エピローグ~2
会見を終えた朱音はその足で溝口の部屋に戻り、引き続き赤坂の訪問診断を受けつつ出産の準備に入った。食事やその他の世話がある為、当初の予定通り叔母の手を借りるのが最も安心できると判断されたからだ。
ちなみにルームランナーは溝口の部屋に運ばれ、朱音の運動不足解消に役立てられていた。また時折香織達も家を訪ね、しばらくは使用させて貰った。そうすることで話し相手となり、お互いのストレスや悩みを解消させていたのである。
やがて朱音は休暇を延長し、無事に元気な男の子を出産した。それからしばらくクリニックに入院した後、溝口を伴って東京へと戻っていった。子供の世話をお願いする為に、しばらく同居してくれるよう依頼したようだ。その際香織は別れを惜しみ泣いていた。
そうして時は過ぎ、外の世界では九割近く二回のワクチン接種を打ち終わった人達による三回目の接種も進んでいた。
そのおかげなのか分からないけれど、次々と変異株が出現しながらもコロナ感染者は少なくなり、政府も収束しつつあると発表。さらに飲み薬など新たな治療薬も開発が進んだ為、経済もコロナ禍以前の水準を上回るほど活性化した。
龍太郎達も比較的安心して外出できるようになったと思った頃には、涙も枯れてしまったらしい。また泣く気力さえ失った。
その反動もあってこのままでは体に良くないと、二人はようやく気付けたからだろう。体を動かそうと、まずは以前と同様に週二回の買い物から始めたのである。
さらには三年近く控えてきた外食や、散歩がてらに公園などへ出かける行動も再開し、買い出し以外でも月一回から三回は外出するようになった。家にいる時は引き続き家事を分担しつつ、その他の自由な時間はそれぞれやりたいことをするようになった。
妊娠中や流産した後は途絶えがちだった読書や、手芸をする時間も香織には必要だ。しかし龍太郎は、復職に向けての勉強を再開する気にはなかなかなれなかった。読書は始めたものの、将来に向けてのビジョンに疑問を持ったからである。
香織が妊娠している間、今後の経済的な不安はともかく出産後における生活について、龍太郎は様々な想像を働かせていた。
間違いなく子育てに関しては互いに苦労するはずだ。目の前で必死に生きているぞとアピールするだろう赤ん坊の世話が、何よりも最優先されるに違いない。夜泣きも経験し、香織共々寝不足になる時だってあると推測できた。
そうなると両親が家に居られるという利点は大きい。昼間の隙間時間を使って互いに声をかけ合い、昼寝をして何とかしのげばやっていける。子供は元気なはずだ。精神的なストレスだけでなく、相手をしていると肉体的な疲労も蓄積するだろう。
互いに四十半ばを過ぎているのだからそれはやむを得ない。けれども疲れたら無理をせず休むという原則は、子供が生まれる前から実践していた療養生活と何ら変わらないのではないか、と考えられるようになった。
これまでは二人共が同じタイミングで体調を崩したり、眠くなったりするケースは全くなかった。けれども育児をしていれば寝不足が重なり、体調を崩す頻度も多くなるかもしれない。といっても何が起こるか分からないので、子供からは目を離せないだろう。
そんな中で龍太郎は、果たして体調を安定させられるのだろうか。それよりたとえ外で就職できるほど回復したとしても、それでいいのかと疑問を持った。何故なら今後の生活を考えた時、香織だけに育児を任せてはいけないと思ったからだ。
香織は手芸をしていれば、引き続き家の中に籠り机に向かい続ける日々を過ごすに違いない。そうなった場合にもし龍太郎が外で働いていれば、彼女が家事や子育てだけでなく内職まで抱えてしまう。
つまりこれまで何事も分担して乗り越えてきた生活スタイルが、破綻してしまうと気付いたのだ。ならば龍太郎も彼女と同様、家にいながらお金を稼ぐ方法を目指した方が良いのではないかと考えたのである。
結果的には香織が流産し、様々な心配も杞憂には終わった。子供はいない。けれど以前抱いていたように、今の生活を崩していいものかという疑問は拭い去れなかったのだ。
あの時頭の中は、彼女同様本が好きで沢山の小説を読み漁り、また物語の世界に没頭することで救われてきた自らの経験を活かせないかと思い描いていた。
よって大きな哀しみを乗り越えた今だからこそ。小説を書いてみようかと決意したのだ。多読家の一部ではよくあるそうだが、自分で物語を綴ってみたい病に罹ったのである。
そこで試しに一作書き上げ、ある新人賞に投稿してみた。すると応募総数の上位十五パーセント以内に入り一次通過し、講評まで貰えた。その為初めて書き上げそこまで到達できたなら、望みはあるかもしれない。そう自惚れ、勘違いしてしまったのだ。
それだけではない。龍太郎がそこまでのレベルなら自分はどこまでだろう、と香織も執筆に興味を持ち始めた。よって手芸を辞めて小説を書き、完成すれば新人賞に応募すると言い出し、二回目の投稿で二次通過したのだ。
その際、龍太郎は彼女の作品を事前に読んで感想を述べ、改善点などを指摘していた。そうしてある程度の結果を出せた為に、自信が持てたのだろう。こうして二人は、共に作家を目指すようになったのだ。
時には片方だけが一次通過して気まずい思いをした。二人共早々に落選して気落ちしたこともある。それでも小説を紡ぐ喜びに目覚め、互いに協力し合う楽しさを覚えた。完成したものに目を通してアドバイスし合うだけでなく、共作を試みたりもした。
