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No Look Jamming〜私は見る事ができない〜  作者: 船木一底
ツキナミの生活
22/22

サウンドマッピング4

 崖から一度離れて、私たちはもう一度チーのところへ戻った。

 さっきまで足の下にあった“何もない空間”の感触が、まだ足首のあたりに張り付いている気がする。

「さゆり、ありがと」

 しおりさんが、いつもの調子より少しだけ静かな声で言った。

「おかげで、崖の形だいたい分かった。……次は、西側に回り込もっか」

「分かりました」

 チーが、前足で土をかく。

 ふかふかした毛の匂いと、一緒に混じる湿った土の匂い。

「チー、さっきよりゆっくりでいいからね」

 ことはが、首のあたりを優しく撫でる。

 チーは短く鼻を鳴らして、それに答えた。

 東の方角からくる熱は、さっきより少しだけ弱くなった気がする。

 それでも、耳の奥にはまだ、木が倒れる重い音と、炎のうなる音が薄く残っていた。

 私たちはその音に背中を向けるようにして、崖に沿って西へと進んでいった。

 足元の土の感触が変わる。

 さっきよりも小石が増えてきて、チーの爪が「かりっ」と鳴る。

 下草も少し減って、地面がむき出しになっている場所が増えてきた。

「この辺、崖のカーブだね」

 少し前で歩くしおりさんが、独り言みたいに呟く。

 その声の跳ね返り方で、崖が内側に曲がっているのが分かった。

「さゆり、水の音はさっきと違う?」

「……はい」

 耳を澄ませる。

 さっき聞いた“真下に落ちていく”みたいな音よりも、今は横に広がる音が強い。

 岩にぶつかって跳ね返る音が少し減って、その代わりに、なだらかに流れていく水の音が増えていた。

「さっきより、流れがゆっくりなところが増えてます。高いところから落ちてる感じじゃなくて……広く、浅く流れてる場所が混じってます」

「うん、いい感じ」

 しおりさんの声が、少しだけ柔らかくなる。

「このまま、もうちょっとだけ西に行こ。浅そうなとこ探したい」

「うん」

 ことはが、チーの背中の上でこくこく頷く気配を見せる。

 水の音は少しずつ形を変えていく。

 浅瀬みたいに音が軽いところ。

 逆に、底が見えないみたいに音が重く沈んでいるところ。

 その中に、一カ所だけ、音が細くなる場所があった。

「……あ」

 足が、自然と止まる。

「さゆり?」

「ごめん。今のところ、もう一回、聞かせて」

 チーも足を止めてくれる。

 崖の下からの水音は、さっきより近い。

 そこだけ、音の高さも、量も、少し違う。

「ここから、二十歩ちょっと先……くらいだと思う」

 距離を頭の中で並べていく。

「流れがそんなに速くない場所がある。石にぶつかる音が少なくて、水が滑ってる感じ。……それと、岸の近くに、何かが並んでる」

 ごつごつした小さな塊を、水が撫でていく音。

「石か、倒れた枝か……足場になりそうな音」

「いいね」

 しおりさんが、土を一歩前に踏む。

「じゃ、その辺で一回止まろっか。崖の縁の手前で」

「は〜い」

「はい」

 チーの背中が揺れる。

 ことはが私の手をぎゅっと握り直す。

 数えるように、一歩ずつ進んで――やがて、前方の空気の密度がふっと変わった。

「ここら辺かな」

 しおりさんが、それっぽい場所に当たりをつけた。

「ここから先は崖。縁まではあと二歩くらい」

「分かりました」

 チーが、その場で前足を揃える音を立てた。

「一回、チーから降りようか」

「うん」

 ことはが先に降りて、チーの頭をわしゃわしゃ撫でる。

