フェイズシフター1
森の奥へ向かって走るチーの背で、私はことはの腰にしがみついたまま、胸元のレンズを指先で探った。さっきまで魔術師だった「何か」は、もう息をしていない。あの人の視界は、どこにも繋がっていない。
代わりに私の頭の中には、さっきまで見ていた無数の視界の残り香だけが、まだ砂嵐みたいにざらざらと渦巻いていた。
「お姉ちゃん、そろそろ、あの辺じゃない?」
ことはが前を見たままそう言うと、チーの速度を少し落とした。
風の音が弱まり、代わりに耳に入ってくるのは、木々が擦れる音と、遠くでまだ続いている爆ぜるような音。燃えているのは、私たちの家だ。
「……はい。このまま真っ直ぐ、少し行くと、さっき視界で見た……」
言いながら、私は顔を上げた。見えないはずの空を見上げる癖は、もう直らない。
胸元のレンズに触れ、「ルック」と短く呟く。けれど、さっきまでみたいに一気に視界は開かなかった。頭が重い。神経のどこかがじんじんと痺れている。
「無理しないで。ここからは、私が見るから」
しおりさんが、私の横に並ぶように走りながら声を掛けてくれた。
その声だけで、少し安心する。けれど、今はどうしても、確認しておきたいものがあった。
視界が一つ、ゆっくりと開く。
さっきまで私が使っていた、小鳥の視界だ。森の頭上を滑るように飛びながら、焦げた匂いのする方角を映している。木々の隙間から、黒い煙柱がのぼっているのが見えた。やっぱり、燃えている。
家も、納屋も、全部。
「……ご主人様と、みのりさんは?」
自分で視界を覗きながら、私は口にした。
返事をしたのはことはだった。
「さっきまでは、広場のちょっと南にいたよ。でも今は、見えない」
「多分、森のもっと奥に移動したんだと思う」
しおりさんが補うように言う。
「姿は見えないけど、あの辺りの木の枝が妙に折れてた。人がぶつかったみたいに」
さすがだと思う。しおりさんは、脳筋でバカみたいなところもあるけれど、戦いになると本当に細かいところをよく見ている。私はあの人ほどの直感も、ことはほどの頭の回転の速さも持っていない。ただ、他人の目を借りられるだけだ。
「……このまま、向かいますか?」
私はことはの背中に顔を預けたまま、そう聞いた。
本音を言えば、すぐにでもご主人様に会いたい。声が聞きたい。ここにいるよと、あの優しい声で笑ってほしい。
けれど。
「それがねー、お姉ちゃん」
ことはが、振り向かずに言った。
「さっきの変な奴ら、まだいっぱい残ってるよ」
「……燃えてる家の周りの鎧の人たち、ですよね」
「うん。それと、森の中にも、さっきすれ違ったやつらの足跡がいっぱい。今は広場の方に集まってるけど、時間が経ったら絶対こっちにも来るよ」
お姉ちゃん。ことはの声が、少しだけ真面目になる。
「死んじゃったら、おしまいだよ。もう、お兄ちゃんにも会えなくなるよ?」
胸の奥を、柔らかい指でそっと掴まれたみたいな感覚がした。
「だったらさ、安全なところで待ってよ。お兄ちゃん、絶対迎えに来るもん。怒りながら、いっぱい褒めてくれるんだから」
頭の中で、あの人の声が蘇る。
——勝たなくていいから、ちゃんと帰っておいで。
——かっこよくなくていいよ。生きててくれたら、それでいいから。
ご主人様は、いつだってそう言う。叱ることはあっても、怒鳴ることはない。無茶をすれば、ちゃんと叱られる。でも最後には、必ず褒めてくれる。
だからこそ、余計に会いたくなる。けれど、死んでしまったら、その声は二度と聞けない。
「……ずるいです、ことは」
私は小さく呟いた。
「それ、反則です」
「えへへ。知ってる」
ことはが、少しだけ得意そうに笑った気配がした。
チーが、速度をさらに落とす。どうやら、目的の場所が近いらしい。
胸元のレンズ越しに、小鳥の視界をもう一度狭めて覗くと、地面が広く開けた場所が見えた。焦げた土、踏み荒らされた草、何本かの木の幹には、斬られたような跡が残っている。
ここは、さっき、ご主人様とみのりさんの姿を見つけた場所だ。
「止まるよ」
ことはの合図と共に、チーがぴたりと足を止めた。
私は手綱の音と土を踏む感覚で、ここが広場の外れだと理解する。
「周り、見るね」
しおりさんが先に地面へ飛び降りると、足音を殺して周囲を歩き始めた。草をかき分ける音、鎧の擦れる音。それに混じって、かすかな金属音が耳に届いた。
「……何か、落ちてますか?」
私がそう聞くと、しおりさんはすぐには答えなかった。
代わりに、ことはが「あ」と短く声を漏らした。
「お姉ちゃん、手、出して」
ことはの小さな手が、私の手を取り、掌を上向きにさせる。その上に、冷たくて、硬い何かがそっと置かれた。
指先で探る。丸みのある縁、細かい彫り込み。中央には、少し盛り上がった意匠。裏返すと、小さな留め具と、針。
「……ブローチ、ですか?」
「うん。お兄ちゃんが、いつも胸につけてたやつ」
ことはの声が、少しだけ震えた。
「さっきまでは、ちゃんとついてたのに」
喉が乾いた。
