傾城美姫
かつての西洋諸国との戦いによって落城させられた城跡の地下通路。湿っぽく薄暗い場所ではあるが、確かに身を隠すには都合がいい場所だ。そして、何よりも西洋諸国に落城させられたという点が攘夷浪士の鬱屈したたまり場になんとも似つかわしい。だが、そんなところに影を潜めながら怯えて暮らすのは限界があるだろう。お凜はそれを予測して、ここから宿を移しながら転々とし、時には野宿をしながら、街を出るというつもりらしい。しかし、俺が分からないのは彼女がそこまでする意味だ。
「……、お凛、もういいんじゃないのか? あの交渉の場から、あの女を助け出した時点で、あの女の命は救われた」
「まだよ、言ったでしょ? あの娘はこの国で生きている限り商品だって……、それに……見て」
お凜が顎で指した先には、寝息をすうすうと立てて眠るフローラの姿が。
「警戒心というものがないのか。それとも……あたしたちにそれを抱く必要がないと悟ったのか」
「……前者だろうな、俺はまだお前を信用していない」
そう言うと再び俺の右手を掴んで、関節をあらぬ方向へと。
「いででででっ! な! なんだよ!」
そしてまたこいつは、返事というものをしない。
「あなたが起こしてあげたら? もう出かける時間だって……」
さらに話題を切り替えてごまかそうとする。時刻は丑三つ時を過ぎたぐらいだろうか。街の皆も、俺と同じくゴロツキも全てが全て深く寝静まったこの時間に宿を移そうとするのは賢い選択だ。それに俺のような夜行性生物はそろそろ腹がすくころだ。鼠の這い回る薄暗い地下道に、食糧の存在は期待できない。腹が減って動けなくなる前に、移動しようというわけだ。
「わかったよ」
近づくとこの島国にはない香水の香りがする。花の香は、俺には馴染みのない匂いだ。身を隠すために草村に潜り込み、青む草の匂いは嗅ぎ慣れているが、俺には花を愛でる習慣はない。それでも、このフローラという女から立ち込める香は、この島国にはない異国の花の匂いがした。近くで見ると、その透き通る肌の白さに吸い込まれてしまいそうだ。もとの肌の色と、その奥で確かに息づく紅い血が彼女の頬を桜のごとき薄桃色に染め上げていた。その色彩を邪魔する、西洋人に多く見受けられるそばかすも、ほくろもない。つくりもののように洗練されていて、そうでないということを寝息の慎ましやかな音色が告げている。琥珀色の髪が闇の帳を、松明の灯を受けて、照らしている。まるで彼女自身が光をもって輝いているかのような錯覚を受ける。娼婦でありながら、神々しささえ感じてしまう。
「おい、何見とれてんのよ」
後ろからお凛の声が聞こえたかと思うと、背中に鋭い痛みが。お凜の手は線が整っていて、指も細いが、その張り手はまるで鉛の棒でぶっ叩かれたかのような痛みだった。
「っだぁ! 殴ることないだろうがっ!」
「うるさい! 早く起こしてって言ってるのよ!」
お前もこの女のこと、「あの娘、可愛いし」などと言ってただろうが。心の中で悪態をつきつつも、それを口に出せば、また鉛の棒が飛んでくる。小さく咳払いをして、肩を揺さぶる。すると、フローラは重たい瞼を開けて、瑠璃色の瞳を寝起きの涙で潤ませながら、こちらに視線を向けた。
上等な宝石細工で、人や動物の瞳を表す部分に宝玉をあしらうのはよく見受けられる。まさしくそれに、生命の息吹が宿ったかのようだ。目と目があえば、それを眺めている自分がどこか場違いに思えて、思わず目をそらす。そっぽを向いた目の代わりに、彼女の面と向かった右の耳。そこに美しい声が入り込み、鼓膜を通して俺の心臓を震わせた。
「……、イッツ・モーニング?」
たった数十分の睡眠の後の寝覚め。まだ浅き夢の半ばなのか、口調がはっきりとしていない。どちらにせよ、俺はモーニングと言えば礼服のことしか知らない。
「目覚めの時間だ、行くぞ」
首をかしげるフローラ。この国の言葉のひとつも知らない女を、この国の商人に貢がせる。ならばこの女はどういう思いをさせられるのか。わけも分からぬまま、身体をまさぐられる。そうとしか思えないし、この女もそうされるために取引させられたのだろう。考えただけでも、虫唾が走る。そして、それを表すかのようにフローラは、着物の襟元を自らの右手で掴んではだけさせようとする。
