サウンドマッピング4
崖から一度離れて、私たちはもう一度チーのところへ戻った。
さっきまで足の下にあった“何もない空間”の感触が、まだ足首のあたりに張り付いている気がする。
「さゆり、ありがと」
しおりさんが、いつもの調子より少しだけ静かな声で言った。
「おかげで、崖の形だいたい分かった。……次は、西側に回り込もっか」
「分かりました」
チーが、前足で土をかく。
ふかふかした毛の匂いと、一緒に混じる湿った土の匂い。
「チー、さっきよりゆっくりでいいからね」
ことはが、首のあたりを優しく撫でる。
チーは短く鼻を鳴らして、それに答えた。
東の方角からくる熱は、さっきより少しだけ弱くなった気がする。
それでも、耳の奥にはまだ、木が倒れる重い音と、炎のうなる音が薄く残っていた。
私たちはその音に背中を向けるようにして、崖に沿って西へと進んでいった。
足元の土の感触が変わる。
さっきよりも小石が増えてきて、チーの爪が「かりっ」と鳴る。
下草も少し減って、地面がむき出しになっている場所が増えてきた。
「この辺、崖のカーブだね」
少し前で歩くしおりさんが、独り言みたいに呟く。
その声の跳ね返り方で、崖が内側に曲がっているのが分かった。
「さゆり、水の音はさっきと違う?」
「……はい」
耳を澄ませる。
さっき聞いた“真下に落ちていく”みたいな音よりも、今は横に広がる音が強い。
岩にぶつかって跳ね返る音が少し減って、その代わりに、なだらかに流れていく水の音が増えていた。
「さっきより、流れがゆっくりなところが増えてます。高いところから落ちてる感じじゃなくて……広く、浅く流れてる場所が混じってます」
「うん、いい感じ」
しおりさんの声が、少しだけ柔らかくなる。
「このまま、もうちょっとだけ西に行こ。浅そうなとこ探したい」
「うん」
ことはが、チーの背中の上でこくこく頷く気配を見せる。
水の音は少しずつ形を変えていく。
浅瀬みたいに音が軽いところ。
逆に、底が見えないみたいに音が重く沈んでいるところ。
その中に、一カ所だけ、音が細くなる場所があった。
「……あ」
足が、自然と止まる。
「さゆり?」
「ごめん。今のところ、もう一回、聞かせて」
チーも足を止めてくれる。
崖の下からの水音は、さっきより近い。
そこだけ、音の高さも、量も、少し違う。
「ここから、二十歩ちょっと先……くらいだと思う」
距離を頭の中で並べていく。
「流れがそんなに速くない場所がある。石にぶつかる音が少なくて、水が滑ってる感じ。……それと、岸の近くに、何かが並んでる」
ごつごつした小さな塊を、水が撫でていく音。
「石か、倒れた枝か……足場になりそうな音」
「いいね」
しおりさんが、土を一歩前に踏む。
「じゃ、その辺で一回止まろっか。崖の縁の手前で」
「は〜い」
「はい」
チーの背中が揺れる。
ことはが私の手をぎゅっと握り直す。
数えるように、一歩ずつ進んで――やがて、前方の空気の密度がふっと変わった。
「ここら辺かな」
しおりさんが、それっぽい場所に当たりをつけた。
「ここから先は崖。縁まではあと二歩くらい」
「分かりました」
チーが、その場で前足を揃える音を立てた。
「一回、チーから降りようか」
「うん」
ことはが先に降りて、チーの頭をわしゃわしゃ撫でる。
チーは素直に腰を落として、私が降りやすいように身を沈めてくれた。
「ありがと」
前足の位置を確かめてから、私はゆっくり地面に降りる。
足元は、さっきより少しだけ平らだった。
「しおりさん」
「いるよ」
すぐそばで、ハルバードの石突きが土を軽く突く音がした。
「今から、崖の縁の“ちょっと手前”まで一緒に行きます。足元に段差あったらすぐ言ってください」
「了解」
袖口にそっと指を添える。
そのまま、二歩だけ前に進んだ。
一歩目は土。
二歩目の先で、足の下の空気がふっと軽くなる。
「ここが縁」
石突きが、私の足のすぐ手前を二回叩く。
その音の跳ね返り方で、下が空洞になっているのが分かった。
耳を、崖の下に向ける。
さっきよりも水音は近い。
真下ではなく、少し斜め前から聞こえてくる。
浅い石場を水が撫でていく音と、その奥で一本だけ速い筋が走っている音。
「……さっき言ってた“丸い音”の場所は、どの辺?」
「少し左側」
私は、音の位置を頭の中に並べ直す。
「崖の真下は深いけど、そこから三歩分くらい左に行くと、石がいくつか並んでる。流れも少し弱い」
「オッケー」
しおりさんが、体の向きを少し左にずらす。
「さゆり、一回だけ石、投げてみてくれる?」
「私が?」
「うん。いつもの感じで」
言われて、少しだけ息を吸い込む。
足先で小石を探し、指先で拾う。
重さと形を確かめてから、水の音が一番“柔らかい”ところを狙って、軽く投げた。
ひゅっ。
空気を切る音。
……ぴちゃん。
落ちるまでの間が、さっきより短い。
そのあと、水が布の上を滑るみたいな音を立てて、流れに戻っていった。
「今のとこ、浅そう」
「うん。膝よりちょっと上くらい……だと思う」
「うん、十分」
しおりさんが、小さく息を吐く音を立てた。
「ここから下に降りて、そこの浅瀬を一気に渡る。……チーにはちょっと頑張ってもらうけど」
