玖:反撃の狼煙
朝、いつものように皇太子・朱 央晧の側近、鄭 博文が出仕すると、英慶宮の広間の長机に紙の束を発見した。
数十枚と重ねられた一番上には『微氏青銅器群から見る『太公史誌』の真実性についての一考察』と記されている。
楊武が自室に籠城し、原稿を書き続けて今日で約十日。
その期間中は英慶宮の属官たちが食事を運び、筆を制しない限り、一日中机にかじりついていたと言う。
博文は、早々に書き上げたらしい草稿を数枚めくると、あえて目は通さずに央晧の私室へと向かった。
既に央晧は英慶宮に仕えるごく少数の宦官によって身なりを整えられていたが、いささか睡魔との戦いは続いているようだった。
「おはようございます、太子。李梓殿が例の書物の原稿を書き上げられたようです」
「……本当ですか!?」
一気に目が覚め、博文に顔を向けようとした央晧へ、年老いた宦官・懿栄が「動かないでください」と諫めた。
宦官――去勢された男性官人は、皇帝や皇太子、後宮の妃や公主らの衣食の管理などを職務としているが、人材によっては官人同様、政を司る宦官も居る。
央晧は宦官を積極的に雇用しておらず、幼い頃から世話になっている宦官のみを側に置き、実務の側近は官人を雇用していた。
肩甲骨あたりまで伸びた髪を半分がまとめられ、残った髪は背中をたゆたう。後はまとめた髪を冠に収めるだけであったが、央晧は我慢できずにそわそわしていた。
「殿下は本当に歴史がお好きですね」
懿栄が髪を束ね終え、「終わりましたよ」と央晧の肩を叩いた。
「ありがとうございます、栄!」
片付けをしている宦官たちを横目に、央晧はぴょんと椅子から立ち上がる。博文の元へと向かい、腕の中にある紙の束に目を輝かせた。
「書局に出す前に、太子も一通り確認をいただけますか?」
「……っ! はい!」
今の反応は取り繕うことない”素“の央晧だ、と博文は微笑ましく思った。
草稿を手渡すなり、目を忙しなく動かし始める。一枚、また一枚と頁をめくっていく。
しばらくして読み終えた央晧は、ほぅと息を吐きだした。
「……これは、確かに大発見ですね」
原稿から目を離さなかった央晧が、一瞬目をぎらつかせる。
先手を打たれていたため、書局についてはあまり機嫌がよくなかったが、一矢報いるきっかけを楊武が作ってくれたようだ。
博文はひっそりと胸を撫で下した。
「では、こちらを謁見後に書局へ提出してまいります」
「よろしくお願いします。博文」
央晧は朗らかな笑みを浮かべ、再度身だしなみの確認に、宦官の元へと向かった。
央晧を見送ると博文は草稿を束ねなおし、早朝の謁見へ向かうため、英慶宮の属官たちを呼びに広間を目指した。
央晧はその後、いつも通り楊武抜きで朝の謁見へと向かった。
つつがなく日課をこなし、英慶宮に戻る途中で王氏に呼び止められた。
「殿下、お呼び止めして申し訳ございません」
「王氏からお声かけいただくなんて、珍しいですね? 如何されましたか?」
「書局より書物を刷り終えたと連絡がありましたゆえ、後程お届けに向かってもよろしいでしょうか?」
「今日は特に急ぎもありませんので。いつ来ていただいても大丈夫です」
口角を上げ、微笑む央晧に「ではなるべく早めにお届けにあがります」と王氏は答えた。
「陛下より表題をお聞きしていました。楽しみにしています」
央晧の返答に満足した様子の王氏は、自慢の髭を一撫でする。その後、両手を組んで一礼すると、王氏は部下を連れて去った。
「博文殿が李殿の原稿を書局に持って行かれましたし、どちらの書物も楽しみですね」
後ろに控えていた六人のうち、劉巴が弾んだ声で話しかけた。
央晧は笑みを浮かべ、振り返ると王氏の背中をしばし見つめた。
「ええ、楽しみです」
彼の言う、根本を崩す何かが。