 チーは素直に腰を落として、私が降りやすいように身を沈めてくれた。

「ありがと」

 前足の位置を確かめてから、私はゆっくり地面に降りる。

 足元は、さっきより少しだけ平らだった。

「しおりさん」

「いるよ」

 すぐそばで、ハルバードの石突きが土を軽く突く音がした。

「今から、崖の縁の“ちょっと手前”まで一緒に行きます。足元に段差あったらすぐ言ってください」

「了解」

 袖口にそっと指を添える。

 そのまま、二歩だけ前に進んだ。

 一歩目は土。

 二歩目の先で、足の下の空気がふっと軽くなる。

「ここが縁」

 石突きが、私の足のすぐ手前を二回叩く。

 その音の跳ね返り方で、下が空洞になっているのが分かった。

 耳を、崖の下に向ける。

 さっきよりも水音は近い。

 真下ではなく、少し斜め前から聞こえてくる。

 浅い石場を水が撫でていく音と、その奥で一本だけ速い筋が走っている音。

「……さっき言ってた“丸い音”の場所は、どの辺?」

「少し左側」

 私は、音の位置を頭の中に並べ直す。

「崖の真下は深いけど、そこから三歩分くらい左に行くと、石がいくつか並んでる。流れも少し弱い」

「オッケー」

 しおりさんが、体の向きを少し左にずらす。

「さゆり、一回だけ石、投げてみてくれる?」

「私が?」

「うん。いつもの感じで」

 言われて、少しだけ息を吸い込む。

 足先で小石を探し、指先で拾う。

 重さと形を確かめてから、水の音が一番“柔らかい”ところを狙って、軽く投げた。

 ひゅっ。

 空気を切る音。

 ……ぴちゃん。

 落ちるまでの間が、さっきより短い。

 そのあと、水が布の上を滑るみたいな音を立てて、流れに戻っていった。

「今のとこ、浅そう」

「うん。膝よりちょっと上くらい……だと思う」

「うん、十分」

 しおりさんが、小さく息を吐く音を立てた。

「ここから下に降りて、そこの浅瀬を一気に渡る。……チーにはちょっと頑張ってもらうけど」

「チー、お水、嫌い?」

 ことはが後ろから尋ねる。

 チーが、少し不満そうに鼻を鳴らした。

「ちょっとだけだから、がんばってね」

 額のあたりを優しく撫でる。

「お兄ちゃんに会いに行くためだからさ」

 チーの鼻息が、少しだけ柔らかくなり、バフっと短く吠えた。

「よし」

 しおりさんの声が、決めるときの音になる。

「順番は、私が先に降りる。そのあと、さゆりを抱っこして渡る。ことはとチーは、三番目」

「え、私、お姫様抱っこですか」

 思わず口から出てしまった。

「うん。さすがに、ここはね」

 苦笑まじりの声。

「流れもあるし、足場もよく見えないし。さゆりに“がんばれ”って言う場面じゃないでしょ?」

「……それは、そうですけど」

 顔が熱くなる。

 ことはが後ろでにやにやしている気配がした。

「お姉ちゃん、よかったね〜。しおりお姉ちゃんにお姫様抱っこ〜」

「ことは、あとで覚えておきなさい」

「きゃー」

 短いやりとりのあと。

「じゃ、まずは私」

 しおりさんが一歩下がってから、崖の斜面を降りる。

 土と石を蹴る音が、あっという間に下へ移動していく。

 さっき自分で降りたときより、ずっと速い。

 でも、足を滑らせる気配は一切なかった。

 数呼吸も経たないうちに、下から水音に混じって声が上がる。

「着いた。思った通り、浅瀬ある」

 その声には、さっき見た炎の匂いが、まだ少しだけまとわりついていた。

「さゆり」

 崖の縁のすぐ手前まで、しおりさんの気配が戻ってくる。

「さぁさゆり姫、私に抱き抱えられてね!」

「……お願いします」

 言い終わる前に、腰のあたりにそっと腕が回る。

 もう片方の腕が、背中と膝の裏をすくう。

