拾肆:父と子
長期休暇が終わったものの、相変わらず楊武が朝の謁見に出ない日が続いた。
ある日の謁見後、書局より楊武の書き上げた書物が出来上がったと連絡が来た。
書局の官人が英慶宮に冊子を届けると、央晧はすぐさま徳帝へ献上する手続きを取った。
そして本日。
央晧と英慶宮の属官、そして博文が、早朝の謁見後に徳帝の住まう乾清宮へと出向いた。
乾清宮は、後宮の正門を進むと正面に見える大きな宮で、歴代皇帝が寝食を行う宮殿である。
中に入ると王氏一行が既に座って待っていた。
央晧は王氏へ早く渡したいので、献上の際は同行をお願いできないかと事前に伝えていたのだ。
王氏らは央晧に気付くと一斉に伏す。央晧を先頭に、後ろに控える博文と英慶宮の六人が北面して座すと、王氏らは顔を上げた。
宝座へ対面する真正面に央晧一行、そして斜め後ろに王氏一行が座して、徳帝を待った。
冷たい床に正座をすることしばらく。昼の身なりに着替えた徳帝が宝座にやってきた。
全員、伏したまま、徳帝の号令がかかるのを待つ。
「待たせたのう。みな、面を上げよ」
衣擦れの音と共に、思い思いに顔を上げる。
央晧はお得意の笑顔を浮かべて、謝辞を述べた。
「陛下、本日はお時間をいただきありがとうございます。王氏も、無理を言ってすみません」
ちらりと後ろを向くと、王氏一同は一斉に頭を下げた。
「早速ですが、皇太子府より書局開局を祝う書物をお持ちいたしました」
央晧の言葉に、博文が立ち上がる。まずは徳帝の側近である宦官に手渡した。
博文は皇帝に背を見せずに数歩下がると、一礼し、右回りに背面する。続いて、王氏の側近に書物が渡された。
「皇太子府からは太子中庶子である李梓より、先日宝物殿に収納されました青銅器の研究結果を試し刷りとさせていただきました」
徳帝、王氏が共に側近から書物を受け取る。
先日受け取った王氏の書物ほどではないが、箔が押された表題が床に反射していた。広い乾清宮内に紙のこすれる音だけがやけに大きく聞こえていた。
従者たちが見守る中、徳帝が言う。
「……まるで、王氏とは正反対の意見だな」
「そうですね。本宮も昨日初めて目を通したのですが、どちらも大変興味深い論説です」
徳帝は書簡から顔を上げると、探るような視線を向けた。
「わざとか?」
「……まさか。確かに王氏の題目はお聞きしていましたが、題目だけで推測できるような内容ではありませんでしたよ」
鋭い視線も気にも留めず、央晧も淡々と答える。
確かにな。徳帝は鼻で笑うと、また書物へと視線を落とした。
「それにしても、この短期間で金文をすらすらと読み上げただけでなく、論考まで仕上げてくるとはな。李梓は若いと聞いているが?」
「はい。李師父は今年で二十一になるとお聞きしています」
「ほぉ……。噂以上の博識のようだな」
徳帝の興味が楊武に向けられたのを、央晧は見逃さなかった。
「市井で名の知れた学者を聞いておりましたが、歴史学に関しては想像以上に豊富な知識をお持ちのようです。
この原稿を書き終えてから長期休暇をお渡ししたのですが、その間も熱心に研究をされていたようです」
「なんだ、休みになっておらんではないか」
「ええ。本宮もそう叱りつけようとしたのですが……。休暇中にもう一稿仕上げられては怒るに怒りきれませんでした」
央晧が演技じみた苦笑をこぼすと、徳帝は声をあげて笑った。
「とんでもない男だな! して、それはいつ冊子とする?」
「今のところ、予定はございませんが……?」
央晧は首をかしげ、わざと子供らしさを強調した。尤も、胸中では自ら製本を懇願する手間が省けて小躍りをしている。
「後で書局に持っていくがよい! 朕の命で印刷を許可する」
徳帝が央晧に告げると、宦官にすぐさま伝達をするように命じる。
「拝命、確かに承りました」
央晧は徳帝へ拱手すると、後ろに控える博文へ振り返ることなく命じた。