受験勉強や資格取得のように、頑張れば結果が出るまたはゴールまでの道筋がそれなりに見えて来る類の目標ではない。けれど将来的なビジョンを見据え、目標に向かい日々送る生活はとても安定していたのだ。
例に挙げると朝起きて交互に決めた家事を終えれば、二人共パソコンに向かって執筆を開始する。もちろん執筆の進み具合や応募予定の締め切り、またはその時の体調などにより、家事の分担も融通が利くように心がけた。
そうすることで、この先どちらまたは両方が作家としてデビューできれば収入が見込め、削る貯蓄額も少なくて済む。上手くいけば更なる貯蓄ができるかもしれない、と目論んだのである。
香織が先にデビューしたなら、龍太郎は主夫兼アドバイザー兼事務員兼マネージャーになっていいとの覚悟まで持った。
当然時間が許す限り執筆は続け、彼女の同業になる為の努力は続けたいと思っている。その一方で、男が稼いで養うべきとのくだらないプライドは早々に捨て去った。
現時点でも我が家の家計は、既に香織がもたらす家賃収入で助けられている。もちろん龍太郎が所有する家に彼女が住んでいるからこそできるのだが、これまでも彼女の助けが無ければまともな生活は出来なかったのだ。
そう思えば男の俺が大黒柱に、など今更な考えだと気付いた為である。龍太郎が作家を目指すと決め、話し合った際に彼女は賛成してくれた。
「良いと思う。龍太郎が自分の意志で決めたのなら、反対なんてしない。私は外に出て働くことに疲れてしまった経緯もあるから、家の中で仕事が出来ればと思って手芸を始めたの。少しでも生活の足しになればと思ってね。だからこれからも協力してやっていこう」
その際、長時間の執筆に耐えられるようにと、彼女は自分が使っている椅子と同じものを購入し、プレゼントしてくれたのである。但し龍太郎が使う机は、引き続きダイニングテーブルのままだった。
この時、結婚しようかと彼女に告げた頃を思い出した。生活費は龍太郎にばかり頼る気はない、と彼女は言った。さらにもし一緒に居ることで私が邪魔になるなら、また不安にしてしまって体調の回復を遅らせる原因になるようなら別れる、という約束もさせられた。
一人だけでなら、お互い暮らせるだけの貯金は辛うじてある。でも二人でいる方が、より前に進めると思うから結婚しよう。そう互いに納得して決心したのだ。
まさかあの時は、二人に子供が出来るなんて想像もしていなかった。妊娠したと聞かされ、正直混乱もした。流産した際などはこれ以上ないほど心をかき乱された。
けれど結果的に二人の絆はより深まったと思う。妊娠騒動により互いの大切さを再認識できたのだ。贅沢さえしなければ、またお互いこれ以上体調を悪化させなければ老後の生活費はなんとか用意できる。
高収入を得られても、決してそれが幸せだとは限らないと身を持って経験してきた。お金はある程度必要だけれど、人間らしい暮らしをする為には精神的な充実感が不可欠なのだ。それが何かを求める事が自分探しなのではないか、と今では思うようになった。
もしいつまで経っても作家デビューできずに貯金を使い果たし住む場所を失ったなら、生活保護を受けてでも生きていくことは出来る。でもできるだけそうならない為に、努力だけはしようと二人で決めたのだ。
そうして二人は書き続けていた。共に頭を抱えながらも助言し合い苦労して生み出した作品は、まるで本当の子供のように思えたほどである。
そうして五年の月日が流れ、とても待ち遠しく期待溢れる日がやってきた。
一つは朱音が久しぶりに休みを取り、康太と名付けられた息子と一緒に溝口の家へ遊びに来ることだ。出産して二年程経った頃、溝口は名古屋へと戻ってきた。しかしその後、香織は何度か康太を連れてこちらへ遊びに来ていたのである。
その度に香織達も彼女と康太に会う為、顔を出していた。よって溝口さんは名古屋のおばばと呼ばれ、龍太郎達は名古屋のおじさん、おばさんと呼ばれるまでの関係になった程である。
そうした影響もあってか、子供がいる隣の河合夫妻とも交流を持つようになっていた。これまで単なる借家人でしかなかった関係が少しずつ変わり、他の住民との距離も淡い繋がりではあったけれど、以前より近くなった気がする。
環境と心理的変化がそうさせたのだろう。また龍太郎もマンションの理事会には、香織と交代で出席するようになった。
朱音は子供の面倒を東京で雇ったベビーシッターや事務所のスタッフに看て貰いながら、一昨年から仕事復帰していた。
さらに出演した映画作品が海外の賞を獲り、彼女自身も最優秀助演俳優賞を受賞したのだ。そうした忙しい日々を送り、最近になってようやく休暇が取れたらしい。
そんな彼女や康太との再会を心待ちにしながら、二人は別の電話を待っていた。それは二人が応募した新人賞の、最終選考の報告である。
一カ月ほど前、最終候補作の五作品の中に、龍太郎と香織が投稿した小説がそれぞれ選ばれたと連絡を受けていた。その結果が今日の選考会で決まる。つまり四十パーセントの確率で、どちらかがデビューできる権利を得られるのだ。
事前の話では、夕方の四時頃に電話で結果を知らせると告げられていた。
予定時間を十分ほど過ぎた時、二人のスマホがほぼ同時に鳴った。お互い目配せをし、電話に出る。結果を耳にした瞬間、二人は見つめ合い抱き合った。その眼からは、以前流したものと全く違った涙が零れ落ちていた。 (了)




