第14話:バッタちゃん誕生(SAN値直葬RTA)
「スローライフはどこ行ったのよぉぉぉ!!」
私の絶望的な叫びは、しかし、次の瞬間にかき消された。
村人たちの詠唱が、その質を変えたのだ。
もはやそれは人間の言語ではなかった。喉の奥、魂の底から絞り出すような、次元そのものが軋むような冒涜的な音の連なり。
(う、るさい……!)
音だけではない。
空気が重く振動し、足元の石舞台が冷たい心臓のように脈打つ。まるで、目に見えない巨大な何かがすぐそばで息を潜め、その呼気が私という存在を押し潰しにかかっている。
そして、それは来た。
私の脳の、一番柔らかい場所へ、直接。
――(■■■■■、■■■は■■にして■■■)――
「ッ……!?」
意味をなさない音の洪水。
いや、違う。これはノイズではない。
理解してはいけない、理解すれば最後、二度と「人間」には戻れない、宇宙の真理。
人間の脆弱な精神構造(OS)が対応していない、高次元からの情報。
これこそが、彼らの言う「神々の囁き」。
これこそが、純粋な「狂気」。
常人ならば、この冒涜的な叡智に触れた瞬間、脳が焼き切れ、自我が溶解し、ただの「器」へと成り下がるはずだった。
私は、確かに、頭が内側から割れそうだった。
だが。
(……うるさい)
(ああ、もう……本当に、うるさいなぁ……!!)
この感覚を、私は知っている。
前世で、何度も、何度も、浴び続けた。
(連日徹夜のデスマーチ明け、夜が白む午前6時。誰もいない静まり返ったオフィスで一人、バグだらけの仕様書(という名の願望リスト)を読み解いている時の、あの静かな、だが確実な狂気……)
(あれに比べれば、神々の囁きなんて、随分と情緒的じゃない?)
――(■■■! 我らが■■に■■を!)――
(ああ、はいはい。声が大きい。ボリュームを少し下げてほしい)
(ていうか、前世の部長が放った理不尽な叱責のほうが、よっぽど私のSAN値削ってきたわよ)
脳内で、二つの音が重なる。
宇宙の真理()と、部長の罵声。
「なぜ出来ない!?」(■■■!)
「仕様書が悪い? 言い訳だ!」(■■は■■にして!)
「君のやる気の問題だ!」(我らが■■に■■を!)
(……あの意味不明なロジックの暴力に比べれば、宇宙の真理()なんて、筋が通ってるだけマシだわ)
私の精神が、前世で徹底的に鍛え上げられた「異常な理不尽へのストレス耐性」によって、旧支配者の狂気を「いつもの職場のノイズ」として無意識下に分類し、処理し始めた、その時。
精神ではなく、今度は肉体が悲鳴を上げた。
「が……ッ、あ……!?」
痛い。
骨が、内側から組み替えられる。皮膚が引き裂かれ、既存の肉を押し退けて、硬質な何かが表皮へと張り付いていくのが分かる。
(いっ……たぁ……!!)
これは、さすがに痛い!
前世で、過労からくる慢性的な胃痛と腰痛と頭痛のトリプルコンボを抱えていたが、それとは根本的に質の違う、鋭い、「改造」の痛みだ。
背中が、まるで硬い翼でも生えるかのように、灼けるように熱い。
両足が、バキバキと音を立てて、人間のものではない、あり得ない力に満ちていく。
視界の端が、一瞬、カクカクとした昆虫のそれ(複眼?)に切り替わるが、すぐに元に戻る。
(……ああ、でも。あれよりはマシかも)
痛みに喘ぐ意識の片隅で、私は冷静に比較していた。
(……納期前日、すべてが順調だと思っていた深夜2時に、クライアントから届いた全リテイク(という名の全面仕様変更)のメールを開いた時の、あの胃が焼けるような絶望感に比べれば……)
(……物理的な痛みなんて、ロキソニンでも飲めば、いつかは治るし)
私の意識は、迫りくる精神的な狂気も、現在進行形の肉体的な変貌すらも、「社畜時代の絶望的な苦痛」との比較対象として認識し、耐えきってしまった。
やがて、嵐のような詠唱が、ふっと止んだ。
私を押し潰していた圧力も、骨を組み替える痛みも、嘘のようにすっと引いていく。
耳鳴りがするほどの静寂が、広場を支配した。
石舞台を囲む村人たちが、息を呑んで私を見つめている。
マリエルの両親も、固唾を呑んで「結果」を待っている。
彼らが待ち望んでいるのは、自我が砕け散り、神の言葉を垂れ流す、新しい「器」のはずだった。
私は、ゆっくりと、軋む体を石舞台の上で起こした。
体は……動く。
着せられた貫頭衣は所々が裂け、そこから覗く肌は、月の光を鈍く反射する、見慣れない緑色の硬い皮膚(外骨格?)に覆われていた。
手足に、妙な力がみなぎっている。
私は、自分を生贄にした張本人――石舞台の下で、期待とも不安ともつかぬ目で見守るマリエル――を見下ろした。
そして、三日徹夜明けの社畜が放つような、乾ききった声で言った。
「……で? これで、終わりですか?」
その、あまりにも「正気」に満ちた一言に、村人たちが「ひっ」と短く息を呑む。
儀式は失敗したのか、と彼らが絶望に顔を歪めた、まさにその時。
「…………素晴らしい」
マリエルだけが、歓喜に打ち震えていた。
「ああ……! なんてこと! 正気を、保っていらっしゃる……!」
彼女は、恍惚とした表情で私を見上げ、まるで神を迎えるかのように両手を広げた。
「ついに、ついに誕生なさいました! 我が神の言葉を、人の身のまま、正気で受け止めることのできる、完璧な『使徒』様が!!」