「博文、後で書局までお願いします」
「御意」
博文が答えると、徳帝は頷いた。
「次作次第ではあるが、褒美が欲しければ李梓にとらせるが?」
徳帝の問いに央晧は考える素振りをした。
「でしたら、国史編纂などはいかがでしょうか?」
央晧は床に手をつき、挑発するような笑みで徳帝を見上げた。
刹那、乾清宮に沈黙が訪れる。
視線が一斉に向けられる中、央晧は怖気づくことなく徳帝を見据えていた。
国史編纂――孫師父亡き今、空席となったその命を任じられるのは、王氏が最も有力と言われている。
その王氏が後ろで控えている中、央晧があえて国史編纂を口にしたとなれば、宮殿内に控える従者たちが口をはさむことなどできるわけがなかった。
緊迫した空気を察し、ある者は背中、ある者はこめかみに、嫌な汗が伝う。
「……」
肘をついた徳帝が書物に視線を落とした。
「央晧よ、本気か?」
「本宮はいつでも本気でございます」
親子が静かに睨みあう。
固唾を呑む音さえ響きそうなほど、静まり返った殿中で、従者たちは二人の動向を見守っていた。
「はっはっはっ」
突如、徳帝が目元に手を添えて笑い始めた。
人々は一斉にざわつき、中には呆気に取られたままぽかんと口を開けている者も居る。
「お前、李梓に怒っているのか!」
徳帝の言葉に央晧も眉を下げて微笑んだ。
その光景に従者たちは更に混乱する。
「……流石、父上。お見通しでしたか」
「宮中で知らん者は居らんぞ。お前の師父が任命されてからずっと謁見に来ていないと言うのは」
「朝に弱い、と言うより夜更けまで執筆をされていることが多いようで……。今日もおそらく今頃起床されているかと思います」
「なんだ、やはり今日も来ておらんのか」
央晧の返答に、徳帝は更に笑いを深めた。
「謁見に顔を出さん従者など前代未聞だとは思っていたが、お前はやはり気にしておったか!」
「……お恥ずかしながら」
「では李梓に伝えておけ。下手をすると知らぬ間に央晧によって重責を負わされるとな」
「ええ。伝えておきます。むしろ次こそ本人に解説をさせますね」
「ははは! それはいいな!」
後ろで控える従者たちは、豪快に笑う徳帝と朗らかに笑う央晧を見ているしかできなかった。
尤も、英慶宮の従者たちに限っては、心当たりのある人物を思い浮かべ、小声で会話を交わす余裕があった。
「おい、巴。これって李殿が早朝の謁見に出ないことを太子は気にしてたってことだよな?」
「……だろうな」
「だからって引き合いに国史編纂とか、冗談きつすぎる」
羅浪と劉巴が大袈裟に肩を震わせていると、姫沛も話に入ってきた。
「ちゃんと参加するよう、僕らからもあとで伝えた方がいいね……」
「沛、頼んだぞ」
「え、僕が!?」
比較的穏やかな姫沛だが、驚きのあまり大きめの声を上げた。
「お前が言ったんだろ!」
属官たちの隣に座る博文は、彼らの会話を遮るように咳払いをする。
三人は慌てて姿勢を正し、徳帝と央晧の方へと向き直った。
その後、国史編纂の件は央晧の李梓に対する冗談だと次第に理解され、和やかな雰囲気になったところで謁見はお開きとなった。
しかし、宮中が穏和な空気となってからも、王氏一行は一言も声を発しなかった。……いや、誰も発せなかった。
冗談とは言え、自身も献上した事象に対して報酬に国史編纂を持ち出された彼らの心境は、央晧たちは理解できないだろう。巷で国史編纂の後釜とも噂されているだけあって、恥をかかされたと感じた従者も居たと言う。
それでも王氏は、血気盛んな従者をなだめ、「太子はご聡明故に、恥を忍んで自身の従者を参内させるため、あのような冗談を申された」と央晧に高い評価を下していた。
たっぷりと蓄えられた髭を撫でつけて微笑む王氏の海よりも広い心へ感銘を受け、従者たちは各自執務へと向かった。
一人、執務室に佇んだ老臣のこぶしに力が籠められていたのは、誰も知らない。




