高2・9月:秋霖の不協和音と、教室という名の落とし物
第1部:二度目の秋と、不協和音の光
八月の喧騒が遠ざかり、九月の風が夏の熱気と秋の澄んだ空気をゆっくりと混ぜ合わせ始めた。
俺たちの高校二年生としての二学期が始まる。
真新しい後期用の教科書。黒板に書かれた文化祭まであと一ヶ月半という文字。
教室の空気は、夏休みという長い祭りの後のどこか物寂しい静けさと、これから始まる新しい日常への期待が入り混じっていた。
「心一くん、千明、玲奈! おはよー!」
教室の扉が勢いよく開き、佐々木翼が夏の間に真っ黒に日焼けした顔で飛び込んできた。その隣には夏祭りの時と同じ快活そうな彼女が寄り添っている。
「おう翼。朝から元気だな」
「当たり前だろ! 夏は終わったが俺の青春は年中無休なんでな!」
翼の馬鹿げていて力強い宣言に、教室のあちこちから笑いが起こる。
俺はその平和な光景を眺めながら自分の席に着いた。
隣では千明が楽しそうにそのやり取りを見ている。その斜め前には玲奈がすでに参考書を広げ、予習に余念がない。
城戸も教室の隅の席で静かに本を読んでいた。時折俺たちの方を見て小さく会釈をする。彼の胸の光はまだ小さいが、夏の間に少しだけその輝きを増したように千明は言っていた。
すべてがあるべき場所に収まっている。
俺たちの日常は、この二年二組という新しい舞台の上で再びその幕を開けたのだ。
そんな穏やかな日々が一週間ほど続いたある日のホームルーム。
その静かな不協和音は何の前触れもなく鳴り響いた。
「――さて、と。じゃあそろそろ来月の修学旅行について話を始めるぞ」
担任教師のその一言で教室の空気が一変した。
修学旅行。高校生活における最大級のイベント。
行き先は京都・奈良。三泊四日の定番のコースだ。大部分の行程は学校側で決められているが、二日目の班別自主研修については各クラスである程度の裁量が与えられているのだという。
「……で、だ。大まかな行き先の希望なんだが、去年の先輩たちの例を見ると大体二つのグループに分かれることが多いらしい」
教師が黒板にチョークで文字を書いた。
『A班:アクティブコース(嵐山散策、保津川下りなど)』
『B班:文化・芸術コース(寺社仏閣巡り、美術館見学など)』
「どちらのコースを中心に回るか、今日はまずその大枠を決めたい。何か意見のある者はいるか?」
その問いかけを皮切りに、教室は一気に騒がしくなった。
「はい! 俺、A班がいいです! せっかく京都まで行くなら自然の中で思いっきり体を動かしたいんで!」
手を挙げたのはサッカー部の江口だった。彼の周りには運動部の連中が集まっている。
「俺も賛成!」「川下り面白そうじゃん!」
次々と賛同の声が上がる。
だがその流れに待ったをかけた声があった。
「……私はB班を希望します」
静かに、しかし凛とした声で言ったのは美術部の宮間さんだった。彼女の周りには文化部の生徒や物静かな女子たちが多い。
「……京都には素晴らしい文化遺産がたくさんあります。美術館や博物館にもこの機会にしか見られない特別展示があると聞きました。落ち着いて芸術に触れる一日にしたいです」
「えー、寺とか美術館とか退屈じゃね?」
江口が茶化すように言うと、宮間さんの表情がこわばった。
「……あなたにはそうかもしれませんね。でもそういうものに価値を感じる人間もいるんです」
その言葉には明らかな棘があった。教室の空気が一瞬で冷たくなる。
「なんだと、お前」
「事実を言ったまでです」
そこから議論は泥沼化した。
A班派とB班派。二つのグループは互いに一歩も譲らない。
最初はただの意見の対立だったはずが、いつしかそれは感情的な罵り合いへと変わっていった。互いの価値観を否定し人格を攻撃するような言葉が飛び交う。
そのあまりにも異常な過熱ぶりに、クラスの誰もが戸惑っていた。
ただの旅行の計画決めだ。なぜここまで頑なになる必要がある?
