拾:央晧と王氏
英慶宮に戻ると博文の戻りを待つ間、央晧は私室から見える庭園を眺めていた。
宮城内にはいくつも眺めのよい庭があるが、英慶宮の庭は華美すぎず、こぢんまりとしていて央晧は気に入っていた。
「戻りました」
「ああ、ご苦労」
央晧は木々から目を離し、書局へ出向いた博文を労う。
「英慶宮前で王氏と遭遇しましたが」
「……もう来たのか」
「何かお約束でも?」
「例の試し刷りが出来上がったらしい。あとで持ってくると言っていた」
なるほど。博文がつぶやくと同時に私室の扉を数回叩く音が聞こえた。
「太子、王氏がお見えになりました」
顔勒の声に央晧が答える。
「客間に通してください」
凛とした、高い声が部屋を覆う。立ち上がった彼の姿に、年相応の朱 央晧はいなかった。
「早速お越しいただいてありがとうございます、王氏」
「歴史好きの殿下に早く読んでいただきたく参上いたしました」
王氏は穏やかな笑みを浮かべ、控えていた従者に合図した。
「こちらになります」
王氏が差し出した箱を受け取り、央晧は蓋を開けた。
螺鈿が施された箱には、絹が巻かれた一冊の本が収められている。いかにも国営と言った華美な装飾の施された冊子は、角度を変える度に箔押しの飾り枠や文字が主張していた。
「これはまた豪華な装飾ですね」
央晧は言葉では褒めているが、内心は「試し刷りにそこまでする必要があるか?」と、この輝きの裏に見え透けた王氏の魂胆にうんざりしていた。
「『前寛抹殺論』ですか」
「ええ。寛が如何様にして理想の王朝となったか、を推察しております」
央晧が頁をめくる手を止めないのを見て、王氏は持論を続ける。
「これはあくまで学術的な意見です。長きにわたり広がった思想を否定するわけではありません。何事も、事実と常識は同位ではありませんゆえ」
そうですねと生返事を返し、央晧はその場で王氏の書物に一通り目を通した。
「確かに斬新で面白い見解ですね」
そっと本を閉じ、首を少しかしげて央晧は微笑んだ。
「あとでちゃんと読ませていただきますね。これだけの推察、お疲れ様でした」
央晧の労いに、王氏一行が一斉にこうべを垂れる。
その姿を見つめる央晧の胸中は、決して穏やかではなかった。
央晧は「内容が、まるで楊武の言葉そのものではないか」と言い出さぬよう口を噤んだ。
先日、青銅器の銘文について報告を受けた際、過去に孫師父らと立てた仮説を楊武が述べていたが、王氏の書物にも、孫師父らと全く同じ仮説が書かれていた。
――あの時、楊武が顔を顰めていたのはこれか。
その後、王氏からの他愛ない会話に返答をして気立ての良い皇太子を演じていた。
話を切り上げて追い返そうとしていたところ、王氏より思わぬ問いかけを受けた。
「そういえば、今日は新しい師父殿はご在籍でしょうか?」
温厚な笑みを浮かべてはいるが、目の前の老臣の表情からは真意が伺えそうにない。
どう切り返すべきか。一瞬だけ央晧は悩んだ。
「李師父は多分、今も寝ていらっしゃいますよ」
「へ?」
あっけからんと答える央晧に、礼部の従者たちも気の抜けた声をあげる。
「今朝方まで試し刷りの原稿を書いておられたようで、今日は休日にさせました」
「ほぉ……。してどのような原稿を?」
「それが、まーったく知らないんです!」
央晧は、にっかりと音が鳴りそうな満面の笑顔を向けた。
「博文が言うには今朝、広間の机に原稿だけが置いてあったらしいですよ」
「原稿だけが?」
「はい! 本宮もどんな書物が出来上がるか楽しみなんです!」
無邪気な様子の央晧に、王氏は顔を顰めた。
「殿下。お言葉ではございますが、師父殿がもし殿下を陥れるような内容を書かれていたらどうなさるおつもりですか?」
既に読破しているとは知らぬ王氏が、央晧に苦言する。
王氏の言葉に、央晧の表情が固まった。
央晧が草稿を読み終えていることは宦官たちと博文しか知らないため、英慶宮の従者たちも央晧を心配そうに見つめている。
しばらく間を置き、央晧が口を開いた。
「それでもし本宮や陛下を陥れるようなことが起きれば、それは本宮の人を見る目がなかったということです」
始終口元を緩めていた央晧から、笑顔が消えた。
「彼は本宮が市井から選んだ人材です。この宮城に招いたのも本宮です。つまり李師父に関する言動のすべては本宮に責任があります」
英慶宮の客間が静まり返った。
皇太子・朱 央晧の放つ緊張感に、誰も言葉を発すことができなかった。
「ま、信用せずして、臣下の信用を得ることはできませんからね」
央晧はへらりと笑うと、両手を軽く叩いて可愛げのある音を鳴らした。客間に何事もなかったような空気が流れる。
未だに動けない英慶宮の属官や王氏の従者を気にすることなく、央晧はその場に居る者たちに笑みを見せていた。
先ほどの央晧の言葉には、押し黙らせられるほどの説得力が備わっていた。
「殿下」
王氏の声が静まり返った客間に響く。
「臣は、貴方のような方が皇太子になられたことに感激いたしました」
王氏が左手で右手を包むと、深く頭を下げた。我に返った王氏の従者たちも王氏に倣う。
「先ほどの返辞、誠に見事でございます。これで次の世代も嘉は安泰だと確信いたしました」
王氏の言葉に、王氏一行だけでなく英慶宮の属官たちも頷いた。
自らの主が聡い少年だと知っていたが、主従に関する立場まできっちりわきまえているとは思っても居なかったようだ。驚き半分、誇らしさ半分と言ったところだろう。
「それもこれも、教え導いてくださる師父らがあってこそ。これからもよろしくお願いしますね、王氏」
央晧の言葉に、王氏は叩頭の礼で答えた。
叩頭の礼は、深い忠誠と尊敬を表す動作である。
姿かたちは土下座に似ているが、全ての所作に決まりがある。先日、楊武が遼煌に対して行っていた土下座とは天と地以上の差がある、正しい礼の一つだ。
王氏の返答によって、客間に歓声を上がった。
英慶宮の従者たちも王氏の従者たちも、それぞれの主に対する称賛で交わしている。
しかし、たった一人。当の本人である央晧だけは、気持ちが晴れていなかった。
何がこれからもよろしくだ。余を教え導いてきたのはお前ではないだろう!
跪く王氏に対して、本当はそう叫びたかった。
しかし、悪態を晒してしまえば目の前の臣下は易々と手のひらを返すだろう。
皇太子と言う地位に亀裂が生じると、名に傷がつくのは孫師父や他の教育係たちとなる。
王氏が央晧を認め、央晧が王氏を認めた。
非公式だが、実質的に王氏が皇太子を認め、その後ろ盾となることを暗に示している。
腹の底でどう思って居ようが、誇示することによって、周囲がそれを認知すれば王氏の思惑通りだ。
今後、叩頭の礼を央晧に行ったと噂が広まれば、王氏という名が官人たちの間で更に大きな影響力を及ぼすだろう。
悔しいが、今、央晧ができることは少ない。楊武が必ず一矢報いるはずと信じて、耐えるのみ。
衝動をぐっと堪え、央晧は穏やかに微笑む。
脳裏には、在りし日の孫師父との時間がよぎっていた。




