転機はいつも気まぐれに 5
五日目。
しおりさんの足がほとんど治った。引きずらなくなった。歩幅が左右で揃っている。呼吸のリズムも戻っている。
私も歩けるようになった。壁に手をつけば。ゆっくりなら。頭のぼんやりは薄くなっている。体の重さは残っている。でも、外の空気を吸いに出られるようになった。
目は開けている。閉じている時間の方がまだ長い。でも、開けている時間が昨日より少し増えた。
ぼやけた世界。少しだけ輪郭が出てきている。近くの人の顔は、まだ見えない。でも、動きは分かる。誰がどこにいるか、体の向きが分かる。
朝。みいさんの家の前。
しおりさんが薪を割っていた。みいさんの家の薪が減っていたから、と言っていた。みいさんは「いいです」と言った。しおりさんは聞かなかった。いつものことだった。
ことはがチーの毛を梳いている。チーが気持ちよさそうに目を細めている。ことはが鼻歌を歌っている。知らない曲。どこで覚えたのか分からない曲。
みいさんが洗い物をしている。家の横の桶で。手つきが落ち着いている。自分の場所の手つき。
私は家の前の石に座っていた。目を開けて、ぼやけた朝を見ていた。
風が動いた。
音がした。上から。
枝が折れる音。木の上から何かが落ちてきた。
みいさんが動いた。
速かった。
桶の前にしゃがんでいたのに、立ち上がって、手を伸ばして、落ちてきたものを掴んだ。一連の動きに迷いがなかった。考えて動いたんじゃない。体が勝手に反応した。
木の実だった。熟して枝から外れた木の実。みいさんの手のひらの中にある。
「あ——」
みいさんが自分の手を見た。何で掴んだのか分かっていない顔をしていた。たぶん。ぼやけていて表情は見えない。でも、声で分かった。
「……すごい」
ことはが言った。梳くのをやめて、みいさんを見ていた。
「え——何が——」
「今の、見えてたの?」
「え——見えて——というか——落ちてくるのが——」
「だからすごいって」
「え——普通——じゃないですか——」
「普通じゃないよ」
しおりさんの声。薪割りの手を止めていた。斧を下ろして、みいさんを見ていた。
声のトーンが少し変わっていた。明るさの中に、別のものが混じっていた。観察。しおりさんが何かを見つけた時の声。
「みい、今の、上から落ちてくるの見えた?」
「え——見えた——というか——何か来るのが——」
「視界の端で?」
「……はい」
「振り返らずに?」
「……はい」
しおりさんが黙った。
短い沈黙。考えている。
「……面白いね」
それだけ言って、薪割りを再開した。
みいさんがおろおろしていた。何が面白いのか分かっていない。
ことはが私を見た。私も見た。ぼやけた輪郭の中で、ことはが首を傾げているのが分かった。
その日の午後。
しおりさんがみいさんを連れて散歩に出た。ことはとチーも一緒に行った。私は家に残った。まだ長く歩けない。
一時間ほどで戻ってきた。
みいさんの息が上がっていた。しおりさんは平気だった。ことはは楽しそうだった。
「ただいまー」
しおりさんが入ってきた。隣にみいさんが崩れるように座った。
「し、しおりさん——歩くの——速い——」
「普通だよ」
「普通じゃないです——」
さっきと逆だった。
しおりさんが笑った。
「みい、さっきの坂で転びかけた時、どっちの足が先に出た?」
「え——右——」
「正解。自分の利き足、分かってるね」
「え——分かって——いえ——勝手に——」
「うん。それが大事」
みいさんが黙った。意味が分かっていない。
しおりさんがことはに目配せした。ことはが小さく頷いた。何かを共有していた。私には見えなかった。ぼやけた輪郭の中で、二人の動きだけが分かった。
夕方。
みいさんが夕飯の支度をしている。鍋の音。水の音。いつもの手順。
しおりさんが入り口に背中を預けていた。外を見ている。夕焼けの光が入り口から差し込んでいる。しおりさんの輪郭が逆光でぼやけている。
「みい」
「はい」
「一つ聞いていい?」
「……はい」
「みいは、この村を出たいと思ったことある?」
鍋をかき混ぜる音が止まった。
長い沈黙。
「……ない——です」
「嘘」
短かった。しおりさんの声。明るくなかった。冷たくもなかった。ただ、真っ直ぐだった。
「……嘘じゃ——」
「嘘じゃなくていいよ。聞き方が悪かった」
しおりさんが向き直った。入り口に背中を預けたまま。みいさんの方を見た。