俺はその不毛な口論を冷ややかに眺めていた。
だがその時、隣に座る千明の様子がおかしいことに気づいた。
彼女は顔を真っ青にしてきょろきょろと落ち着きなく教室全体を見渡している。その瞳には怯えと困惑の色が浮かんでいた。
「……千明? どうした」
俺が小声で尋ねると、彼女は震える声で答えた。
「……心一くん……」
「……教室が……」
「……光ってる……」
その言葉に俺は息を呑んだ。
教室が光る? そんな馬鹿な。
彼女の能力はあくまで「落とし物」という個別の物に宿る「執着心」を捉えるもののはずだ。教室という巨大な空間そのものが光るなどあり得ない。
「……どんな光なんだ」
「分からない……! 見たことない光だよ……! 茶色と灰色が混じったような濁った嫌な色の光が、床から霧みたいに立ち上ってる……。それにその中に時々、怒りの赤い火花とか悲しみの青い光が混じってて……。みんなの悪い感情が全部ごちゃ混ぜになった、不協和音みたいな光……!」
そのあまりにもおぞましい光景。
俺たちの二年二組。この平和だったはずの空間は今、目に見えない負の感情の霧に覆われているというのか。
これはただの意見の対立ではない。この教室の奥底に俺たちがまだ知らない何か、深くそして根深い「傷」が隠されている。
その集合的な「落とし物」が修学旅行というイベントをきっかけに、今、疼き始めているのだ。
俺は直感的にそう理解した。
第2部:共有された過去の傷跡
教室を覆う不協和音の光。その異常な現象の正体を突き止めるべく、俺たちの新たな捜査が始まった。
今回の「落とし物」は物理的な物ではない。この二年二組というクラスが失ってしまった「調和」そのものだ。そしてその光はクラス全体の負の感情の集合体。あまりにも漠然としていて、どこから手をつければいいのか見当もつかなかった。
「……まず対立の中心人物から探るのが定石だ」
放課後の屋上。俺は観測ノートに思考を整理しながら言った。
「サッカー部の江口と美術部の宮間。あの二人の対立が今回の騒動の震源地であることは間違いない」
「でもあの二人、どうしてあんなに仲が悪いのかな」
千明が不思議そうに首を傾げた。
「ただの意見の違いだけじゃ説明がつかないよ。まるで昔からずっと憎み合ってるみたいだった」
その千明の素朴な疑問。それが俺たちに最初の突破口を与えてくれた。
「……そういえば」
玲奈が何かを思い出したように口を開いた。
「……あの二人、一年生の時すごく仲が良かったはずよ」
「……何?」
「確か去年の合唱コンクールの実行委員を二人でやってたはずだわ。その時はいつも二人で笑いながら話してた記憶がある。……いつからあんな風になっちゃったのかしらね」
一年生の合唱コンクール。そのキーワードが俺の頭に引っかかった。
俺は去年の学校行事の資料を調べるために、再び図書室へと向かった。
古い生徒会誌をめくっていくとやがてその記事を見つけ出した。合唱コンクールの結果報告。
江口や宮間、そして今の二年二組の主要メンバーが多く所属していた、当時の一年四組の成績は。
『入賞ならず』
その短い四文字だけが記されていた。
俺はさらに玲奈の情報網を駆使し、当時の彼らを知るクラスメイトたちにそれとなく話を聞いて回った。
そしてパズルのピースが一つ、また一つとはまっていくように、あの日の出来事が明らかになっていった。
去年の合唱コンクール。当時一年四組だった彼らのクラスは、江口と宮間が中心となって練習に励んでいた。
スポーツ万能でクラスの人気者の江口。物静かだがピアノが得意で絶対音感を持つ宮間。正反対の二人はしかし不思議とウマが合った。最高の合唱を作り上げるという共通の目標に向かって、二人はクラスを見事にまとめ上げていたのだという。
だが本番数日前に事件は起こった。宮間が風邪で高熱を出し練習を休んでしまったのだ。
指揮者と伴奏者を兼任していた彼女の不在。クラスの練習は完全に停滞した。
