捌:「前寛抹殺論」
央晧が退出した後、楊武は机に向かったまま呆然としていた。
膝におかれたこぶしは力んでいるものの、視線は虚ろで、口も真一文字に結ばれている。
ぐるぐると頭で反響されている『前寛抹殺論』の題目。それは孫師父が存命時に考えていた仮説と全くの同一であった。
その当時はまだ、史料となる青銅器もなかったので、『史誌』において寛王朝が神代同様、神格化されていた可能性が示唆されていた。
神格化される理由として、楊武が髪を切るのを拒んだ「孝」の思想を広めた思想家が、厚く前寛代の摂政を崇めていたと言う、大きな要因があった。
「孝」の思想が当たり前となった世の中、信仰者はその祖師がいかに高尚かつ秀でた人間であったかを後世に残すため、様々な伝承を付随させた。
その結果、祖師は逸話が付け足されていくうちに異人のような見た目で歴史に刻まれた。
寛王朝に対する評価も同様で、“祖師が仰いだ時代”と言う要因によって、信仰者たちから「理想の国」として棚上げされるようになったのではないか。
加えて康に勝利するまでの寛王朝の経緯の不明瞭さも、前寛と言う王朝が幻と言われる所以であった。
康代には諸侯として名前が挙がってはいるが、定住していたという確かな記録はない。また、康と戦って勝利した銘文を持つ青銅器は発見されているが、具体的な日付など詳細はわからない。
師父はその空白を埋めるために、以下の仮説を作り上げた。
寛は元々西方の遊牧民で、異民族からの圧迫によって居場所を失った結果、東に追いやられた。そして新天地を求めて康と戦い、一帯を平定し定住して初めて寛と言う国が建国された。建国された年代こそ、後寛王朝の成立する時代にあたる。
そして、康滅亡から前寛代にあたる空白の時代を、後世の人々が穴埋めで架空の王朝を作りあげ、以後「理想の国家」として祭り上げていったと言う筋書きだ。
しかし、この仮説はある程度筋が通っているものの、確証付けるには弱く、まだ推測の域を達することができなかった。定住していた記録はないが、逆に遊牧民であったと言う記録もない。想像力で補った仮説とも言えるだろう。
故に、この仮説は一時保留となり、師父の自室で保管されていたはずだ。
「なぜ王氏はこの仮説を知っていたんだろうか……。身内の裏切り、と言うには知っている人間があまりに少なすぎる……」
実際、この仮説を立てるにあたって参加していたのは、楊武と師父の一番弟子と言われていた兄弟子だけであった。
しかし、楊武は一の兄弟子が目の前で焼け爛れていくのを目撃している。彼に背中を押され、楊武は今もこうして生きているのだ。
「もしくは小間使いか? それとも師からその仮説を事前に聞いていた……?」
あまりに情報が少ない、いや、故意に炎の中に消されているため、結論が上手く見いだせない。
楊武は腕を組んで唸り声をあげていたが、ただ一つ、わかったことがあった。
「つまり、王氏は国史編纂と一緒に『前寛抹殺論』も狙っていたということか」
考えとしてかなり前衛的であることは自分たちもよく理解していた。出土資料の無い今、これ以上の推論は妄想でしかないと判断され、この話は一度保留になった。
そして、師父や兄弟子たちも待ち望んだ新しい出土資料が、先日発見された青銅器群である。
結果として、歴史は覆らなかった。
武王は康に勝利し、前寛は間違いなく穆王まで系譜通りの王政が続いていた。『史誌』の言う通りだったのだ。
しかし、この結論に至るまでに師父や兄弟子たちが、どれほどの時間と労力を費やしたか。王氏は知る由もないであろう。
「師父の苦労を、これ以上横取りされたくないよなあ……」
肩の力が抜けたのか、楊武は背もたれに倒れかかる。
ぼんやりと天井のしみを数えること数秒。楊武は足を振り上げて、その反動で机に前のめりになった。
頬と両手で叩くと、机の端に追いやっていた原稿用紙に手を伸ばす。
筆を取り、先日の青銅器群の拓本を見つつ、表題を書き上げた。
『微氏青銅器群から見る『太公史誌』の真実性についての一考察』
――それが反撃の烽火につけられた名前であった。




