LV.0の病院生活スタート
無事出産を終えた私は、用意された朝ごはんを食べてベッドで横になっていた。
疲れ切っていて食欲はあまりなかったが、食べ始めるとそれなりに食べられる自分の食い意地を恨めしく思いつつも、出産してお腹の中身がなくなったんだからかなり軽くなったんじゃない?(希望) という思いでいた。ただし、この希望は、後日体重計を前にして脆くも打ち砕かれるものなのだが、この時の私は自分の体がすでに出産前に戻ったと勘違いをしていた。
そして、食べるものを食べると、人間というものは生理現象が起きる。
……トイレへ行きたい。
そう思い、トイレへ行こうとすると、助産師さんが大丈夫か聞いて来た。えっ。普通は行けないものなの?
横になっているぶんには、出産の苦しみから解放された事により快適で、全然理解できなかった。しかし起き上がった瞬間、言われた理由がすぐに分かった。
「うっ」
くらくらくら。
世界がいきなり回り始めたのだ。地球はそれでも回ると偉い誰かが言っていたのは本当らしい――いやいやいや。
何だコレ。
今までも眩暈を起こした事はあったが、ここまで酷いのは初めてだ。貧血なのか、血圧の問題なのか良く分からないが、とにかく回る。
「車椅子で行ける?」
「が、頑張ります」
うん。それでも私は行きたい。頑張れ私。
車椅子ならともがくが、そもそも体を起こせず、看護師さんと旦那の二人がかりで車椅子に無理に乗せてもらった。しかし正直トイレの便座へ移動できると思えない状況だ。気持ちが悪くて目を開けていられない。
「ご家族の方は一度外へ出てもらえますか?」
こうして私は、生まれて初めて、尿管カテーテルのお世話になった。……うん。すべてを出産時にさらけ出したとはいえ、これはキツイ。出産とは綺麗な物ばかりじゃないというか、基本綺麗ではなかったなと気が付いた瞬間だった。
誰だ。出産は生命の神秘的だと、綺麗なイメージを持っていた奴は――私ですね、分かっています。
そして両家の両親が息子に会いに来て、帰って行き、その日はゆっくりとベッドで休んだ。
夕方ぐらいになると、何とか自力でトイレにも行けるようになったが、今度は痛みに呻く事になった。
「うぐぐぐっ」
ベッドで横になっているぶんには特に問題がないのだが、立って歩くと冷汗が出るぐらい切られた部分が痛むのだ。自分では見れない部分な為どうなっているのか確認できないけれど、正直縫い傷なんて見たらさらに痛くなりそうだ。
……明日には少しは良くなっているよね。うん。いや。こんな動けないなんて事はないよね。
痛みに泣かされながら、その日は息子の事も忘れ、とにかくゆっくり休んだ。
◇◆◇◆◇◆
二日目。
「……やっぱり痛い」
歩き方がペンギンになっている自分に苦笑いしつつ、まさかずっとこのままじゃという不安を考えないように頭の片隅に押しやった。
これまで出産経験の人の話はいっぱい聞いたけど、普通分娩で産後に動けなかったなんて話、一度も聞いてないし。うん。大丈夫。大丈夫――
――じゃ、ない。
そう気が付いたのは、トイレへ必死に移動している最中だった。
痛い。なんだ、この地獄の一丁目は。トイレが病室内にある理由がよく分かった。この状態で共同へ行って下さいと言われても無謀に近い。今はたった1メートルですら遠く感じる。
さらに二日目からは、息子が病室にやって来た。同じ日に出産した人達と一緒に授乳についてとおむつがえについての指導を受けながら私は、あれ? 一番最初に出産終わったはずなのに、何か一番痛みを引きずっていないか? という少々情けない状況に気が付いた。
あれれーおかしいなーと遠い目をしながらも、看護師から3時間に1回、おむつを代えてから授乳するように教えられた。
……えっ。
授乳って、昼間だけじゃなくて、夜もあるの?
そしてさらに、夜も母子同室である事をこの時初めて知った。先に知っとけよという話だが、知り合いに聞いたとき、授乳室があってそこに行って授乳するのだと言う話を聞いていたので、この病院も同じに違いないと思いこんでいたのだ。
えっ。この痛みの中、息子と二人っきり?
大丈夫だろうかと嫌な汗が出てくる。痛み止めを昨日貰って飲んだけれど、全然効いていないのだ。しかも息子を授乳するのだけど、結構無理やり口を胸に押しつける感じになっており、息子が喜んで飲んでいる気がしない。
「吸ってもらわないとおっぱいが出ないからから。ミルクを飲ませるのは3時間置きだけど、おっぱいは何度も上げていいから」
……えっ。 息子、絶対嫌がっていますよね。首、のけ反ってますよね。何度も、これをやるの?