江口は必死でクラスをまとめようとしたが、中心を失った歌声はまとまらない。焦りと不安がクラス全体を覆っていった。
本番当日。宮間はまだ本調子ではない体を引きずって学校にやってきた。
だが彼女が目にしたのは、すでにやる気を失いばらばらになったクラスの姿だった。江口はサッカー部の仲間たちとふざけ合い練習に身が入っていない。他のクラスメイトたちも「もうどうでもいい」と諦めムードが漂っていた。
その光景に宮間は絶望した。自分だけが必死だったのか、と。江口は自分を裏切ったのだ、と。
結果は散々だった。彼らの歌声は誰の心にも響かず、ただ虚しく体育館に消えていった。
その日以来、江口と宮間は一言も口を聞かなくなった。そしてその二人の断絶は、クラスの中に目に見えない深い亀裂を生み出した。江口を中心とする活発なグループと宮間を慕う物静かなグループ。
クラスは二つに分断され、その冷たいしこりは一年以上が過ぎた今もなお、この二年二組の空気の中に澱のように沈殿していたのだ。
「……そうだったんだ……」
すべての真相を知り、千明は悲しそうに目を伏せた。
修学旅行のコース決めはただのきっかけに過ぎなかった。彼らは今、一年越しの代理戦争を繰り広げているのだ。
合唱コンクールという共有された過去の「傷」。それこそがこの教室を覆う、不協和音の光の正体だったのだ。
第3部:届けられなかった言葉
「……どうすればいいんだろう」
千明は途方に暮れていた。原因は分かった。だが一年以上もこじれにこじれた人間関係。それを修復する術が見つからない。
「……何かあるはずだ」
俺は言った。
「まだ俺たちが見つけていない何かが。この事件の核心に触れる、物理的な『落とし物』が」
俺の言葉に千明ははっとしたように顔を上げた。そうだ。彼女の能力はまだ終わっていない。
教室全体を覆う漠然とした光。その霧の中でひときわ強く、そして歪んだ光を放つ一点があるはずだ。
彼女は再び意識を集中させた。教室を覆う淀んだ光の流れを読み解いていく。
そしてついにその震源地を突き止めた。
「……あそこだ」
彼女が指差したのは教室の一番後ろに置かれた古いロッカーだった。そこは一年生の時に使っていた教材などが雑然と詰め込まれている、忘れ去られた空間だった。
俺たちはそのロッカーの扉を開けた。埃っぽい匂い。
その奥の奥に一冊のファイルが埋もれていた。
『一年四組 合唱コンクール実行委員会』
その文字を見て俺たちは息を呑んだ。これだ。
俺はそのファイルを手に取りページをめくった。
中には当時の練習スケジュールや楽譜のコピーが挟まれている。
そしてその一番最後のページ、一枚の便箋がひらりと床に落ちた。
千明がそれを拾い上げる。
そこには宮間さんのものと思われる繊細な文字で、何か文章が書かれていた。
それは江口に宛てられた手紙だった。いや、手紙になるはずだった言葉の断片。
そこには彼女の怒りと悲しみ、そしてどうしようもない問いかけが綴られていた。
『どうして分かってくれなかったの』
『私だけが必死だったの?』
『信じてたのに』
だがその手紙は途中で終わっていた。そして最後にはインクの滲んだ跡が残っている。おそらく涙の跡だろう。
彼女はこの行き場のない想いを彼にぶつけようとして、しかしできなかったのだ。
そしてこの届けられなかった言葉は、この古いファイルの中で一年以上もの間誰にも知られることなく眠り続けていた。
これこそがこの事件の核心。すべてのすれ違いの始まりとなった「落とし物」だった。
俺たちはその便箋を手に、再び屋上で頭を突き合わせていた。
「……これを江口くんに見せれば……!」
千明が言った。
「きっと分かってくれるはずだよ! 宮間さんが本当はどれだけ傷ついていたか!」
「……いや、駄目だ」
俺は首を横に振った。
「それはあまりにも直接的すぎる。今これを彼に見せれば彼はただ罪悪感に苛まれるだけだ。それは解決にはならない。むしろ事態を悪化させる可能性さえある」
「じゃあどうするのよ!」
玲奈が苛立ったように言う。
「このまま見て見ぬふりをするわけ?」
