エピローグ:サービス残業(という名の逃避行)は終わらない
【王都・秩序サイド】
王立貴族学園の地下、かつて「門」が脈動していた大空洞は、王家直属の騎士団によって厳重に封鎖されていた。
学園の生徒会室、その奥にある隠し部屋。
そこには、勝利の昂揚ではなく、重く湿った疲労が満ちていた。
「チッ! 結局、あのバッタ女にしてやられたってワケ!?」
イグニアが、吊っていない方の左腕でテーブルを殴りつける。
その声は、怒りよりも焦燥に掠れていた。
「イグニア、静かに」
エステルが窘めるが、その声色も硬い。
「ですが……クラリッサ。あの怪人は、自ら『門』を閉じることに協力しました。一体、何が目的だったのでしょう?」
クラリッサは、冷めた紅茶のカップを見つめたまま、分析結果を淡々と紡いだ。
「彼女の行動は、終始矛盾していました。マリエルと共に『門』を開こうとした張本人でありながら、マリエルの儀式を物理的に妨害し、我々に協力した」
彼女は、結論を出すのを諦めていた。
「彼女にとっての最優先事項は、『門の解放』でも『世界の混沌化』でもなかった。……」
「私たちを好きにすると宣言しておきながら、結局は何もせずに姿を消した」
「理解するのをやめました!?」
クラリッサは苦笑し、イグニアとエステルを見る。
イグニアとエステルは、理解の範疇を超えたという顔で押し黙る。
フィラートだけが、苦虫を噛み潰したように呟いた。
「混沌とは、かくも理の外にあるものですぞ……」
その頃、公爵邸の一室では、リオンが父ヴァルカンと、アルフォンス王子に対し、最終報告を行っていた。
「……『怪人』および『マリエル』の逃亡を確認。王都の機能は回復しつつあります。臣民への通達は『王家と公爵家の連携による、魔獣の迅速なる鎮圧』にて統一」
「うむ」
アルフォンスは、窓枠に指をかけ、復興作業が始まった王都の喧騒を見下ろしていた。
「リオン。君の姉、ロザリア・ヴェルデは、公的には『魔獣の騒乱に巻き込まれ死亡』として処理する」
「御意」
「……だが」
王子は続ける。その碧眼には、秩序の守護者としての冷たい光だけが宿っていた。
「『秩序』を脅かす『最重要脅威』として、王家と公爵家の全情報網をもって、その行方を追い続ける。あの『失敗作』が、今や王国最大の脅威とは……実に、非合理的だ」
彼らにとって、本当の戦いは今、始まったばかりだった。
【混沌・百合サイド】
王都から遥か遠く。
月明かりだけが霜のように降りる荒野を抜け、今は森の奥深くに身を潜めていた。
パチ、パチ、と乾いた薪が爆ぜる音だけが響く。
主人公(葵/ロザリア)は、数時間前に解放したマリエルから視線を外し、意味もなく火を掻き回していた。
頭突きで気絶させ、連れ去ってから、彼女は一言も口を聞いていない。
ただ、冷え切った人形のような無表情で、揺らめく炎の先にある暗闇を、じっと見つめている。
仮面の下で、冷や汗が流れる感覚があった。
(……デスマーチ明けの部長より機嫌が悪い)
儀式を妨害したのは私。結果的に世界を救ってしまったのも私。
完全な業務命令違反であり、世界規模のサボタージュだ。
何か言わなければ。得意の謝罪風「状況説明」でこの空気を……。
「あー……マリエルさん? その、乗り心地とか、どうでした? 揺れませんでした?」
媚びるように変えた呼び名も、夜の空気に虚しく吸い込まれていく。
マリエルは、動かない。
気まずい沈黙が、焚火の音を際立たせる。
ロザリアは諦めて、大きくため息をついた。
(もういい。気長に待つか。どうせこいつは私から離れられないし、私もこいつを死なせたくなかった。それが答えだ)
そう割り切って、火に新しい枝をくべようとした、その時。
「……『時代』は、来年に来るとか言っていましたよね?」
冷たく、しかし鈴が鳴るような芯のある声に、主人公の肩がビクッと跳ねた。
「え? あ、言ったかな? 覚えてないな? いや、再来年だった気も……ほら、占いとかってアテにならないし……」
「ふふ」
マリエルが、ゆっくりと振り返る。
その顔には、いつもの、あの——慈愛と狂信に満ちた、邪悪な笑みが、完璧な仮面のように戻っていた。
「来年までに」
マリエルは音もなく立ち上がり、主人公の眼前に立つ。
その冷たい指が、主人公の強固な外骨格(頬のあたり)を、まるで壊れ物を扱うかのように、愛おしそうとなぞる。
「今度こそ、貴女を『完璧』に調教してあげますからね、バッタちゃん」
主人公は、その絶対零度の笑みを、仮面の奥から見つめ返す。
理不尽な上司。
サイコパスな狂信者。
そして——自分が、世界を裏切ってまで守ってしまった、愛すべき女。
「はは」
乾いた息が漏れた。
「ははははははは!」
それは、社畜の諦観か、悪役令嬢の歓喜か。
あるいは、その両方が溶け合った、ただの現実逃避か。
「ふふふ、あはははは!」
マリエルの甲高い笑い声が、それに応えるように重なる。
混沌が去った後の静かな夜空に、二人の狂った笑い声だけが、いつまでも響き渡っていた。
悪役令嬢、バッタ怪人に改造される(予定はなかった)
完




