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揺訳 捜神後記/異苑  作者: ヘツポツ斎
異苑十巻 雑条
193/198

異10-02 顏烏・曹娥

○顏烏純孝

東陽顏烏,以純孝著聞。後有群烏銜鼓,集顏所居之村。烏口皆傷,一境以為顏至孝,故慈烏來萃。銜鼓之興,慾令聾者遠聞。即於鼓處立縣,而名為烏傷。王莽改為烏孝,以彰其行跡雲。


東陽とうよう顔烏がんうは、真心からの孝行こうこうで有名であった。ある日、多くの烏が太鼓をくわえて飛んできて、顔烏の住む村に集まった。烏たちの口は皆傷ついていた。村中の者は、顔烏のこの上ない孝行心のゆえに、慈愛深い烏が集まってきたのだと考えた。太鼓をくわえてやって来たのは、耳の遠い者にも遠くからその孝行の噂を聞かせるためであった。そこで、その太鼓が置かれた場所に県令府を設置し、「烏傷うしょう」と名付けた。王莽おうもうの時代になってこれを「烏孝うこう」と改め、彼の孝行の跡を顕彰したという。



○曹娥碑

孝女曹娥者,會稽上虞人也。父旴,能弦歌,為巫。漢安帝二年五月五日,於縣江溯濤迎婆娑神,溺死,不得屍骸。娥年十四,乃緣江號哭,晝夜不絕聲。七日,遂投江而死。三日後,與父屍俱出。至元嘉元年,縣長度尚改葬娥於江南道傍,為立碑焉。陳留蔡邕字伯喈,避難過吳,讀《曹娥碑》文,以為詩人之作,無詭妄也。因刻石旁作「黃絹幼婦,外孫齏臼」八字。魏武見而不能了,以問群僚,莫有解者。有婦人浣於江渚,曰:「第四車解。」既而,禰正平也。衡即以離合義解之。或謂此婦人即娥靈也。


孝行娘の曹娥そうがは、会稽郡かいけいぐん上虞県じょうぐけんの人である。父の曹盱そううは、琴や歌をよくする巫祝ふしゅくであった。

後漢ごかん安帝あんてい二年の五月五日、曹盱が川で逆巻く波の中を舟で進み、婆娑神ばさしんを迎える神事を行っていたが、溺死し、遺体も見つからなかった。当時十四歳だった娘の曹娥は、江のほとりを歩きながら大声で泣き叫び、昼も夜も泣き声が絶えることがなかった。七日後、ついに自ら江に身を投げて死んだ。すると三日後、父の遺体とともに曹娥の遺体も浮かび上がった。

元嘉元年になって、上虞県の長官であった度尚どしょうは、曹娥を川の南の道端に改葬し、そのために碑を建てた。

陳留ちんりゅう蔡邕さいよう、字は伯喈はくかい。彼が中原の難を避けての地を通りかかり、この『曹娥碑』の碑文を読んで、「詩人の作ったものであって、偽りや誇張はない」と評した。そして、石碑のわきに「黄絹こうけん幼婦ようふ 外孫がいそん齏臼せいきゅう」という八字を刻んだ。

後年、曹操そうそうがこれを見たが意味がわからず、配下の役人たちに尋ねたが、解ける者はいなかった。すると、川辺で洗濯をしている婦人がいて、「第四の車に乗っている人が解けます」と言った。間もなくその車に現れたのは、禰衡でいこう、字を正平せいへいであった。禰衡でいこうはすぐに、その八字を文字を分解・合成する方法で解釈して説明した。ある人は言う、あの答えを教えた婦人は、すなわち曹娥の霊であったのだと。




 後段は世説新語にも載ってるやつですけど、相変わらず「上虞まで曹操がいけるわけねーだろいいかげんにしろ」としか言いようがないのが楽しいです。ただ、答えるのが楊修じゃなくて禰衡なのが興味深いところ。これ以外にもいくつかの異聞があったりするんでしょうね。そして異聞が集まれば集まるほど、その折々の人物評も見えてきたりするんでしょう。そうしたのをうまく採集できるのも面白そうです。なかなか難しいですけど。

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