思わずその手首を掴み、首を横に振って制止させた。すると、フローラは静かに安堵の笑みを浮かべる。今まで彼女の顔色からは一切浮かびあがってこなかった感情だ。
「……呆れた。あれだけ商人を拒絶しておいて、やっぱり売春婦の生き方が、身に沁みついているのか……、悲しい性ね」
「どこの国でも、花の香は人を惑わすためにあるものというわけか」
お凛と俺の会話を、フローラは首をかしげながら聞いている。先ほどの行動は、異国で生きて行くためには、口を開けば衣服を脱げと教え込まれてのことだろう。そうしてこの女は、咲き乱れて枯れて行く生き方しか教えられてこなかったのだ。その扱いは吉原の遊女をしても残酷だと言えるだろう。
「いっそ、手でも付けちゃえば? そこらで変な男に拾われるよりマシかもよ?」
「何を言ってるんだ? この女を守りたいって言ったのはお前だろ?」
「最初に助けようとしたのは、あなたよ。あなたもそんな気がないならとっくに、帰っているはず……」
「お、お前が引き止めたからだろ? 節操のない奴だな」
「……、この娘が警戒心を解くあなた以上の誰かがいるのならね」
とそこでお凜の目の色が変わる。普段は読めないような顔つきで、真意を悟られまいとしているのにも関わらず、ときに目つきや表情で納得させようとしてくるものだから、戸惑ってしまう。お凜は、フローラを守るということにもっと長い視点を置いていた。女子として幸せとは、良い伴侶と結ばれることだ。だが、それは売春婦であるフローラにとっては、絶望的と言ってしまってもいい。それならば、ここで手を付けてしまったほうが、少しは保証できると。そこまで、このお凛という女は会って間もない俺に信頼を寄せているのか。ある程度までは合点が行くが、最後に何か読めないものが残る。やはり、彼女のことは分からない。
「戯言もたいがいにしろ」
つまらないなあとでも言いたげな膨れっ面を俺に差し向けたあと、お凜は勝手に壁の燭台に掛った松明を左手に、その足を進める。どうやらこの地下道は、城が襲われた際の秘密の抜け道でもあるため、地下をたどって行けば、通り抜けられるようになっているらしい。俺は、困り顔をしながら、立ち上がっておろおろとお凜の背中を目線で追うフローラの右手を引いて歩き出した。
ぴしゃり、ぴしゃり。
歩くたびに地面に浅く張った水が跳ねる。湿り気とすえた匂いが強くなったかと思うと、逝き倒れた人の屍が。日が浅いものもあり、紫色に変色した肉から骨が剥きだしになったりしているものもある。俺やお凛のような、汚れた世界を知るものならば、見慣れているかもしれないが、フローラにそれを見せるのは憚れる。かと言って足元のおぼつかない中で、彼女からさらに視界を奪うのも酷な話。結局、できるだけ早く、この死体が転がる不気味な地下道を抜けるべく、足を速めるより他はない。屍は大きく甲冑に身を包んだ白骨化したものと、まだ肉がついていたりする襤褸切れを身にまとったもののふたつが見受けられる。前者は戦火の中で命からがらここに逃げ込んだものの、息絶えたもの。後者は後に浮浪者がたまっていたところで飢え死んだのだろう。
ぴしゃり、ぴしゃり。
ちゃぷり、ちゃぷり。
奥に進むと浅く張っていた水が、水位を増してくる。草鞋を湿らす程度だったのが、くるぶしに纏わりつき、ふくらはぎを這い上がり、膝をも濡らした。さらに水位は上がり、泳いだ方が楽かとも思うが、右手に持った松明がそれを制止させる。ここで灯を失えば、闇に閉ざされる。人の住んでいる気配があったところまでは随分と来た道を戻らなければならない。分岐のない一本道の地下道とはいえ、灯を捨てるのは危険すぎる。水の抵抗を脚に感じながら歩みを進める。水底に泥がたまっており、ぬるぬると纏わりつきながら、身体を冷やしていく。
「気を付けろ。脚を取られるな」
異国の言葉で、呼びかけたいが、そんな知識は俺にはない。
ばしゃり、ばしゃり。
水の中で脚を進めると、否が応でも水音が鳴る。先頭を行くお凜の水音。そしてフローラの手を引く、俺と彼女の立てる水音。だが、そのどちらにも属さない奇妙な、まるで調子の裏を取るかのようなタイミングで聞こえる音の存在に気づいてしまった。
「待てっ!」
