひそされるようになったときも、「どうせ捨てられる」という言葉が耳に届いたときも。笑い続けることで全部やり過ごした。


 今さら止める理由もなかった。


 ——ただ、今夜の父の顔は、あまり見ていたくなかった。


 食事の間、父はほとんどわたしを見なかった。それはいつものことだ。なのになぜか今日だけ、その横顔が何か違う意味を持っているように見えた。気のせいだ、とわかっていても、目を逸らした。


◇◇◇


 夜、農具小屋に戻ってノートを開いた。


 翌日の動線を確認する。断罪の会場→農具小屋→荷物を持って農地へ。手続き上は婚約破棄になるから屋敷を出る必要はない。が、父の顔を思い出すと、出た方がいいとわかった。


 農地があれば、とりあえずなんとかなる。


 冬麦がある。薬草がある。春告げ菜の種がある。商人ギルドへの仮登録がある。金貨五十枚が別名義の口座にある。三年前にそう計算して、三年かけて準備した。


 全部整った。あとは明日だけ。


 あとは笑って立っていればいい。それだけのことだ。


 ——なのに、なんで今日に限って、土が冷たかったんだろう。


 一握りの土を取ったとき。指先に伝わった、あの冷え。


 まあ。霜が降りているからだ。当然の話だ。


 ノートをめくる手を止めて、棚の端に置いてある小さな陶器の壺を見た。春告げ菜の種が入っている壺だ。蓋がわずかに傾いている。前回確認したとき直したはずだが、また傾いている。


 直した。


 ペン先で明日の日程の最終確認を書き込む。準備が終わったときいつもするルーティンだ。書くことで頭が整理される。前世の習慣がそのまま残っている。


 書き終えて、ノートを閉じた。


 小屋の外で、風が一度吹いた。冬麦が揺れる音が、板の隙間から入ってくる。


 種入れ壺を棚に戻して、わたしは農業記録ノートを片付けた。

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