 体がふわりと浮いた。

 粗い布越しに伝わる体温と、しっかりした腕の力。

 胸のすぐ近くで、心臓の音が少し速い。

 村の方角からまだ消えない炎の匂いを、そのまま連れてきているみたいだった。

「重くないですか」

「余裕通り越して軽すぎ。さゆり、ちゃんとご飯食べてる?」

 いつもの冗談みたいな言い方。

 その奥にある、別の緊張の匂いは、あえて何も言わなかった。

「じゃ、行くよ」

 足元の感覚が一気に変わる。

 しおりさんが、崖の斜面をほとんど一息で駆け下りていった。

 土を蹴る音。石を踏む音。

 さっき自分で降りたときより、ずっと多くの段差を飛び越えているのが分かるのに、身体はほとんど揺れない。

 鳥が枝から枝へ移るみたいに、音だけが軽く跳ねていく。

 すぐに、水の匂いが強くなった。

 ばしゃっ。

 一度だけ、しっかりした水音。

 その一音で、川に足を入れたのが分かった。

 けれど、そのまま止まることなく、石から石へ一気に駆け抜けていく。

 水が弾ける音が、三回。

 その次の瞬間には、足元から水の冷たさが消えて、乾いた土の音に変わっていた。

「……着いた」

 しおりさんが、短く息を吐く。

「ありがと、さゆり」

「抱えられてただけですけど」

「それでいいの」

 そう言ってから、そっと地面に降ろしてくれる。

 膝の辺りが、まだふわふわしていた。

「次、ことはとチー」

 しおりさんが、上に向かって声を張る。

「ことはー、行けそう?」

「いくー!」

 上から、ことはとチーの足音が近づいてくる。

 土が崩れる音と、チーの爪が石を掴む音。

「チー、その感じ。そのまま、一気にね」

 しおりさんの声が、少しだけ真面目になる。

「ことは、チーの首んとこ、変に引っ張らないように」

「引っ張ってないもん!」

 文句を言いながらも、ことはの足音はちゃんと声に合わせて動いていた。

 ばしゃっ。

 さっきとよく似た水音。

 チーが、迷いなく浅瀬に飛び込んだ音だ。

 石から石へ、四本の足が軽く跳ねる。

 ことはの小さな悲鳴と、一緒に混じる笑い声。

 すぐに、土を踏む音が二つ分、こちら側に戻ってくる。

「はい、全員無事!」

「ふへぇ……つかれた……」

 ことはが、その場にへたりこむ気配を見せる。

 チーが、その横で大きく息を吐いた。

「お疲れさま」

 しおりさんの声が、少しだけ解け、チーの頭を優しく撫でた。

 チーは嬉しそうに尻尾をパタパタと振っている。

「さゆりも、ことはも、チーも、よくがんばりました」

「へへー」

 ことはが、わざと得意げな声を出す。

 チーが、鼻を鳴らしてそれに乗った。

 東の方からくる熱は、さっきよりもさらに弱くなっている。

 でも、耳を澄ませれば、まだ小さく爆ぜる音が混じっていた。

 何も知らないはずの川が、その音と匂いを、少しだけ遠ざけてくれている。

「……ここから先は、ほんとに何も知らない場所だね」

 ことはが、小さく呟く。

「そうだね」

 しおりさんの声が、ほんの少しだけ低くなる。

「だからこそ、ちゃんと考えて進も。さゆりの耳と、ことはの頭と、チーの足でね」

 その言い方には、酸っぱい匂いは混じっていなかった。

 ただ、少しだけ、湿った土みたいな匂いがした。

 私は胸元のブローチを握りしめる。

「……はい」

 師匠のいるはずだった方角から、ゆっくり顔をそらす。

 川の向こう側の音を、背中で受ける向きに。

 崖と川を越えた先の、まだ名前もない音の方へ。

 私たちは、また一歩、足を踏み出した。


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