「どうしたの……?」
この日の光のない地下の水溜り。地下道の入り口こそ、鼠や虫、暗闇を好む者どもが這いまわっていたが、鍾乳洞の奥に命の気配がないように、ここまでくれば自分たち以外の命が息づいている可能性も少なくなってくる。そして、立ち止まると息を合わせるかのようにして、その不協和音も止まる。何かではなく、誰かだ。そう悟った。
「……、誰かにつけられている……」
障害に思えた水が、俺に情報を与えてくれた。
「ば、馬鹿な……速すぎるっ!」
速すぎるというのは、情報が伝わる速さの話だ。あの成金の屋敷に忍び込んでから、数時間と経っていない。忍びとして情報を流す手足として、働いているお凜をしてもそう言えるほどの時間で、居所がばれてしまった。
「……」
互いに息を潜める。お互いにこの場所にいることはばれてしまった。となれば、あとはどちらが先に手を下すかだ。お凛は脇差を引き抜き身構えて、俺の目の前に背中を向けて躍り出てきた。フローラの手を引いているという俺の不利な状況を庇うつもりらしい。女伊達の世話になってばかりでは、こちらも癪だが、右手に松明を持ってる今、両手をふさがれた俺に戦力は望めない。だが、身の危険はそれでも迫っている。歯を食いしばり、フローラの手首をよりいっそう強く握りしめる。すると、今まで手首を握るばかりだったフローラの右手が俺の手首に絡みつき、しっかりと握り返してきた。俺を信頼するというのか。
「……、どこにいる……」
お凜のその言葉に、返事を返すようなものはいない。戦の前に名乗りを上げるような潔い時代遅れなどこの世にはもういない。わずかな動きを増幅する水音だけが静寂の暗闇の中に響く。冷たい空気と冷たい水が体温を奪い、お凜は少しずつ肩の動きが大きくなっていった。冷える身体を、温めようと動きが大きくなっている。そして、相手が姿を現さないことへの苛立ちも垣間見える。俺を庇っているということも意識してしまっているのか。視野を広くしよう、広くしようという意識が半ば焦りとも思えるほど強い。どうやら、俺と同じく、自分を守る戦いは慣れていても、人を守る戦いには慣れていないらしい。
息を潜め、水の声を聞く。お凛とフローラの動きから来る波が、必要な情報を攪乱させて来る。だが、神経を研ぎ澄ましさえすれば、不可能ではない。闇に潜み、こちらを伺う人物の波を嗅ぎわけることは。
「……っ!」
そして、その発信源の居所を、俺の感覚は捉えた。
「お凛っ! 下だ!」
叫んだ瞬間に、水面から黒い影が現れ、お凛の脚に絡みつき、彼女を押し倒した。さらに黒い影は浮き上がってくるお凛の身体に覆いかぶさり、水底に沈めようとする。俺はフローラの手を振りほどき、その黒い影に体当たりを喰らわせる。水面にばしゃばしゃと音を立てて、倒れこむそいつは忍び装束に身を包んだ男。
「馬鹿、フローラから手を離すなっ!」
態勢を立て直したお凜が、すぐさま丸裸になってしまったフローラの手を掴み、俺に怒号を浴びせる。助けてもらっておいて、お礼もなしにその言葉が口をついて出るか。と思ったのも束の間、相手が体勢を立て直すのも速い。振りかぶった刀の斬撃を後ろとびで避けようとするも、軽く刃先が身体に触れ、かすり傷がついてしまう。水の抵抗で身体がうまく動かない。この状況で、松明を持ちながらでは防戦一方だ。お凜が持っていた松明は、水に沈められて灯を失ってしまった。残るは俺が持つ灯の一本。
「うるせえよ」
お凜に向かって松明を投げる。それをお凜はしっかりと受け取った。
「灯を頼むぞ。けりをつけてやる」
灯をお凜に託し、懐から小刀を抜き、黒い影に斬りかかる。鋭い音が暗闇の中に反響し、刀身に明らかに差のある刃同士がこすり合わされて、きりきりと鋭い音を立てる。だが、その刀身の差は、仇となる。小刀は身を軽くし、相手に負傷させて、その隙を見て逃げるための武器。相手を仕留めるには至極向いていない。当然のごとく、相手の得物に跳ね除けられる。そしてよろけたところに、黒い影が飛びかかる。
「危ないっ!」
その影の姿を捉え、俺は水中に潜り、黒い影を上から取り押さえ、背中に刃を突き刺した。血がほとばしり、噴き出すもそれで止まるような相手ではない。その背中はがばりと起き上がり、俺の身体を巻き込んで再び水中へと引きずり込む。濁った水の中で相手の、掌が大きく広げられ、俺の顔を鷲掴みにし、水底へと後頭部をこすりつけられる。
