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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木
バケモノと呼ばれて
22/28

狂ッた世界でこんばんワ 1

 それは、足音ではなかった。

 ばらばらのリズムが、一つの塊から出ている。近づいてくる。

「逃げよう」

 しおりさんの声だった。明るさが消えていた。

「南じゃなくて西。崖沿いに戻る」

「うぃ」

 ことはがチーの首を撫でた。チーが弾かれたように走り出す。私はたてがみにしがみついた。しおりさんの足音が横を並走している。速い。でも全力じゃない。私たちに合わせている。

 背後から、音が追ってくる。

 さっきよりも速い。さっきよりも重い。地面を叩く間隔が狭くなっている。一つの生き物が走る音なのに、拍子が合っていない。片方は四つ足の獣が駆ける速度。もう片方は、もっと別の何か。ずるりと這うような、地面を擦る長い音が、四つ足の合間に混じっている。

 拍子が二つある。

 一つの体から。

「右に寄って!」

 ことはが叫んだ。チーが急に方向を変える。体が傾いて、たてがみを握り直した。

 直後、左側の木が弾けた。

 幹が裂ける音。枝が吹き飛ぶ音。それから、重い着地音。着地じゃない。ぶつかった。木にぶつかって、そのまま突き抜けている。幹の太さからして、人の力で折れる木じゃない。

 匂いが来た。

 血の匂い。獣の匂い。それと、もう一つ。焦げたような、でも炎とは違う、甘くて重い匂い。三つが一つの方向から来ている。混ざっているんじゃない。三つが別々に、同じ場所から出ている。そんな匂い方を、私は知らない。

 獣の匂いの中に、人の血の匂いが溶けていた。

「しおりさん!」

「分かってる!」

 鉄の棒が伸びる音。ハルバードが展開する硬い音。しおりさんの足音が私たちの横から離れて、後ろに回った。

 振り向けない。でも、音だけは追える。

 しおりさんの足が地面を蹴った。一歩で、距離が消える。ハルバードの刃が空気を裂く音。重い一撃。

 当たった。

 金属が肉を叩く音がした。でも、感触の返りがおかしい。柔らかすぎる部分と、硬すぎる部分が一回の斬撃の中にある。

 それが、叫んだ。

 声ではなかった。複数の音が同時に出た。獣の咆哮と、鳥のような甲高い鳴きと、もっと低い何か。地面を震わせるような、喉の奥を掻くような振動。三つが重なって、一つの口から出ていた。

 耳の奥が裂けるように痛んだ。イヤーマイクの音量を下げる暇もなかった。

「チー、止まらないで!」

 ことはの声が震えていた。でも、手はチーの首をしっかり握っている。チーが木々の間を縫って駆ける。石を跳んで、根を越えて、私の体が何度も跳ねた。

 後ろで、しおりさんがもう一度打ち込んだ。今度は軽い。牽制。当てるんじゃなくて、追わせない。そのまま後退する足音。

「止まんないよ、こいつ!」

 しおりさんの声に焦りはなかった。でも明るさもなかった。事実だけを投げてくる声だった。

 背後の音が、また変わった。

 四つ足の音が消えた。代わりに、何かが地面を這う音。速い。さっきの四つ足より速い。地面に張り付いて滑ってくる。体の動かし方が、変わった。走っていたのが、這っている。這う方が速い。

 走るより這う方が速い生き物を、私は知らない。

「ことは、崖はどっち!」

「右前! もうすぐ地面が変わるはず!」

 ことはの声が裏返っていた。でも頭は動いている。ことはの頭が止まったら、私たちは終わる。

 背後から、空気が揺れた。

 熱ではなかった。熱に近い何か。空気の中に、何かが走った。匂いは甘い。焦げる匂いに似ているのに、火の匂いじゃない。水に近い匂いも混じっている。火と水が同時に存在するような、ありえない匂いが、背中の後ろを通過していった。