「……違う」
俺は言った。
「この手紙は確かに鍵だ。だがこの鍵で扉を開けるのは俺たちじゃない。彼ら二人自身だ。そして願わくばクラス全員でだ」
俺は一つの作戦を思いついていた。
五月のあの時のように、繊細でそして大胆な作戦を。
第4部:教室の調律
数日後、修学旅行の班決めをするための最後のホームルームが開かれた。
教室の空気は相変わらずA班派とB班派に分断され、張り詰めている。議論は平行線を辿り誰もがうんざりしていた。
その時だった。俺は静かに手を挙げた。
「……先生、少しよろしいでしょうか」
クラスの視線が一斉に俺に集まる。
普段クラスの話し合いにほとんど参加しない俺のその行動は、誰もが予想しないものだったのだろう。
俺は教壇の前に立った。そしてクラスの全員を見渡して言った。
「……俺はどちらのコースでもいい。だがこのままクラスがばらばらのまま修学旅行に行くのは反対だ」
俺の言葉に教室がざわつく。
俺は続けた。
「……俺は部外者だが、少しだけ去年のことについて調べさせてもらった。一年生の時の合唱コンクールのことだ」
その一言で教室の空気が変わった。
江口や宮間だけでなく、元一年四組だった者たちが息を呑むのが分かった。それはこのクラスにとって触れてはならない禁句だった。
俺はあえてその古傷を抉った。
「……このクラスの多くの人間が、一度失敗を経験している。一つの目標に向かって心を一つにすることができずに、ばらばらになったという経験を。そしてその失敗の記憶を、皆ずっと引きずっているんじゃないのか」
俺の視線は江口と宮間を捉えていた。二人とも顔を真っ青にして俯いている。
「この修学旅行は二度目のチャンスだと俺は思う。あの時の失敗を上書きできる最後のチャンスだ。A班かB班かなんてどうでもいい。重要なのは、俺たちがもう一度一つのクラスとして心を通わせることができるかどうかだ。俺はそう思う」
俺はそれだけを言うと教壇を下りた。
教室は重い沈黙に包まれている。俺の言葉が彼らにどう響いたのか、それは分からない。
その沈黙を破るように、千明が静かに立ち上がった。
そして彼女はあの古いファイルを手に、江口と宮間の机の中間地点へと歩み寄った。
彼女はそのファイルをそっと空いている机の上に置いた。
「……これは去年からの忘れ物」
彼女は小さな声で言った。
「この中に、届けられなかった言葉が入ってる。……扉を開けるかどうかは、みんな次第だよ」
彼女はそれだけを言うと自分の席へと戻っていった。
すべての視線が机の上に置かれた一冊の古いファイルに注がれる。
時間だけが静かに流れていく。
やがて、江口がゆっくりと立ち上がった。
そして彼はファイルへと手を伸ばした。
その後のことを俺は詳しくは知らない。俺たち三人は静かに教室を後にしたからだ。
それは彼ら自身の問題なのだから。
だが千明には見えていた。
俺たちが教室を出るその直前、教室全体を覆っていたあの濁った不協和音の光、その厚い霧がゆっくりと晴れていくのを。
そして霧の向こう側から、金色の理解の光やピンク色の友情の光が、小さな灯火のようにぽつりぽつりと灯り始めるのを。
教室はまだ完全には癒えていない。だが確かに調律は始まったのだ。
数日後。俺たちのクラスは新しい修学-旅行のプランを決定した。
それはA班とB班の両方の要素を取り入れた欲張りな折衷案だった。
誰もがそのプランに満足し、教室は久しぶりに明るい笑い声に包まれていた。
江口と宮間もまだぎこちなさは残るものの、時折言葉を交わすようになっていた。
俺たちは屋上からそんな教室の様子を眺めていた。
「……よかったね、心一くん」
「……ああ」
俺たちはまた一つの「落とし物」を見つけたのだ。
「クラスの絆」という、目に見えない、しかし何よりもかけがえのない宝物を。
俺たちの二度目の秋はこうして始まった。
それはきっとたくさんの笑顔と、そして優しい光に満ちた季節になるだろう。
俺はそう確信していた。




