表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
砂のお城
29/29

転機はいつも気まぐれに 5

 五日目。

 しおりさんの足がほとんど治った。引きずらなくなった。歩幅が左右で揃っている。呼吸のリズムも戻っている。

 私も歩けるようになった。壁に手をつけば。ゆっくりなら。頭のぼんやりは薄くなっている。体の重さは残っている。でも、外の空気を吸いに出られるようになった。

 目は開けている。閉じている時間の方がまだ長い。でも、開けている時間が昨日より少し増えた。

 ぼやけた世界。少しだけ輪郭が出てきている。近くの人の顔は、まだ見えない。でも、動きは分かる。誰がどこにいるか、体の向きが分かる。

 朝。みいさんの家の前。

 しおりさんが薪を割っていた。みいさんの家の薪が減っていたから、と言っていた。みいさんは「いいです」と言った。しおりさんは聞かなかった。いつものことだった。

 ことはがチーの毛を梳いている。チーが気持ちよさそうに目を細めている。ことはが鼻歌を歌っている。知らない曲。どこで覚えたのか分からない曲。

 みいさんが洗い物をしている。家の横の桶で。手つきが落ち着いている。自分の場所の手つき。

 私は家の前の石に座っていた。目を開けて、ぼやけた朝を見ていた。

 風が動いた。

 音がした。上から。

 枝が折れる音。木の上から何かが落ちてきた。

 みいさんが動いた。

 速かった。

 桶の前にしゃがんでいたのに、立ち上がって、手を伸ばして、落ちてきたものを掴んだ。一連の動きに迷いがなかった。考えて動いたんじゃない。体が勝手に反応した。

 木の実だった。熟して枝から外れた木の実。みいさんの手のひらの中にある。

「あ——」

 みいさんが自分の手を見た。何で掴んだのか分かっていない顔をしていた。たぶん。ぼやけていて表情は見えない。でも、声で分かった。

「……すごい」

 ことはが言った。梳くのをやめて、みいさんを見ていた。

「え——何が——」

「今の、見えてたの?」

「え——見えて——というか——落ちてくるのが——」

「だからすごいって」

「え——普通——じゃないですか——」

「普通じゃないよ」

 しおりさんの声。薪割りの手を止めていた。斧を下ろして、みいさんを見ていた。

 声のトーンが少し変わっていた。明るさの中に、別のものが混じっていた。観察。しおりさんが何かを見つけた時の声。

「みい、今の、上から落ちてくるの見えた?」

「え——見えた——というか——何か来るのが——」

「視界の端で?」

「……はい」

「振り返らずに?」

「……はい」

 しおりさんが黙った。

 短い沈黙。考えている。

「……面白いね」

 それだけ言って、薪割りを再開した。

 みいさんがおろおろしていた。何が面白いのか分かっていない。

 ことはが私を見た。私も見た。ぼやけた輪郭の中で、ことはが首を傾げているのが分かった。

 その日の午後。

 しおりさんがみいさんを連れて散歩に出た。ことはとチーも一緒に行った。私は家に残った。まだ長く歩けない。

 一時間ほどで戻ってきた。

 みいさんの息が上がっていた。しおりさんは平気だった。ことはは楽しそうだった。

「ただいまー」

 しおりさんが入ってきた。隣にみいさんが崩れるように座った。

「し、しおりさん——歩くの——速い——」

「普通だよ」

「普通じゃないです——」

 さっきと逆だった。

 しおりさんが笑った。

「みい、さっきの坂で転びかけた時、どっちの足が先に出た?」

「え——右——」

「正解。自分の利き足、分かってるね」

「え——分かって——いえ——勝手に——」

「うん。それが大事」

 みいさんが黙った。意味が分かっていない。

 しおりさんがことはに目配せした。ことはが小さく頷いた。何かを共有していた。私には見えなかった。ぼやけた輪郭の中で、二人の動きだけが分かった。

 夕方。

 みいさんが夕飯の支度をしている。鍋の音。水の音。いつもの手順。

 しおりさんが入り口に背中を預けていた。外を見ている。夕焼けの光が入り口から差し込んでいる。しおりさんの輪郭が逆光でぼやけている。

「みい」

「はい」

「一つ聞いていい?」

「……はい」

「みいは、この村を出たいと思ったことある?」

 鍋をかき混ぜる音が止まった。

 長い沈黙。

「……ない——です」

「嘘」

 短かった。しおりさんの声。明るくなかった。冷たくもなかった。ただ、真っ直ぐだった。

「……嘘じゃ——」

「嘘じゃなくていいよ。聞き方が悪かった」

