2-3 悪を断つ刃
地下の街にはすえた臭いが漂っていた。
メリアドールは初日、街の臭いを嗅いで大きな衝撃を受けたが、しかしここで受けたものはその比ではなかった。
(この街からは、死の臭いがする……)
昔、宮殿にやってきた野良猫のことを思い出した。
日々の勉強と社交界での生活に追われ、疲れ果てていた彼女にとってたまにやってくる奔放な猫の姿は自由の象徴であり、憧れでもあった。
だがある日、その猫が傷だらけになってやってきた。街の野良猫たちとの縄張り争いでそうなったのだろう、といまになれば分かるし、手当も出来るだろうが、当時七歳だった彼女には無理だった。周章狼狽し、何も出来ず、猫は死んだ。
あの時嗅いだ、胸の悪くなるような臭いに似ていた。
「皆さん、どこかに隠れているんでしょうか? 人気がありませんね……」
暗い路地を照らすのは、ロクジンのカンテラだけだ。頼りなく、ぼんやりとした灯りが照らす土壁とレンガは色褪せており、ところどころが欠けている。そして、路地は網の目のように入り組んでおり、迷路を歩いているかのようだった。
「コープスがこの辺りには出るだろうからな。人は隠れている……はずなんだけど」
「はず?」
ロクジンもどこか訝しがるような口調であることに彼女は気付いた。
「おかしいな、あまりにも人の気配がなさすぎる。
人がいれば、こうはならないはずだろ」
「衣擦れの音なんかも、聞こえてきませんからね。いったい何が……」
二人が不安と不信を抱きながら歩いていると――突然、絶叫が聞こえた。
「なんですか?」
「分からない、でも悲鳴だな。もしかしたらコープスが出てきたのかも」
二人は足音を殺しながら、声のした方向に歩き出した。そこは街の中心、尖塔のある建物の方角だ。足元まで近づくと、その大きさと歴史、そして補修をされないみすぼらしさがあらわになる。
建物からは断続的に絶叫、悲鳴、怒号が響く。
中で何かあったのだろうか、と二人が様子をうかがっていると――
分厚い樫の扉をぶち破り、男が飛び出してきた。
「……!?」
二人とも揃って目を丸くした。飛び出してきたのは粗野な風体の太った男で、暴力で鳴らしてきたのであろう形跡がいたるところに見受けられる。そんな男が白目を剥き、口から泡を飛ばしながら吹っ飛んできた。尋常な有様ではない。
「ロクジンさん、これはいったい……」
メリアドールが問いかけると、ロクジンは引きつった笑みを浮かべた。
「……もしかして、これはあいつらなのかなぁ」
「あいつら?」
「『正義の味方』さ」
ため息をつきながら、ロクジンは建物の中に入っていった。メリアドールも慌てて続く。
入口から入ってすぐのラウンジでは同じように、犯罪者風のいでたちの連中が数名倒れていた。部屋の中にはいくつも力づくで破壊したような痕跡がある。
「表の治安を守っているのは商工会の自警団。
俺もたまに仕事を貰うけど……でも、この街を守っている連中はそれだけじゃない」
「だから正義の味方なんですね」
「基本的にはいい人たちだよ。金勘定のことは考えず、愚直にオスティアの人を守る。
まったく、何を考えているのかわからないよ」
それを言うならあなたもそうじゃないでしょうか、とメリアドールは口まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「ただなんというか、タイミング的には最悪だなぁ」
建物は三階建てになっており、螺旋階段で上層部と繋がっている。踊り場まで着くと、今度は上から悲鳴を上げながら人が落ちてきた。ロクジンは落ちてきた男を反射的に受け止めた。腕の骨が両方とも折れており、痛みに呻き泣き喚いている。
「ヒィーッ、ヒィーッ、何だお前! あいつの仲間かぁ!?」
「違うよ。誰がこんなことを?」
「栗毛の、短髪のガキ……」
そこまで言ったところで、ガクリと首を垂れた。
「栗毛の子供……?」
「なんとなく分かる。いやだけど」
ロクジンが先行して階段を昇り、メリアドールがそれに続く。昇っている間にも肉を打つ鈍い音、そしてくぐもった悲鳴がいくつも聞こえる。そして、二人が三階までたどり着いた。
階段の正面には扉があり、その両脇には守るように大きな鉄鎧がある。扉はすでに開け放たれており、赤いカーペットが目に入る。
カーペットの先には、まるで王座のようにソファが備え付けられていた。豪奢な装飾品な調度品がいくつもあったようだが、いまは無残に躯を晒しているだけだ。
「クソガキが……」
部屋の真ん中には二人いた。
一人はスキンヘッドで、頭頂から右肩にかけてを入れ墨で覆った男。筋骨隆々で、目は血走っており、手には大型のマチェット。構え方は堂に入っており、何人も手にかけてきたことが伺える。
一方で、相対する栗毛の少女はむしろ華奢に見えた。
「有象無象の区別なく、正義の刃は悪を討つ」
薄い片刃の剣。
その切っ先を男に向けた。
「《オスティア自由騎士団》の末席に連なるものとして……」
「ほざけ! 何が正義だ!」
猿叫を上げ男はマチェットを振りかざす。少女がまとっている装甲は鉢金、手甲、胸当て、脚甲と軽装だ。急所だけを守る、致命的な一撃だけを防ぐための防具だ。一発でも当たれば深手を負うだろう。
それでも、全く問題にならない。
「ふっ……!」
空いた左の手で、振り切られる前に少女は男の腕を押さえた。そして剣を握ったままの右拳で鼻頭を殴った。骨が折れ、血が漏れる。
よろめいた男の首筋に、少女は峰を叩きつけた。
「むんっ……!」
もんどりを打って男は倒れた。
すべての動きは基本的なものだ。
しかし、少女はそれを恐るべき速さで行った。瞬きをする間にかの男は倒されていたのだ。メリアドールは、その動きを目で追うのがやっとだった。
「……むっ、まだいましたか?」
「いや、俺たちは違うよ。久しぶりだな、ヒサメちゃん」
ヒサメと呼ばれた少女が振り向いた。
ざっくりと切り揃えられた髪の隙間から、氷のように冷たい瞳が見える。やはり華奢な体つきだと、メリアドールは思った。腕も指も細く、とても戦士には見えなかった。剣も特注されたものなのだろう、握りがかなり小さい。
しかしメリアドールが何より驚かされたのが――
「ロクジン師匠! どうしたんですか、こんなところに!?」
ロクジンの姿を認めた瞬間、氷のような瞳がさっと溶け、花が咲いたように鮮やかな表情を見せたことだ。
「まあ、少し野暮用があって」
剣を鞘に納めると、ヒサメと呼ばれた少女はロクジンに飛びつかんばかりの勢いで迫ってきた。実際飛びつかないところを見ると、少しは理性が働いているのか。
「それより、ヒサメちゃんは何でここに?」
「はい! お師匠様に言われまして……」
コホン、とわざとらしく咳ばらいをしてためを作り――
「悪い奴らをみんな倒しに来ました!」
えへん、と胸を張って言った。
ロクジンは引きつった笑みを浮かべ、「へえ」と答えた。