授乳クッションを使い息子に授乳するが、看護師監修の下だから上手くできているだけな気がしてならない。おっぱい、おっぱいと、普段だったら顔を赤くしそうな言葉の連呼だったが、私は赤くする事なく、不安で青くなりそうだった。
そして、私の予想は、しっかりと的を得ていた。
病室に来たけれど寝てばかりの息子に、無理やり授乳しようとするが、思いっきりのけ反られるのだ。その為授乳の時間が来るのが憂鬱になっていた。
「寝顔は可愛いんだけどなぁ」
生まれたての息子は、意外に毛深くて、テレビで見る赤ちゃんと全く違ったけれど、それでも可愛く見えた。小さな手には、当たり前なのだけれどちゃんと爪が付いていて、なんでもない事なのに凄いなぁと思えてくる。
それにしても、いまだに体力が戻らない所為で、何だか眠い。眠いのだけど、寝ようかなと思うと来客があり、それが終わると授乳時間が来る。
授乳もまだ慣れていない為、おむつを替えて、授乳をし、ブドウ糖液を温めて飲ませ、げっぶをさせるという作業が意外に手間取るのだ。
ご飯は上げ膳据え膳で、至れり尽くせりなのに、なぜか休めない。この3時間おきというのは、大変かもしれないなぁと思ったのは、まだ日が昇っている最中だった。本当に大変だと気が付くのは、夜からだった。
「ええええええええん」
えっ。何で泣いてるの?!
昼間はぐーすか寝ていた息子が、突然覚醒し泣き始めたのだ。何? 赤ちゃんって夜行性? とりあえず、おむつを替えて、授乳……でも飲まない。うん。分かっていたよ、お母さんは。
しかし、ブドウ糖液を飲ませてからまだ3時間経っていないので、飲ませるわけにはいかない。
とりあえず抱っこをしてゆするが泣きやまない。
あまりゆすりすぎると、揺さぶられっ子症候群っていうのになるんだよね? えっ。どれぐらいまで大丈夫なの?
どうしようどうしようと、とにかくゆするが、泣きやむ様子がない。やっぱり、お腹が空いてるのかな?
でもオッパイ飲まないし。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
何とかしてくれとばかりに泣く息子を前に、私の方が泣きたくなってきた。何が嫌なのか分からないのだ。
とりあえず、しばらく立って抱っこをしていたら、次第に泣き止んだ。よしよし、このまま寝ててねと、そっとベッドにおろそうとした瞬間だった。
「えええええええん」
のおぉぉぉぉぉ。
何? 何で、下ろそうとしたのに気が付いたの?
お母さん、色々痛くてとりあえず休みたいんだけど。
しかし、母の心、子知らずで、息子は「さっさと抱っこしろって言ってるんだよ」と言わんばかりに泣き叫ぶ。
仕方なくもう一度抱き上げゆさゆさ。
しばらくすると、ようやく授乳の時間に突入。中々加えないけれど、とりあえずオッパイを加えさせてから、ブドウ糖液を飲ませる。
哺乳瓶を口に入れた瞬間、欲しかったのはこれなんだよと言わんばかりにちゅうちゅう飲み始めた。
「……おなかが空いていたんだ」
うん。なら、ちゃんと好き嫌いせずにオッパイも飲んでね。
そう言いたいが、息子もミルクがまともに出てないおっぱいなんて飲んでられねぇぜと言いたかったのだろう。そしてこの、「飲んでぇー」、「嫌だってんだろー」のやり取りは、退院後も続く事になる。
しばらくすればブドウ糖液も飲み終わりようやく静かになった息子を寝かして、私もやっと休めると布団に横になった。しかし無事終わったと思ったのもつかの間、30分もしないうちに、再び息子が泣き出した。
「……今度は何?」
おむつは綺麗。ブドウ糖液はさっき飲んだばかりだからお腹が減ったわけではないだろうし。
何とか泣き止ませようとするのだけれど、全然泣き止む様子のない息子に、私は看護師さんにヘルプを頼んだ。
息子以上に私がパニックで、もうどうしたらいいのか分からないのだ。
夜中に呼びだしてしまってすみませんと謝ると、大丈夫ですよと、優しい看護師さんは息子の抱っこを変わってくれた。
「疲れたらソファーに座りながら抱っこしているのもありよ。後はタオルで包んであげると寝たりもするし」
独りぼっちで泣き続ける息子と向かい合っているのは、終わりがない迷路にいるようでかなりしんどかったが、ベテランの見方が隣にいてくれると分かるだけで、かなり精神的に救われた。
「体が辛いようだったらナースステーションで預かる事もできるけど、どうする?」
預かって下さい!
そう言いたかったが、入院期間は5日。長くても6日だ。これを過ぎれば、実家でお世話になるとはいえ息子の面倒は私一人で見なければいけなくなる。だとしたら、何としても、この短い期間の間に、息子の寝かしつけ方法を学ばなければいけない。
「もう少し頑張ってみます」
息子が可愛いから云々ではなく、これからの事が不安過ぎて、私は少しでも子育てをマスターしようと頑張る旨を伝えた。
夜中の1時をすぎた辺りで、ようやく寝た息子をタオルで包んだままベッドに置き、私は一息ついた。
「1日目を耐え抜いたら、2日目からはもう少し楽になるから。たぶんこのまま朝まで寝てくれるんじゃないかな?」
「はい。ありがとうございます」
看護師さんに助けられ、何とか初めての夜泣きを乗り切った私だったが、まだまだ心配でいっぱいだった。
それでも、この間だけですでに、休める時に休まないと、母親業に休みはないと理解した私は寝る事にした。そしてこの2時間後に再び息子に起こされてしまい、朝日とご対面する事になるのだけれど、そんな事を知らない私はベッドに入るとすぐに夢の世界へ旅立った。