 しおりさんが向き直った。入り口に背中を預けたまま。みいさんの方を見た。

「みい、私たちと来ない?」

 鍋が鳴った。匙が縁を叩いた。みいさんの手が滑った音。

「え——」

「旅。一緒に」

「え——え——」

「みいの目、すごいんだよ。さっきの木の実もそう。視界の端で動くものが全部見えてる。あれは訓練じゃ身につかない」

「え——でも——私——何も——」

「何もできなくていいよ。できることは教える。みいにしかできないことがある」

 みいさんが固まっていた。鍋の前で。匙を握ったまま。

「……え——でも——村が——」

「村は大丈夫でしょ。みいがいなくても回る」

 残酷なことを、しおりさんは明るく言った。

 残酷じゃなかった。本当のことだった。小さい村だけど、みいさんがいなくても村は困らない。みいさんもそれを知っている。だから残酷に聞こえた。

「し——しおりさん——急に——」

「急じゃないよ。三日目くらいから思ってた」

「三日——」

「嫌いになれない子だね、って言ったの覚えてる?」

 みいさんが首を振った。覚えていない。あれは私にだけ聞こえた言葉だった。

「まぁいいや。とにかく、考えてみて」

「……考え——」

「すぐじゃなくていい。答えはみいが決めて」

 しおりさんが立ち上がった。外に出ていった。ことはが外で待っていた。

「しおりん、言った?」

「言った」

「なんて?」

「固まってた」

「だと思った」

 二人の声が遠ざかっていった。

 みいさんが鍋の前で固まったままだった。

 匙を握っている。手が震えている。音で分かる。匙が鍋の縁に当たって、小さくかちかち鳴っている。

 私は壁際に座っていた。

 みいさんの背中が見えた。ぼやけた輪郭。小さい背中。台所に立っている背中。

 粥を褒めた日の背中と同じだった。あの時は泣いていた。今は分からない。泣いているのか、震えているだけなのか。背中だけでは分からない。

 匙のかちかちが止まった。

 みいさんが動いた。鍋をかき混ぜ始めた。

 手つきが戻っていた。台所の手つき。迷いのない手つき。ここだけで鳴る音。

 でも、いつもより少しだけ遅かった。

「……さゆりさん」

「……はい」

「……聞いて——ました?」

「……はい」

「……どう——思い——ますか」

 聞かれた。

 私に。

 答えを求められている。口下手の私に。言葉が足りない私に。大事なことほど出てこない私に。

「……分からないです」

 正直だった。

「……分からない——ですか」

「……みいさんが決めることだから。……私には、分からないです」

 しおりさんと同じことを言っていた。答えはみいさんが決めて。同じ言葉を、違う声で。

 みいさんが黙った。

 鍋の音が続いている。

「……こわい——です」

 小さかった。

「……外が——こわい——です」

 知っていた。

 みいさんが外を怖がっていることは、ずっと知っていた。村の中でさえ小さくなる人が、村の外に出ることを。知らない場所を。知らない人を。

「……分かります」

 それだけ言った。

 それだけしか言えなかった。こわい、に対して、分かります。口下手の精一杯。

 みいさんが鼻を啜った。

 泣いてはいなかった。泣きそうだっただけ。堪えた。鍋をかき混ぜ続けた。

「……ごはん——できます」

「……はい」

 みいさんが器に粥をよそった。私に渡した。温かい器。

「……おいしくできたと——思います」

「……いただきます」

 食べた。おいしかった。

 みいさんが自分の分をよそった。座った。食べ始めた。

 静かだった。

 二人で粥を食べていた。みいさんの台所で。小さい部屋で。

 外からことはの声がした。「ごはんー?」

 みいさんが立ち上がった。

「は——はい——できてます——」

 ことはが入ってきた。チーが入ってきた。しおりさんが入ってきた。

 小さい部屋が、一気にうるさくなった。

 ことはが粥を食べて「おいしい」と言った。みいさんが「よかった」と言った。しおりさんが「みいの粥最高だね」と言った。みいさんが「そんな——」と言った。

 普通の夕飯だった。

 何も決まっていなかった。

 みいさんはまだ答えを出していない。しおりさんは待っている。ことはは粥を食べている。チーは丸くなっている。

 私は粥を食べながら、ぼやけた部屋を見ていた。

 この音が、いつまで続くのか分からなかった。

 この部屋に五人分の音があることが、当たり前ではないことを知っていた。

 みいさんの手が、器を持ったまま、少しだけ震えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