息ができない。
もがき苦しみながら、その腕を引っ掴む。だが、引き剥がせない。分厚い革製の手袋に包まれた、掌には俺の尖った犬歯を突き立てることすらできない。そこで、相手の脚に脚を絡ませ、引き寄せる。よろめく相手の股の間に身体をもぐりこませて、息が切れる最後の瞬間に、ふくらはぎに小刀を突き刺し、水面から顔を出して息を吸うとともに、背中の傷口に爪を立てた。耐えがたい激痛に、ついに影は声を上げる。さらに、くるぶしを足で払い、崩れた背中を足で踏みつけて、右手から獲物を奪い、真っ直ぐに背中を貫き通した。紅い血が、濁った水に溶けて行くのが、松明の灯の中で見えた。
「……、どうだ?」
振り向いてみせると、お凜は胸を撫で下ろし、小さく「バカ」と呟いた。助けてもらっておいてそれはないだろと笑ってみせる。
「怪我してるのに強がってんじゃないわよ!」
半ば怒ったかのような口調。少し涙声になっているお凛。そこまで心配することか。ただのかすり傷だというのに。ばしゃりばしゃりと水音を立てて、お凛とフローラのもとへと近づくと、お凛の身体を跳ねのけるようにして、フローラが俺に向かって抱き付いてきた。娼婦が男にそうするようにではなく、本当に俺の安否を気遣ってくれていたことが、言葉は通じなくても彼女の体温から伝わってきた。
「……、……し、心配かけんじゃないよ……、こ、この娘に……」
なぜか声を震わせながらお凜が、灯を持って、俺が沈めた黒い影のもとに向かう。なぜだか、俺と目を合わせようとせず、明らかに意識して避けているかのような素振りだ。
「お凛、どうしたっていうんだ?」
「……、うるさいっ!」
素っ気ない言葉遣いで、何かを振り払うように、右手で空を斬る仕草をする。そして、彼女は水底から黒い影の亡骸を引き上げて、革製の手袋を引き剥がし、手の甲を確認する。そこには見覚えのある家紋が刺青で掘られていた。
「……、それは……?」
「徳川家の家紋よ。御庭番ね」
御庭番と言えば、かつての徳川家につかえていた情報収集のための忍びの組織だ。しかし、討幕とともに解体され、所属する者は散り散りになったはず。
「元来、忍びはあたしのように、特定の主というものを持たないし、群れることもしない。その中で御庭番は少し違った立ち位置だった。彼らには将軍という主がいて、組織という群れがある」
「でも、それも江戸幕府が機能していたころの話だ。今は違う」
「……、いいえ、まだ御庭番は残党として息づいている。武士としての立場を追われた華族や、成金どもに買われながら暗躍している情報の伝わる速さで確信した……」
「確信したって何をだ?」
だが、まだ組織の残党は息づいている。末端はそれぞれ、攘夷浪士や華族など世に恨みのある者どもや、成金に買われながらも、全て情報網としてつながっているのだという。つまりは、主が相応しくないと思えばいつでも、主の首を取り、より有利な、別の主へと加担する。そのための人員の流動さえも円滑に行われる、厄介な組織となっているとのことらしい。
「……、あの夜の交渉の場にいた芸子は、組織ごと買われた御庭番のうちのたったひとり。そして、こいつも……、組織の中の情報網を使えば、矢のような速さで情報をばら撒ける。あの芸子……どうやら、あたしたちが、想像していたよりも何倍も話を大きくしてくれたようね。
今、あたしたちを狙っているのは、組織の全てかもしれない」
「……、この女ひとりにか、冗談よせよ」
「江戸の政権が何度も、家臣の謀反の危機に晒されそうになったことがある。それを防いできたのが、色殺術なる暗殺術を叩きこまれた花魁だった。生皮の下に刃を忍ばせて、たとえ一糸まとわぬ裸でも、得物を隠せるようにしたとか、そんな女はどれも美しい娘が選ばれた傾城の美姫……、この国を揺るがして来たのは女の色なのよ」
政治の裏という裏をここまで知るお凛。そこで俺は勘付いた。
「……、まさかお前も御庭番か」
「元ね……」
お凜は小さくため息をつき、右手を覆っていた革の手袋を外した。線こそ綺麗に整っていたが、その手の甲は、痛々しく焼けただれていた。組織からの決別を表すべく刺青を消したのだという。自らの手で皮膚を焼くことによって。
