拾壱:楊武の休息
皇太子・朱 央晧が、礼部長官 兼 太子少傅・王氏と対面していた同時刻。
楊武は絶賛、書き損じの原稿と共に眠り続けていた。
早朝、楊武は言うことを聞かない身体で、最後の力を振り絞って広間へ向かった。
原稿を置いた途端にどっと身体が重くなり、やっとの思いで自室に戻ると、死んだように眠りについた。
英慶宮の属官たちが「李殿が原稿の絨毯の上で倒れている」と笑い転げていた。
偶然通りかかった博文が、扉の前で抱腹する従者たちを不思議に思い、部屋を覗きこむと、寝台にたどり着くまでに力尽きたのか、楊武は言葉通り原稿の上で眠っていた。その後、博文が楊武を寝台まで運んだのは、言うまでもない。
そんな大事から翌日。
楊武は央晧に長期の休みを言い渡され、央晧付きの宦官である懿栄に洗髪されていた。
この数か月間、研究に没頭していた楊武の髪には、すっかり艶が無くなっていた。
昨日、王氏との対談後、央晧は休暇を告げるために楊武の私室へ向かった。
数日ぶりに見た楊武は、鳥の巣になった髪が不健康だけでなく不衛生にも見え、なんとも醜い姿をしていたと言う。
故に央晧が激昂し、今に至る。
”市井から身を移すにあたって、家を売り払って体裁を整えた“と言う設定を使い、帰る家もない李梓の身なりを整えるため、懿栄は央晧から一切を委ねられた。
楊武は促されるまま、玉の枕へ仰向けになっていた。
頭の形に添って削られた玉――つまり宝物で作られた枕は、当然であるが身分の高い者しか使用できない。
後日、楊武はこの経験を「今生において玉に頭を預ける日が来るとは思いもしなかった」と委縮した様子で英慶宮の属官たちに話していたと言う。
懿栄は楊武の髪を枕の外側にまとめあげると、顔が濡れないように布をかけ、米のとぎ汁を満たした桶に髪をひたした。
そして鳥の巣にように絡まっていた毛先を、目の粗い象牙の櫛で数回梳き、髪全体に何度もとぎ汁を掛けては梳き、掛けては梳きを繰り返した。
「懿栄殿、この度は拙のような身分の低い者の世話までさせてしまい申し訳ありません」
「いいえ。感謝こそあれど、謝罪をいただくようなことはございませんよ」
懿栄の柔らかい声が頭上から降ってくる。髪を撫でる優しい手つきも相まって、まるで祖父と話しているような気分だと楊武は思った。
「か、感謝……ですか?」
「ええ」
心当たりのない謝意に楊武は首を動かしそうになったが、懿栄によってやんわりと制止される。
「殿下は利口なお方です。ご自分の立場をよく理解されていらっしゃる」
「……そう思います」
「孫太子太傅が亡くなってからも笑顔を取り繕われていましたが……。ふとした瞬間に陰りがありました」
懿栄は手を止めることなく、丁寧な手つきで髪を梳かしながら話を続ける。
「ですが、李殿が来られてからは、随分楽しそうに学んでいらっしゃるご様子」
大方絡まりが落ち着いたところで、櫛を目の細かいものに変え、またとぎ汁を髪に掛けた。
「朝の支度中もよく話題に出ていますよ」
「ほ、本当ですか……? 拙がどんくさいばかりに太子にはご迷惑ばかりかけていて……」
今日だってそうだ。
央晧の手を煩わせたうえに、楊武より身分の高い直臣に世話をしてもらっている状態である。
恥ずかしさで早口になる楊武を、懿栄は気にすることなく穏やかな声で答えた。
「そんなことありませんよ。貴方の話をしている時の殿下は本当に楽しそうにしていらっしゃる」
もじもじする楊武とは反対に、懿栄は楽しげに話す央晧を思い出し、少しばかり心が華やいでいた。
「殿下はお優しいですが、決して誰にでも心を開いていらっしゃるわけではない。
ですが、李殿にはとても心を許されているように思えます。
だからこそ、貴方に身なりを整えろと少し口うるさく言われたのだと思いますよ」
ゆったりとした懿栄の言葉には、深い慈しみが込められていた。
懿栄は元々、母である幸皇后付きの宦官で、生まれて間もない頃から央晧の身の回りの世話をしていると言う。
宦官を起用しない央晧が唯一、従者に選んでいるのが懿栄と彼の弟子だった。
そしておそらく、懿栄は央晧の本当の性格に気付いている。人の感情に鈍感な楊武でも、懿栄の言葉の節々から読み取れた。
長年寄り添う懿栄だからこそ、きっと央晧の本質を見抜いているのだろう。
敢えて気付いていないふりをしつつ、央晧を見守るのも愛情なのかもしれない。楊武は懿栄の寛大さに心を打たれていた。
「太子は、周りには陰謀しかないとおっしゃっていました。ですが、懿栄殿のような方が側にいらっしゃると知れて、少しうれしくなりました」
「……」
楊武が小さく笑うと、懿栄の手が初めて止まった。
何か気に障るようなことを言ってしまっただろうか? 不安に思った楊武が布をつまんで様子を伺う。
ちらりと見えた懿栄は驚いた表情をしていたが、すぐに笑みを浮かべ、布を正して髪を梳きはじめた。
「それはこちらの台詞ですよ、李梓殿。年若い、貴方のような方がこれからの殿下を導いてくださることに感謝します」
その後、二人の間に会話はなかった。時折、英慶宮内の庭園から鳥の声が聞こえてくるのみ。
心地の良い風が吹き込むと、楊武は大きく息を吸い込んだ。
楊武にとって宮城へ来て初めての穏やかな時間が過ぎていった。