「みい、私たちと来ない?」
鍋が鳴った。匙が縁を叩いた。みいさんの手が滑った音。
「え——」
「旅。一緒に」
「え——え——」
「みいの目、すごいんだよ。さっきの木の実もそう。視界の端で動くものが全部見えてる。あれは訓練じゃ身につかない」
「え——でも——私——何も——」
「何もできなくていいよ。できることは教える。みいにしかできないことがある」
みいさんが固まっていた。鍋の前で。匙を握ったまま。
「……え——でも——村が——」
「村は大丈夫でしょ。みいがいなくても回る」
残酷なことを、しおりさんは明るく言った。
残酷じゃなかった。本当のことだった。小さい村だけど、みいさんがいなくても村は困らない。みいさんもそれを知っている。だから残酷に聞こえた。
「し——しおりさん——急に——」
「急じゃないよ。三日目くらいから思ってた」
「三日——」
「嫌いになれない子だね、って言ったの覚えてる?」
みいさんが首を振った。覚えていない。あれは私にだけ聞こえた言葉だった。
「まぁいいや。とにかく、考えてみて」
「……考え——」
「すぐじゃなくていい。答えはみいが決めて」
しおりさんが立ち上がった。外に出ていった。ことはが外で待っていた。
「しおりん、言った?」
「言った」
「なんて?」
「固まってた」
「だと思った」
二人の声が遠ざかっていった。
みいさんが鍋の前で固まったままだった。
匙を握っている。手が震えている。音で分かる。匙が鍋の縁に当たって、小さくかちかち鳴っている。
私は壁際に座っていた。
みいさんの背中が見えた。ぼやけた輪郭。小さい背中。台所に立っている背中。
粥を褒めた日の背中と同じだった。あの時は泣いていた。今は分からない。泣いているのか、震えているだけなのか。背中だけでは分からない。
匙のかちかちが止まった。
みいさんが動いた。鍋をかき混ぜ始めた。
手つきが戻っていた。台所の手つき。迷いのない手つき。ここだけで鳴る音。
でも、いつもより少しだけ遅かった。
「……さゆりさん」
「……はい」
「……聞いて——ました?」
「……はい」
「……どう——思い——ますか」
聞かれた。
私に。
答えを求められている。口下手の私に。言葉が足りない私に。大事なことほど出てこない私に。
「……分からないです」
正直だった。
「……分からない——ですか」
「……みいさんが決めることだから。……私には、分からないです」
しおりさんと同じことを言っていた。答えはみいさんが決めて。同じ言葉を、違う声で。
みいさんが黙った。
鍋の音が続いている。
「……こわい——です」
小さかった。
「……外が——こわい——です」
知っていた。
みいさんが外を怖がっていることは、ずっと知っていた。村の中でさえ小さくなる人が、村の外に出ることを。知らない場所を。知らない人を。
「……分かります」
それだけ言った。
それだけしか言えなかった。こわい、に対して、分かります。口下手の精一杯。
みいさんが鼻を啜った。
泣いてはいなかった。泣きそうだっただけ。堪えた。鍋をかき混ぜ続けた。
「……ごはん——できます」
「……はい」
みいさんが器に粥をよそった。私に渡した。温かい器。
「……おいしくできたと——思います」
「……いただきます」
食べた。おいしかった。
みいさんが自分の分をよそった。座った。食べ始めた。
静かだった。
二人で粥を食べていた。みいさんの台所で。小さい部屋で。
外からことはの声がした。「ごはんー?」
みいさんが立ち上がった。
「は——はい——できてます——」
ことはが入ってきた。チーが入ってきた。しおりさんが入ってきた。
小さい部屋が、一気にうるさくなった。
ことはが粥を食べて「おいしい」と言った。みいさんが「よかった」と言った。しおりさんが「みいの粥最高だね」と言った。みいさんが「そんな——」と言った。
普通の夕飯だった。
何も決まっていなかった。
みいさんはまだ答えを出していない。しおりさんは待っている。ことはは粥を食べている。チーは丸くなっている。
私は粥を食べながら、ぼやけた部屋を見ていた。
この音が、いつまで続くのか分からなかった。
この部屋に五人分の音があることが、当たり前ではないことを知っていた。
みいさんの手が、器を持ったまま、少しだけ震えていた。