「……、お、お前……」
「忍びに生まれて、綺麗な身体でいようだなんて諦めたことだけどね……。この手は自分では見たくない……。女ってのは厄介な性分だと今でもつくづく思うよ」
今でこそ組織から身を退いているが、彼女の忍びの術は御庭番で培ったもの。だからこそ、自分を襲った男がかつての仲間であると察しがついたのだろう。そして、俺を含めて自分たちに刃を差し向けようとしているのが、御庭番の残党組織全てであることも。組織の性質を熟知する彼女だからこそ勘付いたのだろう。
「……差し詰め、この忍びは警告のための差し金ね……。こいつは、ここであたしたちを殺すつもりだったかもしれないけど、こいつをよこした側の意図は、ここであたしたちが組織全体から狙われているということを身を以て伝えるため……。これで、後には退けなくなってしまったわね」
そして、その一言で俺はもとのゴロツキの生活に戻れなくなったのだと確信する。俺は彼女が言う組織の大きさを知ることもないままに、その根をかいくぐりながら、守らなければならない。この俺のぶっきらぼうな手を握りしめる、青い瞳の女のことを。
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三味線の音が響く中、空けはある一人の人物と向かい合って杯を交わしていた。身なりは空けと違い、上から下まで武家の正装で固めており、比べるまでもなく、空けよりは良識というものがある人物に見える。瞳は鷹のように鋭く、眼に映るものは心根まで見通せてしまいそうだが、空けは全くもって能天気に酒をぐびぐびと音を鳴らして飲み干す。
「……、どうです?野呂間殿、うちの駒は中々に良い働きをするでしょう?」
「ええ、誠に将軍家に仕えてきた御縄番の名前は伊達ではないのう」
また、三味線を鳴らしている芸子の肩が静かに震える。
「これ、そこ。なにか可笑しなことでもあったか」
「い、いえ……、めっそうも」
とっさに芸子が平静を取り繕ってみせたことなど、バレてしまってもおかしくはないのだが、そこは底がないほどの空け。何ひとつ疑う様子すらなく、へらへらと笑いながら、話を進める。
「して、今日はいったい妾に何の用じゃ。浅野永勇よ」
空けにしては珍しく、名前を間違えていない。この永勇という男。この成金の空けに御庭番の組織を売りつけた張本人なのだ。江戸幕府の解体とともに、華族になり、政治的権力を失った。その怨恨を腹のうちに抱えているとされる人物だ。
「風のうわさで、面白い話を聞きましてね……。琥珀色の髪に瑠璃色の瞳を持つ姫君がいると……」
間違いなく、フローラのことだ。永勇は、彼女の情報を既に御庭番から得ていた。もとより、御庭番の名前も間違えて覚えてしまっているような男を主としては、忍び達も思ってはいない。そんな事とはつゆ知らず、空けはフローラの存在がバレてしまったということにだけ焦りを見せる。酔いが回ったのか、焦っているだけなのか。がたがたとおちょこを揺さぶり、酒をこぼす。
「だ、誰からそんな話を、き、聞いたのじゃ!」
「風の噂ですよ。風の。何でもフローラという名前だとか……」
「ふ、フローラ……?そうか、フローラというのか……。それは、……それは良かった。フローラならそちにくれてやろう」
フローラという名前を聞いて、この空けすっかり胸を撫で下ろす。本当に底のない空けだ。空けの中では、未だに、琥珀色の髪に瑠璃色の瞳を持つ姫君の名前は、ズローラなのだ。つまりは、己が狙っている女と、永勇の言うフローラは別人なのだと思い込んで、胸を撫で下ろしたのだ。芸子の三味線も思わずこれには呆れて止まってしまう。
「な、なんじゃ……唄を忘れでもしたか」
「い、いえ……なんでも……」
「野呂間殿、今の言葉、誠にございますか?」
「あ、ああ……フローラなどと言う娘……琥珀色の髪だか瑠璃色だか知らぬが、大したことうない。そちにくれてやろうぞ」
空けが言ってしまった言葉に、永勇は心の中で喜びを噛みしめた。空けは何も知らない。とっくの昔に、御庭番を手足として使うどころか、自分が弄ばれているだけだということも。




