第零話 撰 -絵馬-
午後六時の境内に、カツ、カツと鉛筆の音が響く。全神経を集中させて走らせる鉛筆の先にあるのは、やけに古びた一枚の絵馬。『もうこれ以上、俺から何も奪わないでください。』。そう書かれた絵馬に名前を書いて、ため息をつく。
「これ以上は……、もうこれ以上は……。」
そう言って俯く八雲の目には夕日に赤く染められ、血のように見える涙が浮かんでいた。
八雲は少し字の揺らいだ絵馬を震えながらも丁寧に掛け、一度だけ礼をして鳥居へと歩き出した。その曲がった小さな背中が完全に見えなくなるのを待って、一人の女が姿を現した。巫女の装束に身を包み、八雲の絵馬へと一直線に手を伸ばし、その不自然に青白くハリのある指で八雲の名前をなぞる。
「佐藤八雲……。いい名前じゃないですか。」
その瞬間、『佐藤八雲』という文字が生き物のように震え始めた。彼女は気味悪くにやけながら、八雲の名前を爪で弾く。パキリという乾いた音とともに、八雲の名前だけが絵馬から剥がれ落ち、彼女の手のひらへと吸い込まれ、死ぬまいともがく魚のように跳ねた。
「九番目……。私が解放される日も近いですね。さようなら、八雲くん。」
彼女の目は、既に次の獲物を捉えていた。鳥居の外。八雲と入れ替わるようにして、一人の少女が境内の様子を伺っている。黒く塗りつぶしたような目をした少女。世界に何も期待していない、失望しているかのような少女。穴の空いたボロボロの赤いシャツを着た少女。
巫女の瞳に、歪んだ歓喜が宿る。
「なんて美しい目をしているのでしょう。さあ、貴女も願い事を書くのです。その名前を教えてください。」
夕暮れの静寂の中、また一つ、新しい絵馬が掛けられる音がした。それは、凄惨な連鎖の一部なのか、その終わりの始まりなのか。