さっきまで燃える家を見下ろしていた時も、魔術師と向かい合った時も、それなりに冷静でいられたのに。今、掌の上の小さな金属が、一番怖い。
「しおりさん……」
私が頼るように名前を呼ぶと、しおりさんは少し息を吸い込んでから言った。
「……師匠は、このブローチを、わざと落としていったのかもしれない」
「え?」
「さゆりちゃんたちに、合流するなって、言いたかったのかも。ここまでは来るって分かってたから、目印みたいに置いていって……その先は、別行動って」
そんなはずは、と言いかけて、言葉が喉で止まった。
あり得ない話じゃない。ご主人様なら、きっとそうする。私たちを巻き込みたくないから。危ない方には、絶対に連れて行かないから。
「だってさ」
しおりさんが、いつもより静かな声で続ける。
「もし合流してほしいなら、ブローチなんか置かないよ。絶対、師匠の方から迎えに来る。怒りながら、『なんで勝手に動いてるの』って言うよ」
想像できてしまう自分が、嫌だった。
それでも、納得してしまう自分がいるのも事実だった。
「……じゃあ、これは」
「『ここで終わりにしなさい』っていう、お兄ちゃんからの合図だと思う」
ことはが、静かに言った。
「この先に来るな、ってこと。だから、行っちゃダメ」
胸の奥で、何かがぐしゃっと音を立てた気がした。
置いていかれた。そう思った瞬間、子供みたいにその場に座り込んで、泣きたくなった。
けれど、泣いている時間はない。
「さゆり」
ことはが、私の手の上にあるブローチを、そっと握り込ませてくれた。
「それさ、レンズの代わりに、使えない?」
「……え?」
「お兄ちゃんの魔力、いっぱい染み込んでるでしょ。だったら、森中のレンズ見るより、こっちの方が、ずっと楽なんじゃないかなって」
私はブローチを胸元に当て、その上から、いつものレンズをそっと重ねた。冷たい金属と、馴染んだ硝子の感触が、服越しに伝わる。
「……ルック」
小さく呟く。
さっきまでとは違う、静かな感覚が頭の中に広がった。
さっきのような吐き気も、頭痛もない。代わりに、細くてしなやかな糸が一本、どこか遠くへ向かって伸びているのが分かった。
「どう?」
ことはが、期待と不安が混ざった声で聞いてくる。
「……見えません。でも」
私は目を閉じたまま、ゆっくりと言葉を選んだ。
「ご主人様の“向き”だけは、少し分かる気がします。すごく、遠くですけど」
「やっぱり、別の所に行ったんだね」
ことはが、寂しそうに笑った。
ブローチを通した視界は、広がらない。けれど、その分だけ身体への負担は少ない。
「……じゃあ」
しおりさんが、立ち上がる気配がした。
「一回、森の奥の遊び場のとこまで戻ろ?」
「うん、賛成」
ことはがすぐに頷く。
「ここでウロウロしてたら、さっきの変な奴らに見つかるよ。死んじゃったらさ、本当にもうお兄ちゃんに会えないんだから」
その言い方が、ずるいと思う。でも、正しいとも思う。
私は、小さく息を吐いてから頷いた。
「……分かった。遊び場まで、戻ろう」
「ただ戻るだけじゃないよ?」
ことはが、いたずらっぽく笑う。
「遊び場なら、私たちの方が詳しいし、罠もあるし、隠れる場所もいっぱいある。“安全な場所”っていうより、“うちらの場所”だもん」
「心強いですね」
しおりさんが、少しだけいつもの調子を取り戻した声で言った。
私は掌の中のブローチをもう一度握りしめ、チーの背に乗り直した。
その時、耳の奥が、きゅっとすぼまるように痛んだ。
風でも木の葉でもない、重い空気の揺れが、鼓膜の裏側を、ゆっくりと撫でていく。遠くの地面を、何か大きなものがこすったような、低い震え。
「……今、何か、聞こえませんでしたか」
思わず、声が漏れる。
「え? なにも聞こえないよ?」
ことはが、首だけこちらに傾けた。
「チーの足音じゃなくて?」
「違います。もっと……重くて、いやな音でした」
自分の言葉に、自分で背筋が冷たくなる。
ことはとしおりさんは、まだ本当の音を取れていない。目が見えない代わりに、耳だけは昔から良かった。そのせいで、聞かなくてもいいものまで聞こえてしまう。
数呼吸分ほどの沈黙のあとだった。
——ドン。
遠くで、地面を叩くような低い音がした。
それに続いて、もう一度。今度は、さっきよりもはっきりと、近い。
「……今のは、さすがに聞こえた」
ことはの声が、わずかに低くなる。
「さっきの変な奴らの足音じゃない。もっと、重い」
——グォォォォォ……。
森の向こうから、喉を絞り出すような咆哮が聞こえた。
鳥たちが一斉に飛び立ち、木々の上でざわめく羽音がした。耳の奥が、先ほどよりはっきりとした風圧でじんとする。
「……行こう」
ことはが、小さく言った。
「遊び場のとこまで、全力で」
チーの体が、ぐっと沈んだかと思うと、次の瞬間には風を裂くような加速が襲ってきた。
私は、掌のブローチと、ことはの腰とを、必死に掴んだ。
まだ見えない“何か”が、森のどこかで目を覚ました。
そう確信するには、十分すぎる音だった。
久しぶりに更新します
本日含め3日間更新します。