「チー、お水、嫌い?」
ことはが後ろから尋ねる。
チーが、少し不満そうに鼻を鳴らした。
「ちょっとだけだから、がんばってね」
額のあたりを優しく撫でる。
「お兄ちゃんに会いに行くためだからさ」
チーの鼻息が、少しだけ柔らかくなり、バフっと短く吠えた。
「よし」
しおりさんの声が、決めるときの音になる。
「順番は、私が先に降りる。そのあと、さゆりを抱っこして渡る。ことはとチーは、三番目」
「え、私、お姫様抱っこですか」
思わず口から出てしまった。
「うん。さすがに、ここはね」
苦笑まじりの声。
「流れもあるし、足場もよく見えないし。さゆりに“がんばれ”って言う場面じゃないでしょ?」
「……それは、そうですけど」
顔が熱くなる。
ことはが後ろでにやにやしている気配がした。
「お姉ちゃん、よかったね〜。しおりお姉ちゃんにお姫様抱っこ〜」
「ことは、あとで覚えておきなさい」
「きゃー」
短いやりとりのあと。
「じゃ、まずは私」
しおりさんが一歩下がってから、崖の斜面を降りる。
土と石を蹴る音が、あっという間に下へ移動していく。
さっき自分で降りたときより、ずっと速い。
でも、足を滑らせる気配は一切なかった。
数呼吸も経たないうちに、下から水音に混じって声が上がる。
「着いた。思った通り、浅瀬ある」
その声には、さっき見た炎の匂いが、まだ少しだけまとわりついていた。
「さゆり」
崖の縁のすぐ手前まで、しおりさんの気配が戻ってくる。
「さぁさゆり姫、私に抱き抱えられてね!」
「……お願いします」
言い終わる前に、腰のあたりにそっと腕が回る。
もう片方の腕が、背中と膝の裏をすくう。
体がふわりと浮いた。
粗い布越しに伝わる体温と、しっかりした腕の力。
胸のすぐ近くで、心臓の音が少し速い。
村の方角からまだ消えない炎の匂いを、そのまま連れてきているみたいだった。
「重くないですか」
「余裕通り越して軽すぎ。さゆり、ちゃんとご飯食べてる?」
いつもの冗談みたいな言い方。
その奥にある、別の緊張の匂いは、あえて何も言わなかった。
「じゃ、行くよ」
足元の感覚が一気に変わる。
しおりさんが、崖の斜面をほとんど一息で駆け下りていった。
土を蹴る音。石を踏む音。
さっき自分で降りたときより、ずっと多くの段差を飛び越えているのが分かるのに、身体はほとんど揺れない。
鳥が枝から枝へ移るみたいに、音だけが軽く跳ねていく。
すぐに、水の匂いが強くなった。
ばしゃっ。
一度だけ、しっかりした水音。
その一音で、川に足を入れたのが分かった。
けれど、そのまま止まることなく、石から石へ一気に駆け抜けていく。
水が弾ける音が、三回。
その次の瞬間には、足元から水の冷たさが消えて、乾いた土の音に変わっていた。
「……着いた」
しおりさんが、短く息を吐く。
「ありがと、さゆり」
「抱えられてただけですけど」
「それでいいの」
そう言ってから、そっと地面に降ろしてくれる。
膝の辺りが、まだふわふわしていた。
「次、ことはとチー」
しおりさんが、上に向かって声を張る。
「ことはー、行けそう?」
「いくー!」
上から、ことはとチーの足音が近づいてくる。
土が崩れる音と、チーの爪が石を掴む音。
「チー、その感じ。そのまま、一気にね」
しおりさんの声が、少しだけ真面目になる。
「ことは、チーの首んとこ、変に引っ張らないように」
「引っ張ってないもん!」
文句を言いながらも、ことはの足音はちゃんと声に合わせて動いていた。
ばしゃっ。
さっきとよく似た水音。
チーが、迷いなく浅瀬に飛び込んだ音だ。
石から石へ、四本の足が軽く跳ねる。
ことはの小さな悲鳴と、一緒に混じる笑い声。
すぐに、土を踏む音が二つ分、こちら側に戻ってくる。
「はい、全員無事!」
「ふへぇ……つかれた……」
ことはが、その場にへたりこむ気配を見せる。
チーが、その横で大きく息を吐いた。
「お疲れさま」
しおりさんの声が、少しだけ解け、チーの頭を優しく撫でた。
チーは嬉しそうに尻尾をパタパタと振っている。
「さゆりも、ことはも、チーも、よくがんばりました」
「へへー」
ことはが、わざと得意げな声を出す。
チーが、鼻を鳴らしてそれに乗った。
東の方からくる熱は、さっきよりもさらに弱くなっている。
でも、耳を澄ませれば、まだ小さく爆ぜる音が混じっていた。
何も知らないはずの川が、その音と匂いを、少しだけ遠ざけてくれている。
「……ここから先は、ほんとに何も知らない場所だね」
ことはが、小さく呟く。
「そうだね」
しおりさんの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「だからこそ、ちゃんと考えて進も。さゆりの耳と、ことはの頭と、チーの足でね」
その言い方には、酸っぱい匂いは混じっていなかった。
ただ、少しだけ、湿った土みたいな匂いがした。
私は胸元のブローチを握りしめる。
「……はい」
師匠のいるはずだった方角から、ゆっくり顔をそらす。
川の向こう側の音を、背中で受ける向きに。
崖と川を越えた先の、まだ名前もない音の方へ。
私たちは、また一歩、足を踏み出した。