 木が一本、音もなく倒れた。

 切れたんじゃない。幹の途中が、消えていた。音もなく。匂いだけが残って、音が追いついていなかった。

「何あれ……」

 ことはの声が、小さくなった。

 しおりさんが着地する音。こちらに戻ってくる。走りながら。

「あれは避けないとまずいね。当たったら終わりだと思う」

 言い方は柔らかいのに、中身が冷たかった。

「ことは、この先の地形、分かる?」

「崖の……手前に、窪みがあったと思う。お兄ちゃんと遊んだ時に……岩が出っ張ってるとこ」

「どのくらい先?」

「分かんない。でも、近いはず」

 ことはの声が震えている。でも考えている。使えるものを探している。

「……しおりん」

「うん」

「さっきの道……私が描いたやつ、まだ残ってると思うんだけど」

「使える?」

「分かんない。でも、あいつがそこを通ったら……たぶん、ちょっとだけ」

「ちょっとだけ?」

「足が、もつれるかも。たぶん」

 「たぶん」が二回。確信なんかない。でも、手持ちはそれしかなかった。

「やって」

 しおりさんが短く言った。

 ことはがチーの首を叩いた。チーが方向を変える。さっきことはが地面に線を描いた場所の方に、少しだけ戻るルートを取る。

 遠回り。時間を失う。でも、ことはの「たぶん」に賭けるしかなかった。

「お姉ちゃん」

 ことはが、私の名前を呼んだ。

「あいつの音、聞こえてる?」

「……聞こえてる」

「どのくらい後ろ?」

「……近い。すごく近い」

「あいつが地面を這う音が変わったら、教えて。足が何かに引っかかったみたいな音がしたら」

「分かった」

 耳を後ろに向ける。

 這う音が近い。もう、木を二つ挟んだくらいの距離しかない。

 ことはが描いた場所を、通るか通らないか分からない。通ったとしても、何が起きるか分からない。

 でも、他に何もない。

 耳を研ぎ澄ました。這う音。擦る音。土を叩く音。そこに混じるかすかな拍子の変化を、一つも逃さないように。

 ——来た。

 音が、一瞬だけ乱れた。

 這う音の中に、引っかかるような、短い摩擦音が混じった。ほんの一拍。足ではない。腹か。体のどこかが地面の何かに触れて、ほんの一瞬だけリズムが崩れた。

「今!」

 私は叫んだ。

「今、少しだけ乱れました!」

 しおりさんは返事をしなかった。

 代わりに、空気が動いた。

 しおりさんの足が地面を蹴る。一歩。ハルバードが唸る。この一瞬だけを、ずっと狙っていた。

 音が弾けた。

 ハルバードが何かを叩き、何かが地面に叩きつけられ、木が折れ、土が飛び散った。それが咆哮した。さっきよりも大きい。さっきよりも多い。四つ、五つの声が一つの口から溢れ出て、森を叩きつけた。

 倒れていない。

 しおりさんの舌打ちが聞こえた。小さく、鋭く。

「効いてないわけじゃないんだけどね……足りない」

「走って。窪みまで走って!」

 チーが走った。ことはが低く伏せて、私はたてがみに顔を埋めた。

 背後で、それが起き上がる音がした。さっきの打撃が嘘みたいに、同じ速度で這い始める。ことはの仕掛けも、しおりさんの一撃も、ほんの数秒しか稼げなかった。

 でも、その数秒で、チーは崖の手前まで走り切った。

 地面が急に傾いた。岩が露出する。足の下が砂利に変わる。風が下から吹き上げてくる。崖だ。

 ことはが言った通り、岩が出っ張っている場所があった。崖の縁のすぐ手前、大きな岩が三つ並んで、その裏に窪みのような空間がある。

「ここ!」

 ことはが叫んだ。チーが滑り込むように窪みに入る。私は背中から岩に当たった。

 しおりさんが最後に飛び込んでくる。ハルバードの石突きが岩に当たる。息が荒い。荒いのに、声は荒くなかった。

「ちょっとだけ時間稼げたね」

 明るい声に戻そうとしていた。戻りきっていなかった。

 背後で、それが止まった。

 音が変わった。這う音が消えて、立ち上がる音がした。四つ足で立った。さっきとは違う。走っていたのでも、這っていたのでもない。立っている。こちらの方を向いて。

 じっとしている。

 こちらを確かめるように。

 あの匂いが、濃くなった。

 溜めている。

 何かを。

 空気が、張り詰めた。

「来る!」

 しおりさんが叫んだ。

 同時に、それが動いた。

 岩に向かってではなかった。

 回り込んだ。

 窪みの横を、一瞬で。四つ足から這う動きに変わって、岩の裏側に。

 ことはの方に。

 チーが吠えた。ことはが悲鳴を上げる前に、しおりさんが動いていた。

 私の横を風が切った。しおりさんが岩の隙間から飛び出す。ハルバードを構える暇はなかった。素手でことはを抱えて、体を捻った。

 背中を向けた。

 それに対して。

 自分の背中を盾にして。

 音が、割れた。

 何かがしおりさんの背中に当たった。甘い匂いが爆発して、しおりさんの体が吹き飛んだ。ことはを抱えたまま。横に。岩を越えて。木に叩きつけられる音がした。枝が折れる音。体が地面にぶつかる音。ことはの短い悲鳴。チーが咆えた。

 しおりさんの体から、ことはが転がり出る音がした。

 ことはが地面を転がる音。チーがことはの方に駆ける音。ことはが呻く声。

 しおりさんは、音を立てなかった。

 地面にぶつかった後、何も音がしなかった。

「しおりさん」

 私の声が出た。

 返事がなかった。

「しおりさん!」

 返事がなかった。

「ことは!」

「……っ、……お姉、ちゃん……」

 ことはの声が聞こえた。呻いている。でも、声が出ている。生きている。

 しおりさんの音が、しない。

 心臓の音も、呼吸の音も、ここからでは聞こえない。遠い。吹き飛ばされた距離が、遠い。

 目の前に、それがいる。

 甘い匂いが近い。軋む音。這う音。立っている音。全部がすぐそこにある。

 岩の裏で、私は一人だった。

 チーはことはの方に行った。しおりさんは吹っ飛ばされた。ことはは動けない。

 私だけが、ここにいる。

 それと、私だけが。

 胸の奥で、何かが音を立てた。

 怒りではなかった。悲しみでもなかった。もっと奥の、もっと底の、名前がつけられない場所から、何かが這い上がってくる。

 胸の中で、何かが笑った。

 口の端が、勝手に上がった。


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