第七章 大和川付け替えと新田 その三
川の付け替えた後は、古い川筋は埋め立てられます。その時に使う土は新しい川を掘ったり、川底ををさらった砂を使います。自然と綿作に適した砂礫土の土壌になり、当然のように綿を作ったという話を語っています。
勘定奉行萩原重秀は、大和川付け替え事業の重要性にも目を付けていた。
若い頃に大坂の検地事業に携わり、畿内の地理に精通した重秀ならではの英断だろう。
重秀は佐渡の排水工事の後で、畿内に立ち寄っている。
こうして、日本一忙しい勘定奉行荻原重秀の肝いりで、付け替え事業が一気に加速することとなった。
勿論、万年長十郎という、役者のような名前だが、優れた治水の専門家が現れたのも大きかった。
とここで、あることに気付いてしまった。
実は万年長十郎という名前が、『荻原重秀の生涯』の本中に上がっている。
重秀の、勘定方の同僚リストに見えた。
正確には少し名前が違い、万年七十郎となっていたが。十七歳の重秀の同期として同じ時に、平勘定に任命されている。
万年という姓は祖先は公家になるが、当時でも珍しいのではなかろうか。、同一人物と思いたい。
早くから大和川付け替えを想定し、二人もしくは仲間内で、計画を練っていたのだろうか。
あるいは、この国の治水事業について、勘定方の中で、熱く議論を重ねていたのかもしれない。
もしそうなら、国を思う若者たちの情熱を感じさせられる。
お手伝い普請として、播磨の国を中心に岸和田・明石・大和高取・丹波など計五カ国が担当している。
幕府だけでは手に余る国土保全事業を、各大名家に負担させ、ついでにその力も削ごうと工夫した。
このお手伝い普請という仕組みも、このころが始まりという。
勘定方として、幕府の財政難に立ち向かい、互いに知恵を絞って悪戦苦闘した。幕府側の立場から見れば……だが。
残り半分は、幕府大目付肝いりの公儀普請として、競うように工事が行われる。
結果、驚異のわずか八カ月で完成させた。重機も無い時代に。
十月十三日、付け替え地点の堤防を切り崩し、旧の川筋をふさいだ上、水流の方向を現在の川筋に変えられて竣工した。
旧の川筋をふさいで、新しい川筋に変わる地点を築留という。
川の水がせき止められ、水不足になる旧大和川流域の田畑のための用水路もつくられた。
築留樋組という、河川管理局のような組織を作り、用水管理が行われた。
今も付け替え地点跡には、川を守る地蔵尊が祭られている。
世界かんがい施設遺産にも選ばれており、その業績は世界でも認められる。
それでもこのために、今の柏原市・藤井寺市・松原市・堺市にあった多くの村々が農地を失い、移住したり分断されたという。
一方で、付け替えにより埋め立てられた地には、多くの新田が開発された。
入札方式がとられ、資金豊富な庄屋・豪農・大商人中心に、新田の権利が買われている。
新田には、これに関わった者の名前がついているものが多い。
有名なのは、大商家鴻池家所有の鴻池新田だろう。
これを含め今もなお、多くの地名が残っている。
私も子供の頃、大阪市住吉区に住んでいたことがある。
この時の町名が、加賀屋だった。大店の加賀屋が所有する新田という事になる。
次いで庄左エ門町という地名が続いたのは、加賀屋関係の、庄左エ門さんの土地ということになる。
結果、この新田を入札で売った金で、幕府側の公儀普請費用のほとんどが賄えた。
総工費七万一千五百両あまり、一両を今のお金で十三万から十六万として、約九十三億円から百億超。そのうちの約五十億円が、入札分からまかなったことになる。
それ程新田は、おいしい事業だったという事に成るが…。実際は倒産するものが出るほど、赤字だったらしい。
新田には年貢諸役免除がついている。税金免除という事だ。
但し、一定期間に限られ、四年後には年貢を毎年納めなければならない。
今でも持ち家奨励で、一定期間のローン減額制度なんて…おいしそうでどっこい!期限が終われば返済金額は元に戻り、世の中不景気でローン地獄…なんて落とし穴みたいな政策もある。
いつの時代も政治のやることは変わらない。
こうして、旧大和川と新大和川に囲まれ埋め立てられた、若江・渋川・志紀・河内郡の一部を含めた地域は、大きく新田として生まれ変わっていった。
但し、土壌も変わってしまう。
埋め立てには川底を掘った土を使う。川遊びを経験すればわかるだろう。
川に運ばれてきた砂礫土がほとんどで、田畑にあるような土はない。
水はけが悪く、礫交じりで養分も少ない。
地域によっては、川筋も変わったことで、水不足という問題も起きる。お世辞にも米を作るのに適した土地とは言えない。
但し、砂壌土とは前にも触れたが、綿作り向きの土壌だ。
砂だから水は貯まらない。水も足りない。
必然的に、綿作中心になる。
そこで、米を作るために工夫を凝らしたのが、半田(掻揚田)だった。
田んぼの土を掻き揚げて高低差をつけ、上の畝に綿を、下の湿田に水をためて、稲を植える。
それでも、田の等級は下の方である。綿を作らなければ、とても生きてはいけなかっただろう。
荻原重秀がしつこく出てきますが、大和川を語らずに河内木綿は語れないので、仕方ありません。これで、七章は終わります。次からはいよいよ村の長老相手に、あの手この手で丸め込んでいきます。
八章からは三人を中心に舞台は廻っていきます。